まもなくお江戸へ(大宮宿~蕨宿)

吉岡達也[第16回]
2015年6月10日

「大宮宿・冨士遠景」(渓斎英泉)

「大宮宿・冨士遠景」(渓斎英泉)


 江戸時代、旅人たちが京都・三条大橋から中山道六十九次(全長約540キロメートル)を歩き続け、ようやくお江戸入りを実感できたのが、現在の埼玉県南部の3宿、大宮宿(現在のさいたま市大宮区)、浦和宿(現・さいたま市浦和区)、蕨宿(現・蕨市)だった。ここから当時の戸田川(現・荒川)を船で渡ると、いよいよ中山道の江戸の玄関口、板橋宿(現・東京都板橋区)へ足を踏み入れることになる。
 先週末、そんな往時の行程を追体験してみようと、日ごろの鈍った身体に鞭打って、3宿(約18キロメートル)を歩いた。
 大宮宿、浦和宿、蕨宿という3宿は、それぞれ宿場町の異なる性格を持っている。
 まず蕨宿(1843年当時、人口2223人)。文字通り、一般の人が思い描く典型的な宿場町だ。多くの宿場同様に江戸時代初期に幕府により整備され、20軒を超える旅籠や茶屋が軒を連ね、地域のターミナルとしてにぎわいをみせた。
 続いて浦和宿(1843年当時、人口1230人)。ここは元々宿場町というよりも、主要な宿場同士の中継基地的な色彩を持っていた。浦和宿周辺は戦国時代以降野菜などの市が盛んで江戸期以降も商家が立ち並び、旅籠の数を大きく上回っていた。そのため、宿場という点でいえば3宿で比較して最も小規模だった。
 そして大宮宿(1843年当時、人口1508人)。以前から、関東一帯に200以上ある氷川神社の総本社である「武蔵野国一宮」大宮氷川神社の門前町として栄えていたところであり、いわば後付けとして宿場町が整備された。江戸初期には、神社の参道自体が中山道として利用されていたが、その後の旅人が急増したこともあって参道脇に新たな街道が造られた。宿場の規模こそ蕨宿に劣ったものの、参勤交代の大名などが好んでこの地で宿泊したという。

大宮氷川神社の参道

大宮氷川神社の参道

 さて、今回は思いつきで歩いたわけだが、往時を直接感じられるような場所はなかなか見つけられなかった。大宮氷川神社の参道はケヤキやクスノキの巨木の緑とアジサイの華やかさによって往時の雰囲気を満喫できたが、概して多くの道路は歩きづらく、ひっきりなしに通る車が江戸情緒に浸ろうという気持ちをそいでいく。どこの商店街もこれといった個性が感じられず、せいぜい街の違いを感じたのは商店街のサッカーJリーグ「大宮アルディージャ」のフラッグが区をまたいで、いつしか「浦和レッズ」のフラッグへと変わった時ぐらいだった。
 それでも、蕨宿周辺で道路沿いにあった生活用水からは、江戸期に宿場に造られた堀の面影を感じた。かつての宿場遺産として自治体などが積極的にPRしていない場所の方がかえって往時の雰囲気を醸し出していることが興味深かった。

中山道沿いの古民家(蕨宿)

中山道沿いの古民家(蕨宿)

 また、浦和宿と蕨宿の間にある調(つき)神社は平安期以前の創建。いわゆる「租庸調」の年貢の出荷先だった場所であり、うっそうとした緑が残る。狛犬ではなく狛うさぎが鎮座しており、何とも愛らしい。調の呼び名である「つき」が「月」に変じ、そこからうさぎへとつながったという。

調(つき)神社の「狛うさぎ」

調(つき)神社の「狛うさぎ」

 神社入り口にはペットは境内には入れないとの看板が。通りがかったトイプードルを抱いた老婦人が「この子(犬)といっしょに境内に入りたいと思っているんですけど、叶わないんです。うさぎの神社なのにねえ」とこぼしていた。もしペットがうさぎならば、境内に入れる可能性はあるのかなどと、ふと思ったりした。
 閑話休題――。
 今回の街歩きを通じて感じたことは、かつての宿場の地域と、宿と宿を結ぶ「宿外れ」の地域との空気感の違いだ。あくまで主観でしかないが、かつて宿場町として栄えた場所を歩いていると、長年人々が暮らしてきた土地の重みのようなものを肌で感じる。たとえ街自体がありきたりの商業施設などに変わっていても、どこか懐かしい生活の雰囲気が残っているのだ。その一方で、街道沿いが畑地などに過ぎなかったエリアはあっさりしており、空気の濃密さなどは伝わってこない。
 おそらく、街とは、何代もそこに人が住み継いでいくことで知らず知らずのうちに熟成されてくるものであり、人々の思いのようなものがそこに堆積していくのだろう。
 明治末期から大正期にかけ、汽車など交通手段の進展に伴い首都圏近郊の中山道の利用度はどんどん低下していった。しかし、1923(大正12)年の関東大震災の際には、都心から数多くの人々が中山道を利用して、被害が比較的軽微だった埼玉方面に向け避難したという。正に中山道がライフラインとして重要な役割を果たしたのだ。何気なく利用している道ひとつとっても数多くの歴史が眠っていることを実感する。
 ともあれ、日々の運動不足と不摂生がたたり典型的なメタボ体型へと化した私自身にとって、ハーフマラソンに近い距離を無理なく歩けたことは健康面からも少なからず自信になった。ただ、ひたすら歩く。今風にいえば、さながら精神的な「ライザップ効果」も期待できそうだ。
 それにしても旅に出たい。中山道の真骨頂ともいえる木曽路を歩きたい。これが、芭蕉がいうところのそぞろ神というものなのか。