■御誓文発布とその儀式——背景と狙い

 これからしばらくのあいだ御誓文について考えてゆきます。御誓文発布にいたるまでの新政府の動きについては、前回の最後の部分に示した通りです。

 旧幕府政権の退場があり、同時に新政府の登場があります。両者は重なりあいながら進み、入れ代わっていきます。その新旧交代劇の事実上の決着は、慶応4年4月11日の「江戸城開城」(=倒幕軍入城・慶喜の水戸への退去)だとされています。(注)
 「五箇条の御誓文」発布は、それより約1か月前の、同年3月14日ですから、新政府は、倒幕の軍勢を江戸へ向けて進軍させている、まさにそのまっ只中において、京都御所紫宸殿の儀式を挙行させていたことになります。
(注)江戸城無血開城の是非については改めて触れる機会があると思います。

 優勢とはいえ、いまだ決着を見ない時点で、新政府が儀式の挙行を急いだのは、新政府の統治理念をうたいあげることで、新政府の樹立という “区切り” を内外に印象づけたい、それも早ければ早いほどよい、ということだったと思います。
 ここで「内外に」と書きましたが、「内」とは公卿・諸候を指します。彼ら旧支配層に呼びかけて、新しい政府のもとへの政治的結集をはかる必要があったということです。
 また「外」とは条約締結国です。諸外国に対しては、新政府こそが日本政府であること、日本を統治するのは幕府ではなくて新政府であることを認知させる必要がありました。

 いまひとつ、新政府が事を急いだのは、同年同月、新政府側(西郷隆盛)と旧幕府側(勝海舟)との間の、江戸城無血開城をめぐる交渉に妥結成立の見通しが立っていたことも、大きく影響したのではないでしょうか。実際に交渉が成功したのは、奇しくも3月14日、御誓文儀式の当日でしたが、それ以前の交渉の段階から、無血開城への流れは動かしがたいものとなっており、新政府の勝利は約束されたも同然でした。であるからには、それに備えるべく、一日も早い「新政府の樹立宣言」が待たれたのではないでしょうか。

 実は西郷隆盛(新政府側)と勝海舟(旧幕府側)との間をとりもって、両者を交渉・妥結へと向かわせたのは、英国公使パークスとその通訳官アーネスト・サトウの水面下の斡旋工作によるものだとされています。

英国公使パークス 通訳官アーネスト・サトウ

英国公使パークス(左)と通訳官アーネスト・サトウ

 彼ら英国人は、勝に向かっては、 “統治権力の「移行」はできるだけ穏便に済ませるのが賢明だ“ と囁き、西郷には、 ”江戸城総攻撃というのは得策ではない、その作戦だとむしろ早期決着が困難になる“ と説いたに違いありません。
 その上でパークスは両者を前にして、(自国が侵略した)印度や清国の例を挙げて、江戸城をめぐる全面的武力衝突は、内戦の全国化に、ひいては国家独立の危機につながりかねない、と脅し半分の説得を試みたものと察せられます。

 当時のパークスたちは、自国の国益の立場から、たとえばこんなふうに考えていたのではないでしょうか。下司の勘ぐりと言われるかもしれませんが、あえて書きますと。
  “われわれは目下のところ、ペナン、マラッカ、シンガポールなどの植民地化事業に忙殺されている。いま日本を舞台に揉め事が起こると、仏国や米国も黙っていないだろうし、厄介なことになりかねない。したがって、戦争の火種になるような武力衝突はあらかじめ取り除くか、すでに始まっている衝突については早期収拾をはかるのが、賢明な選択である” と。この観点からすると自ずから結論は、統治能力の衰弱した幕府政治=幕藩体制を見限って、「天皇のもとに結集する雄藩連合」政府構想に与する、となるはずです。

 この点に関する「山川日本史」(前掲書)の指摘は、問題の領域を限定しています。曰く、
 「パークスは全面的な内乱が広がって貿易の発展に悪影響を及ぼすことを警戒して、新政府軍の江戸武力攻撃に反対していた」と。
 しかし英国公使たちは、対日関係というものを問題にするばあい、貿易という限定的な領域をはるかに超えて、英国のアジア植民地戦略の全体のなかで考えていたのではないか、というのがぼくの印象です。
 若干、議論が脇に逸れた感じをなしとしませんが、それらをも含めて御誓文前夜の情勢というのはこういう感じだったのではないでしょうか。

 さて、御所紫宸殿における「五箇条の御誓文」です。この宣言は、新政府の統治理念(=国是)を掲げ、新国家の樹立を広く内外に知らしめるものでした。その際、五箇条にまとめられた国是の内容が第一義的に重要なことは言うまでもありません(これについては後に詳論します)。ただ、その五箇条の内容に負けず劣らず大切だったのは、その御誓文を包みから出してお披露目する儀式そのもの、その形式でした。
 問われていたのは、「諸事神武創業之始ニ原」く「王政復古=天皇親政」国家の樹立を、どれだけ演出できるか、というこの一点だったと思います。知恵者は参与・総裁局顧問の木戸孝允だったと伝えられています。

 天地の神々を祀り、その祭壇を前に、公卿・諸候・徴士など群臣を背にして、「天神地祇御誓祭」と称する儀式が執り行われた、それが御誓文お披露目の儀式だった、ということです。神祇事務局によるさまざまな神式の行事・儀式が醸しだしたであろう独特の雰囲気の中で、三条実美・議定兼副総裁が天皇の代わりに神前にて、まず御誓文を奉読し、続いて勅語を読み上げたとされています。
 儀式を企画演出した木戸たちは、公卿や諸候などに向けた天皇のメッセージを「勅語」というかたちで宣布し、それとセットで「奉答書」なるものをあらかじめ用意していました。

 「勅語」(主語=天皇)は、 ”「王政復古」という未曾有の変革を遂行せんがために、ここに日本国の国是を確定した、この趣旨に基づいて協心努力するように” というものです。
 「奉答書」(主語=公卿・諸候)は、”謹んで天皇のご意向を承りました、死を誓い、勤勉に従事し、天皇をご安心させます” というもので、要するに、天皇への臣従の意志を表明した文書です。
 木戸ら儀式主催者がもっとも重視していたのは、この「奉答書」への署名です。天皇が天地神明に誓約した以上、その場を共有した参加者には天皇の誓約を共有してもらわなければならない、血判とまでは言わないけれども、それ相応の決意を表明してもらわなければならない、そういう論理だったと思います。

 別言すれば、儀式参加者の全員から署名をとる、署名の拒否あるいは無視は許さない、という雰囲気。儀式全体をそういうふうに組み立てていたということでしょう。(注)
 3月14日当日の署名者は411名。署名していない当日欠席者についても、後から追いかけて署名させており、最終的な署名者総数は、公卿・諸候で544名、その他(徴士・貢士など)で288名と報告されています。
 「奉答書」への署名を迫ることで新政府は、旧幕府政治とはまったく次元を異にした「天皇親政」時代の始まりを周知徹底させたい——そういう狙いだったのではないでしょうか。

(注)たとえば、新政府支配機構のメンバーとしての採否の判断材料として、署名が “踏み絵” のような役割を果すらしい、みたいな噂を流していたかもしれません。