天皇について(16)
たけもとのぶひろ[第67回]
■「天皇の統治」をめぐって
前述の通り伊藤博文は、1882年、欧州へと旅立ち、帝国憲法の立ち上げに備えて立憲政治の在り様について調査しました。翌83年に帰国した伊藤が実際に憲法起草の作業に取りかかるのは3年後の1986年ですが、それよりもずっと前の1984年、帰国の翌年に、早くも彼は「華族令」を公布しています。つまり、憲法起草以前のこの段階で伊藤は、すでに「天皇の帝国議会」における「貴族院」を構想していて、その布石として「華族」制度の改革・整備を行なったものと考えられます。 “深慮遠謀” と言ってよいと思います。
「華族」制度について簡単にみておきます。1869(明治2)年、明治政府は、幕府時代の藩主に命じてその領地・領民を天皇に返上させました(版籍奉還)。その際、代償のつもりがあったのかどうか、大名および公家に対して「華族」の称号を与えて取り立てました。1884年の華族令は、このときの「華族」を公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五爵に分割した上で、新国家建設に勲功のあった者をも抜擢して、それぞれの勲功に見合った爵位を授与し、華族の列に加えたのでした。さらに華族 “勢力” の拡大作戦は続きます。1887年の、民権派指導者や旧幕臣有力者への爵位授与が、それです。
ここまで来ると、いくら何でも気がつくでしょう。国会開設を睨んで、貴族院の選出母体を強化する、あわせて支配階級そのものを再編・再構築する、これが、伊藤たちの狙いだったのだ、と。
とまれ、第1回帝国議会召集(1890.11.25)をもって開会された貴族院は、皇族議員・華族議員・勅任議員(国家功労者・学士院会員・多額納税者)からなり、非公選・終身任期(原則は7年任期)などの手厚い身分保障がある一方で、院内における政党の存在を許さず、政党参加議員は貴族院議員を辞職するとの不文律がありました。
これは、しかし、伊藤たちの制度設計思想からすれば当然の帰結だったと言わねばなりますまい。帝国議会貴族院とは、そもそも論から言って、帝国議会衆議院の政党政治に対する防波堤でなければならず、「皇室の藩塀」として天皇中心の君主制を守ることが、その使命だったのですから。
明治国家の建設という重責を負った伊藤たちは、天皇君主制というものに余程自信がなかったのでしょう――帝国議会衆議院を立法議会として立ち上げるに際して、その活動に掣肘を加えるために、帝国議会貴族院をあわせて制度化しておかないと安心できなかったものと思われます。
それだけではありません。帝国議会両院は、法律を制定し、予算案を議決するための審議機関ですが、その立法権・議決権は「天皇に協賛する」限りに於いてのみ行使されるものとする、との条件がついています。これは、形式としては、議会が可決した議案(法律案・予算案)を天皇が裁可する、というだけのことですが、明治憲法の立場としては、この、議案の可決行為(決議行為)自体が「天皇への協賛」行為でなければならない、と定義したいわけです。議会のやることなすこと、その、すべてが天皇に協賛する振る舞いだ、と。
「協賛なくして裁可なし」とは、そういう意味です。たしかに、議会で可決された法案にして、裁可されなかった法案は一例もなかったそうですが、たとえ議会が可決した法案であっても、だからといって、天皇が必ず裁可するとは言っていないのです。天皇協賛の条件をクリアした可決法案に限って裁可する、と言っているのだと思います。
だとすると、議会での法案議決は法案を成立させるための必要条件であっても、それだけでは十分条件を満たしていないことになります。必要かつ十分条件を満たすもの、それが「天皇の裁可」ではないでしょうか。
別言すれば、明治「立憲」君主政治において、形式上とはいえ立法権を握っていたのは天皇であって、帝国議会両院は立法「協賛」機関にすぎなかった、ということになりかねません。これでは議会が天皇の権力を制限するなんて、できるはずがありません。
ほかにも、たとえば、宣戦・講和・条約締結・軍隊統帥・首相任命・憲法改正発議権などは議会の権限外でしたし、予算審議権についても制限があったりするわけですから、立憲主義とはベクトルが逆です。国民が「下から」の政治参加でもって立法権(議会)をかちとり、法の力で君主主義に圧力をかけていくのではなくて、君主の側――天皇を取り巻く側近政治家たち――が、「上から」法律を作り、合法的に議会を圧倒し、君主のための支配を貫徹するという、こういうやり方でも立憲主義の名に値するのかどうか。
しかし、先にも指摘したように天皇は、統治権の総覧者にとどまり直接的には統治権を行使しません。だからといって、必ずしもまったく統治をしないわけでもなく、総理大臣・国務各大臣の輔弼(助言)を得、帝国議会の協賛(賛同)を得ることで、統治権を行使することになっているわけです。というより、輔弼と協賛を得ること自体が――その形式をふむこと自体が、ひょっとすると、統治するということの意味だったのかもしれません。
いずれにせよ、天皇による直接の統治行為は存在しないけれども、明治国家は天皇統治の国家だ、というわけです。実にわかりにくい、煮え切らない話です。
ここで、「国王は君臨すれども統治せず」(イギリス憲法・慣習法にある原則)を引き合いにだして考えてみたいと思います。英語の原文は The King reigns, but does not govern. です。砕いて訳すと、「イギリス国王は国王としてその地位にある(在位する=reignする)だけであって、統治 (権力による支配= govern)はしない」ということになります。国王はその地位にあること自体がその存在意義であって、統治行為はしません。統治のための政治権力を保持していないからです。統治権力は、立法権を議会が、行政権を内閣が、司法権を裁判所が、それぞれ分かち持っており、これら三つの統治機関とそれらの連携・統合を通して国民が統治する、これが実は国民による国民の統治だ、という考え方です。
このようにイギリスのばあい、国王は「存在」であって「統治」とは無関係です。両者のあいだは截然と区切られていて、疑問の余地がありません。
ところが、繰り返し論じてきたように、明治日本は天皇親政が国是です。天皇は君臨する存在であるだけでなく、統治する主体です。国民が自らを統治するのではなくて、天皇が国民を統治する――それが立て前です。ですから天皇は、統治権を行使しなければなりません。ところが、実際には統治のための権力を与えてもらっておらず、許されているのは統治権の総覧のみです。統治権は行使できなくても統治主体は天皇ですから、すべての輔弼・協賛機関――三権にまたがる国家諸機関――が政治的裁可を求めて天皇のもとへと集中します。天皇と国家諸機関との関係がもっぱら輔弼・協賛だとすると、そこに生まれるのはいきおい「排他的な直接的結合関係」とならざるをえず、「権力の私物化」「権力の分断割拠」が不可避の事態となるのではないでしょうか。
統合原理とその機関が制度的に存在しない以上、天皇の統治権は形だけで、その中が空っぽだということにならざるをえません。国家の中枢が空っぽだと、政治的な思惑がつけ込んだりもします。明治国家のなかにはもともと、元老をはじめとする藩閥政治家など有力政治家の、跳梁跋扈する構造が埋め込まれていた、ということです。天皇も諸機関も統治責任はとらずとも済む構造が、それです。「無責任の体系」としての天皇制は、明治国家・明治憲法そのものが創始者であって、なにも軍部の台頭から始まったわけではないということです。