天皇について(25)

たけもとのぶひろ[第77回]

浅野茂勲(長勲)1842~1937

浅野茂勲(長勲)1842~1937

■「慶喜・辞官納地」をめぐる攻防

 前回、小御所会議段階における親幕府勢力と新政府勢力との力関係について、少し述べたところでしたが、会議の実際の流れ・有り様をイメージする一助として、出席者の構成を以下に示すところから始めたいと思います。

 明治天皇。《総裁》1名(有栖川宮親王)。 
《議定》10名。皇族2名、公家3名、諸候列藩代表5名。 諸候内訳は以下の通り。
【親幕府藩3藩】徳川慶勝(尾張藩)、松平春嶽(越前藩)、山内容堂(土佐藩)。
【反幕府藩(新政府側)2藩】浅野茂勲(後の長勲・芸州藩)、島津茂久(久光は後見人にして父・薩摩藩)。
《参与》16名。 【公家】岩倉具視ほか4名。 【藩士】総数11名。内訳は以下の通り。
【親幕藩士6名】尾張藩士2名、越前藩士2名、土佐藩士(後藤象二郎を含む)2名。
【反幕藩士5名】芸州藩士2名、薩摩藩士(西郷・大久保を含む)3名。

 これを見ていて感じることを思い浮かぶままに書いてみます。たとえば、こんなことです。

 •全体の印象からすると、親幕府側は諸候と藩士で9名。対する新政府の側は、9日未明に幕府側公家を御所から排除し参内を禁じており、(皇族はもとより)出席の公家は全員新政府側のはずですから、全部で18名になります。これだけを見ると、新政府側が倍する数で親幕府勢力を圧倒しているかにみえます。
 •しかし、皇族や公家にして議論巧者というのも余り考えにくいので、両者を除いた藩士・藩侯のみで見ます。と、親幕府側が9名、新政府側は7名と逆転します。
 •さらに、実際に論争した人間についてみると、親幕府側は、まず議定の3者(慶勝・春嶽・容堂)、彼らはいずれも列候会議のメンバーとして場数を踏んでいます。加えて参与の土佐藩・後藤象二郎がいます。対する新政府側は、議定が2人、参与が2人ですが、議定の浅野茂勲と島津茂久は列候会議の経験がなく、場慣れしていません。その不利をカバーしたのは参与の2人、公家の岩倉具視と薩摩藩士の大久保利通だったと伝えられています。

 このように、論争者の数では親幕府側4名vs新政府側4名、と同数であっても、議論のテクニックは前者のほうが数段上なわけですから、その場の雰囲気をつかみ、やりとりの流れを主導したのは、むしろ親幕府勢力だったと考えてよいのではないでしょうか。

 そこで、結論、どうなったか、です。——会議の流れが不利に傾きつつあることを察知したのか岩倉は、公家たちの私語に因縁をつけ、会議を休憩に持ち込み、その間に野外警備指揮中の西郷隆盛と会います。そのとき西郷は、岩倉に向かって言います。「短刀一本あれば方がつく」と。 “刀にかけても方をつける、いざとなったら非常手段をとる、妥協はない” ということです。新政府にたいする西郷の覚悟を聞いて “よしっ” とその気になった岩倉は、ひょっとしたら水面下で脅し半分の文句をちらつかせつつ、表の会議の流れを取り戻し、なんとか政府の「辞官納地」案を呑ませた——というのが実状だったのかもしれません。

 このエピソードは『浅野長勲自叙伝』にあるそうです。もちろん通説では、『自叙伝』以外に有力な証言がないところから、武力倒幕派が親幕府側を圧倒して慶喜に「辞官納地」を命じる案を決定し、承諾させたことになっています。しかし、浅野長勲(当時は茂勲)以外に証言がないのは、岩倉が西郷とのやりとりを直に漏らした、その場の相手が浅野であり、しかも当の浅野としては話が話なので他言無用と心得た——ということではないでしょうか。時が流れ、自叙伝を書く段になった浅野は、 “もはや時効” と判断して思い出話をしたのではないでしょうか。

