[編集部便り]
どうでもいいことですが……。(9)

 健康志向という事もないし、趣味にしているわけでもないが、駄犬と暮らすようになってからのこの数年、その必然に促されて、一日2~3回、サカリのついた時期には10回近く! 駄犬と近所の散歩が日々の重要な日課になってしまった(今、気付いたのですが「サカリ」は漢字で「十八女」と書くのですね。パソコンで文字変換をしたら、いの一番に「十八女」とでてきてビックリしました。実に意味深であります。妄想が妄想を呼び、あまりにも生々しいので、当方あえてこの文字をさけ「サカリ」を採用することにします)。
 今日は、そんな散歩にまつわるどうでもいいようなことをちょっと。

 散歩コースにしている住宅地、時々、瀟洒な家の入口に「ご自由にお持ち返り下さい」などと、サインペンで控えめに書かれたメモ用紙をそえて、タイトルが直ぐ分かるようにと、束を上にむける配慮も怠らず、キチンと並べられた、書籍入りの段ボール箱を置いていてくださるお宅がある。
 書籍との関わりを生業としている私としては、その度、つい、そちらに目が行ってしまい、散歩の先を急ぐ駄犬のヒモをグイとたぐり寄せては、段ボール箱を覗き込んで、束のタイトルを一冊、また一冊と丹念に目で追う事になってしまうのであった。

 これだけ毎日頻繁に近所を散歩していれば、このお宅に限らず、同様の趣旨で自宅前に本を並べて置いてくださる愛書家を見つける事は別に珍しくないが、今挙げたお宅の入口に置かれる段ボール箱は、並べられる本の内容が何時も私を引きつけずに置かない点で、他のお宅と異なっているのであった。
 表紙は黄ばみ、カバーも既に失われたような、岩波文庫、同新書、それに教養主義路線を走っていた頃の角川文庫、更には中国の古典など、雰囲気として、「大正教養主義」というか、我々の世代が伝説的に聞かされて来た、祖父の時代のいかにも「旧制高校的な匂い」を醸し出すようなラインナップなのであった。ハッキリしているのは、どの一冊をとっても、ブックオフでの価値評価は「ゼロ円本」ばかりだと言う事である。
 しかし、商売柄、かつて私が目を通したことのある本や、志半ばにして「積読」に甘んじざるを得なかったような本も少なくなく、このまま打ち捨てておくには忍びなく、いっそのこと全部を持ち帰りたくなるような気にさせられる段ボール箱なのだが、残念ながら、日頃、散歩途中の「拾い物」が多すぎる云々と、苦情が絶えない私への社内の風当たり事情もあり、「お持ち帰り」は厳選の上にも厳選せざるを得ない事情がある。

 二週間くらい前だろうか、件のお宅の入口にまた段ボール箱が出ていたので、のぞいてみると、やはり今回も見捨てるに忍びないようなラインナップになっている。しかし、厳選せざるを得ない事に変わりはない。いかに愛惜の情止みがたしといえども、読む見通しがない本には心を鬼にし、あくまでも、近日中に読む見通しが立つほどに、具体的な興味を引いた本のみを選ぶ事、将来読むかもしれない、あるいは、読まないまでも、この機会を逃すと他で入手するのは困難かも・・・・・・の口実は一切無しで臨む――。
 かかる厳重なる縛りを己に課して、今回、迷った挙句、選んだ一冊が永井荷風著『日和下駄――一名 東京散策記』(講談社学芸文庫)だった。実は、私と駄犬の日々の散歩コースの途中に「新宿区指定史跡」として「永井荷風旧居跡」があり、永井氏とは、一世紀の時を隔てた「ご近所様の仲」として、以前から気持ちの上で、まんざら知らぬ仲でもなかったのである。
 『日和下駄』を手に巻末の解説やら年表を眺めていたら、これが書かれた今から100年ほど前の、1914年〜1916年頃、永井氏はここ(新宿の旧居跡)を拠点に(東京)市内のあちこちを散策していたことがわかった。駄犬に促されて仕方なくする私の散歩と、散歩の質を異にするとは言え、同じ散歩仲間、しかも地元同士、これはもう他を措いても、絶対読んでみねばなるまい――そう思って厳選した一冊なのであった。

ラッキーと永井家風旧居跡

ラッキーと永井家風旧居跡

永井荷風旧居跡

永井荷風旧居跡

 一冊を選んでもまだこの場を去り難く、それにつき合わされる駄犬の苛立を宥めつつ、未練たらしく更にアレコレ物色していると、庭で鉢植えをいじっていたこの家のお婆さんがそんな私に気付いて声をかけて下さった。「随分、熱心ですけど、本がお好きなんですか」そんな感じだ。
 聞けば、時々こうして家の入口に並べられる蔵書の元の持ち主は、10年ほど前に亡くなられた夫だったらしく、自分には必要ないので古本屋などで処分したいのだけれども、夫の蔵書ともなると、一気に処分してしまうのも忍び難く、それよりも、欲しい人がいれば、そう言う人の手に渡り、また読んで貰った方が夫の意志にもかなうだろうと思い、こうして定期的に少しずつ並べているんです――との事だった。

 並べられている蔵書の傾向について私の感想を伝えると、夫は戦後をづっと都立高校の漢文の教師として過ごし、とにかく本が好きで、しかも本を捨てられない人だったらしく、もう、家中本だらけで困っているんです、と苦笑し、「もし、よろしかったら、家の中にもありますが・・・・・・」と誘ってくださるのであった。しかし、さすがに、そこは「僕も家中本だらけで、これ以上ふえると怒られますから」と遠慮したうえで、それでも、奥さんの(本の整理に)若干は協力させてください、と軽口をたたえて、この日一冊と決めていた『日和下駄』の他に、三冊頂いて帰ったのだった。
 『孔子』(角川文庫、和辻哲郎)
 『柳子新論』(岩波文庫、山県大弐)
 『ソクラテスの弁明・クリトン』(岩波文庫、プラトン)
 である。いずれも刊行から50年前後を経過しているにも関わらず、カバー、帯がキチンと付いていて(図版参照)、今時、ここまで奇麗に保存されている当時の文庫本は珍しいと思ったのと、和辻哲郎、山県大弐に関しては、多分、「積読」で終ると思うけれども、それでも、いずれ機会があったら読んでみたい本の一冊として選んだのだった。

左から『孔子』『柳子新論』『ソクラテスの弁明・他』

左から『孔子』『柳子新論』『ソクラテスの弁明・他』

 好意は素直に受けるものである。遠慮は相手を喜ばせない。恐縮しつつ、計4冊の文庫本を頂いて帰る私と駄犬を見送るお婆さんの嬉しそうな顔に、私もまた満更でもないのであった。