長旅のための休息地~桶川宿~

吉岡達也[第19回]
2015年7月13日

「桶川宿」(渓斎英泉)

「桶川宿」(渓斎英泉)

 もし中山道を舞台としたフルマラソン大会を企画したとしてゴールを東京・日本橋に設定した場合、スタート地点は桶川宿(埼玉県桶川市)ということになる。日本橋から40キロメートルほどの距離。実は桶川宿こそが江戸時代に「ななつだち」で日本橋から京を目指す旅人にとって、一日中歩き通した際の最初の宿泊地だった。板橋宿(東京都板橋区)から数えて6番目の宿場である桶川宿は、長旅の主要休憩地点として知られていた。逆の言い方をすれば、京都・三条大橋から歩き続けてきた旅人にとって江戸入り直前の宿場という性格を持ち合わせていた。
 今日、「桶川」というまちに関する知名度は、一般的にあまりないことは否定できない。エンターテインメント業界に詳しい人ならばアイドルの元シブがき隊メンバーで俳優の本木雅弘さんの出身地として知られているようだが、それ以外ではどうも印象が薄い。一言でいえば典型的な関東近郊都市のひとつということになる。
 隣の埼玉県上尾市と比較してもイメージが弱い。たとえば桶川市の人口は現在7万3000人ほどだが上尾市の人口は約22万4000人。人口比でいえば桶川市は上尾市の3分の1ほどの規模ということになる。
 ところが江戸時代となるといささか状況が異なる。1843(天保14)年時点で桶川宿の人口は1444人。これに対して上尾宿の人口は793人ということだから、桶川宿には上尾宿の2倍近い人口があったことになる。ちなみに「武蔵国一宮」氷川神社を有した大宮宿の人口が1843年当時1504人で桶川宿とほぼ同じだった。市と宿、もちろん単純比較はできないが、少なくとも江戸期、桶川宿は中山道でも大きな宿場であった。こうしてみていくと、むしろ江戸時代のほうが、「桶川」の知名度は高かったといえる。
 日本橋を出発して中山道を歩いていくと、桶川宿に近づいたあたりでようやく本格的に江戸期の街道筋の面影を感じることができる。ことに桶川宿周辺には、江戸時代からの旅籠であり現在もビジネス旅館として使われている国登録有形文化財、武村旅館(江戸当時の宿名「紙屋半次郎」)があったり本陣跡が残るなど当時の建物を今も目にすることができる。桶川府川本陣には1861(文久元)年に皇女和宮が宿泊した史実がある。

武村旅館。江戸期の旅籠が今日まで残った貴重な建築物だ

 桶川宿周辺が今日までまちなみを維持することができたのは、行政などが主体的に歴史的建造物を守ってきたというよりは欧州の古都のまち並みと同様ごく自然に歳月を刻んでいったことに起因する。なにか無理やりに誰かが手を加えると、まちは例外なく無個性な生気の無い存在となるものだ。ほとんどの首都圏近郊都市の駅前がどこも平板なまち並みとなっているのはここに理由がある。これに対して桶川宿中心部は道路の配置の関係で大規模商業施設や企業が進出しづらかったことが、結果として古い商家が建ち並ぶまち並みを残すことにつながったのだろう。

街道筋に往時を思わせる建物が点在する(桶川市)

街道筋に往時を思わせる建物が点在する(桶川市)

 さて江戸時代、桶川周辺は全国屈指の紅花の産地として知られた。生産された紅花は「桶川臙脂(えんじ)」と呼ばれ、多くが中山道を経て京などに向け出荷された。もともと桶川産の紅花は当時から全国一の生産を誇っていた出羽(現在の山形県)の「最上紅花」の種を手に入れたことから始まった。気候や土壌が栽培に適していたこともあって品質が良く、桶川周辺には多くの豪商が生まれた。この流れが桶川宿全体の発展にむすびついた。
 しかし、明治期に入って化学染料などの台頭により、紅花業界は急速に衰退していく。1970年代ごろから、「べに花の里」桶川を復活させようと地元で様々な取り組みがなされており、市の施設「べに花ふるさと館」も整備された。まちの歴史の承継という意味で非常に有意義な取り組みということができる。

かつて周辺は全国屈指の紅花の産地。いまもあちこちでその面影を残す

かつて周辺は全国屈指の紅花の産地。いまもあちこちでその面影を残す

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 桶川宿の中心部には1557(弘治3)年開基の大雲寺がある。ここには1713(正徳3)年建立の「女郎買い地蔵」がある。伝承によると本堂脇にある3体の地蔵のうちの1体が毎夜飯盛り女のもとに通っていることに頭を悩ませた住職が、背中に鎹(かすがい)を打ちつけ鎖でつなぎ動けないようにしたということだ。今も残る鎹がどこか生々しい。どうやらこの話は、寺の年若い僧が飯盛り旅籠に通っていたのを地元の人に見られたことから、地蔵がその身代りになったのが真相のようだ。いわば若い僧に対する戒めのようなものだったらしい。

背中のかすがいがインパクトのある「女郎買い地蔵」(大雲寺)

背中のかすがいがインパクトのある「女郎買い地蔵」(大雲寺)

 ともあれこの逸話だけでも、「歓楽街」としてのはなやぎをみせていた往時の桶川宿の一端を垣間見ることができる。

 まもなく、桶川の夏の風物詩「桶川祇園祭」が開かれる。祭りの起源は江戸中期、元文年間にまで遡ることができる。今年も7月15、16日に市内中心部の中山道を山車や神輿が練り歩く。これもまた桶川の持つ豊かな歴史を表している。遠い夏、江戸を立った旅人にとって祭りは京への憧れを膨らませ、京から来た旅人には郷里を懐かしむ気持ちを高めたに違いない。桶川は関東における東西文化の十字路でもあった。
 明治以降、薩長の「文化破壊」の渦にかき回されなかったまちだけが持つ贅沢感がそこにある。