 『浅野自叙伝』に沿って考えたほうが、「小御所会議」後の慶喜および親幕府側の行動を無理なく理解できるのではないかと思われる点がいくつかあるので、指摘します。

 •12月10日、慶喜は、「小御所会議」の結末を不服とする、薩摩攻撃の急先鋒・会津藩を抑えていったん大坂城へと引きあげる一方、征夷大将軍廃止ののちも「上様」として全国支配に臨む意思を表明します。今後も自分を「上様」と呼ばせるということです。
 •同月14日、慶喜は新政府・出納係の出金申し入れに対して、金5万両を与えて余裕のあるところを見せています。
 •同月16日、慶喜は大坂城にて米・英・仏・蘭・伊・普6か国大使と会談、幕府が依然として外交権を保持することを認めさせています。
 •同月19日、慶喜は朝廷に対して、「大号令」の撤回、幕藩体制の継続、などを要求します。22日、朝廷は慶喜の要求をほぼそのまま認めています。
 •以上の経過の中で、小御所会議の決定「辞官納地」は骨抜きになり、事実上ないのも同然となります。

こうみてくると、慶喜と親幕府側は、いったん押し込まれたのを巻き返して、劣勢を挽回したというよりも、もともと優位に立っていたのではないか、その優位はとくに慶喜の心の中ではまるで揺るがなかったのではないか——そんな気がしてならないのです。

 先述の『浅野自叙伝』の当該部分について、ぼくは信憑性があると思っています。西郷隆盛は岩倉具視に対して囁いたに違いありません。「短刀一本あれば方がつく」と。
 それはとりあえず、 “いざとなったら武力で方をつける” ということ、 “最終的には武力に訴えても方をつける” ことを意味しているように聞こえます。決意の不退転さを伝えている、ということです。

 しかし、より正確に言えば、「短刀一本がなければ方はつかない」というのが本心だったのではないでしょうか。 “武力に訴えることによってしか” 慶喜のクビを取ることはできないし、その領地を返納させることはできない——それくらいのことは、西郷としては先刻承知だったと思います。勧告では決着がつかないことを承知していたからこそ、事柄に着手する10月の段階から、決着のつかない・来たるべき日に備えたのではないでしょうか。

 その日のための備えとは、その当時から薩摩藩が江戸の藩邸に攘夷派浪人を集めていた事実を指します。「天璋院様御守護」のための浪士隊の結成ということが名目でした。しかし実際の目的は、江戸の暴力的攪乱工作にありました。彼らは、押し込み、略奪、強請、放火、辻斬りなど、何でもありの悪事を働きましたが、ついにはこれ見よがしに薩摩藩邸に逃げ込んでみせるまでに及んだそうです。

 決定的だったのは、薩摩藩邸の浪人たちが江戸市中取締の庄内藩屯所を襲撃したことでした。庄内藩の報復は当然です。庄内藩を中心に親幕軍全5藩の藩兵が、12月25日未明、薩摩藩邸を包囲します。砲撃・突入・放火の末、藩邸は全焼します。
 この報せが慶喜のもとに届いたのが同月28日。大坂城は “薩摩撃つべし” の主戦論で沸き返ります。その声を抑えることのできない慶喜は、討薩を上表し、京都へ向けて進軍を開始することになります。慶喜は西郷の目論見にはまったことになりますし、西郷としては慶喜を決着の戦場に引きずり出したことになります。

 このあとの歴史は広く知られるところです。年代記を見ておきましょう。
 慶応4年1月3日 鳥羽・伏見の戦い。旧幕府軍、薩長軍に敗れる。朝廷、薩長軍を官軍と認定し、錦旗を与える。旧幕軍は朝敵となる。戊辰戦争始まる。
 同年同月6日 慶喜、軍を捨てて大坂城を脱出、天保山沖の米艦に逃げる、海上を江戸へと逃走。
 同月7日 勅して慶喜の罪を声明、征討の大号令下る。
 同月15日 新政府、王政復古を外国公使に通告。諸外国は局外中立を宣言、新政府軍を徳川家・条約締結国と対等の交戦団体として認知する。
 同月27日 慶喜、隠居恭順奏上を決意。
 同年2月12日 慶喜、上野寛永寺に蟄居、恭順謝罪を表明。

 この1か月後が「五箇条の御誓文」です。これについては次回から考えることにします。