さくらひらく

七司野寝子[第6回]

 春は《生》にかたよる季節だと思う。路傍の一角が生き生きしはじめる。白茶けていた茎や葉が水気を取り戻し、そのうちのいくつかは花を咲かせる。それに、虫も活動をはじめる。知らないところでは、冬眠から覚めた動物もいたりするのだろう。春になると、こうして色彩が変化し、どうしても《誕生》や《はじまり》といったイメージと結びつけて、この季節を考えがちになる。
 なにより春には桜が咲く。桜というものは育てやすい樹木なのだろうか。この時期が来ると、ありとあらゆる場所で桜を目にする気がしてならない。いわゆる桜の名所と言われる場所はもちろん、平凡な住宅街においても、特に郊外のニュータウンでは「桜」が名に使われる団地も多くあり、そこには桜並木が存在する。どう考えても日本全体で見ればスギのほうが多いはずだし、街路樹としてはケヤキなども多く植えられているはずだ。それなのに桜の存在感は群を抜いている。これほど桜が目立つのは、春と春以外の季節での変わりようが大きいせいかもしれない。春以外の季節では他の木々と混じり景色にとけ込んでいる桜も、花をつけると一気に前面へ浮き出てくる。
 これまで多くの人たちが文学や歌などの中に桜を取り入れてきたわけだけれど、桜については私もいろいろと思うところがある。「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」と考えてみたり、幻を追い続けついには桜の下で気が狂ったり……、ということはもちろんない。しかし、これまで霊的で恐ろしい桜というものをフィクションの中でしか感じてこなかったのに、最近になってその種の生暖かく陰鬱な気配を感じるようになってきている。
 桜といえば、やはりお花見のイメージであった。ただ綺麗だなぁとぼんやり眺めたり、お酒を飲んで少しはしゃいだり、つき合いで宴の席に参加しなくてはならず面倒だなぁと思ったり……、そのときの気持ちは様々なのだが、どちらにしても日常の延長として桜があるだけだった。春のひとつの定番とういう位置づけである。センチメンタルなものがあったとしても、それは単に卒業のシーズンと重なるからというだけのことであった。
 私にとって桜が明らかに変わったのは、東日本大震災が起きた年からだと思う。直後の何が起きているのか整理がつかずに思考停止だった段階を過ぎ、少しずつ事態が明るみになり始めた頃、ちょうど桜の花が開き始めていた。それに伴い、「こんなときに花見なんてけしからん。花見は自粛すべきだ」などと散々言われていた。「不謹慎」という言葉がひとり歩きして、その反動とともに重苦しいムードが漂い、桜を桜それ自体として楽しめなくなっていた。そういう中でも当たり前だが、時期が来ると桜は満開になる。咲き誇るのだから《生》に結びつけたいところではあるのだけれど、《死》を思いたくなる。「正しく哲学している人びとは死ぬことの練習をしているのだ」というソクラテスの言葉(プラトンが言わせたソクラテスの言葉)がある。桜が咲くのを毎年いちいち噛みしめていれば、哲学なんてしなくてもそれで十分な気がするのだった。
春全体が《生》を象徴するものだとしても、春は桜を咲かせるころで《死》をも包摂しているのか。それは好き勝手に私が、桜に何かを投影しているだけかもしれない。それでも、たとえば雪景色や海、夕焼けの空など、ただ広がるだけで感傷を誘うような風景を前にしても、桜ほど遠くへは行けない。桜は本当に不思議だ。
 とにかく、春は《生》がきらめくはずなのに、それだからか、春は疲れる。生暖かさが余計にぐったりさせる。腐らせる春の陽気。その腐敗は真夏のものよりもずっと生々しい。春に特別な意味を持たせ過ぎるのは危ういと思うし、私個人としても気持ちの良いものではない。テレビの画面越しで見る暢気な桜と友人たちとお花見をする賑やかな桜で上手く調整しなくては。