天皇について(15)

たけもとのぶひろ[第66回]

井上毅

井上毅

■明治「内閣」制度に垣間見る闇の政治
 前回みたように、明治の日本は、君権主義の本体に立憲主義の飾りつけをしただけの、名ばかりの立憲君主制でした。そう酷評されても抗弁できない明治憲法体制のありようを、主要な制度に即してみていきたいと思います。

 そもそも大日本帝国憲法(いわゆる明治憲法)は、だれが・いつ・何処で・どのように準備し、発布したか、です。年表によると、憲法が発布された1889(明治22)年2月11日――この同じ日付けの項に、「皇室典範制定・議院法・貴族院令・衆議院議員選挙法公布」との記載があります。つまり、この日付の段階では貴族院も衆議院もいまだ作られていないということです。ですから、明治憲法は「議会の審議」を経ずに、主権者たる天皇が作って国民に下し与えたものだということです。欽定憲法と言われる所以です。しかし、この憲法は、もちろん明治天皇・睦仁その人が作ったわけではありません。起草・審議・制定・発布の全体を取り仕切ったのは、伊藤博文です。

 伊藤が憲法草案の作成に取りかかったのは1886(明治19)年のことでした。起草にあたって彼は秘書や側近を組織し、ドイツ人法律顧問らの助言をも得ました。それら人物のなかで特に挙げておきたいのは、井上毅(こわし)です。伊藤は1882年3月に渡欧し、1年半もの時間をかけて、憲法とその運用について調査研究したのでしたが、その伊藤よりも10年早く1872年から73年にかけて井上は、司法省の西欧使節団8名のうちの1人として渡欧し、帰国後は、大久保利通・岩倉具視・伊藤博文などのもとで権力の中枢を担ってきたのでした。その、欧州帰りの伊藤と井上のふたりの手がけた、軍人勅諭(1882年)・憲法・皇室典範(1889年)・教育勅語(1890年)などが、明治のみならずその後のこの国の政治に決定的な影響を与えたことは言うまでもありません。

 なお、上記のうち教育勅語については、井上の時習館(熊本藩)時代の先輩で・天皇側近の儒学者としてその名を知られる元田永孚(もとだながざね)も起草に加わっていることを指摘しておきます。言いたいのは、この国の政治の基本をつくったのは、幕末維新を生き抜いた――江戸時代を引きずったまま新時代を開かなければならなかった――この種の人間たちだった、ということです。

 とまれ、これら先人の尽力があって、憲法草案はできあがりました。しかし、草案をそのまま憲法として制定するわけにいきません。伊藤としては、できあがった草案をたたき台として、これに検討を加え、正式文書に仕上げて憲法制定にまでもっていく考えでしたが、それには、然るべき機関を作って、叡智を集め、審議を尽くすといった、それ相応の手続きが必要でした。かくして1888年4月、伊藤は、草案審議のための機関として枢密院を新設し、自らその初代議長をつとめ、天皇親臨のもと非公開の審議を主宰し、憲法本文を完成させました(非公開審議は米国憲法制定の審議方式に倣ったものとされています)。大日本帝国憲法が発布されたのは、上記の通り翌年の2月です。

 その明治憲法が枢密院を「天皇の最高諮問機関」と位置づけたところから、枢要にして秘密を要する重要国務案件については、天皇の諮詢に答えることが枢密院の義務とされました。ここで枢密院のメンバー「顧問官」(24〜28名)について一言します。彼らは、国家に功労のあった元勲・長老に限られており、しかも天皇の膝下にあってその聲咳に接することのできる、いわゆる “殿上人“ 的存在として、他を威圧し追随させるだけの権勢を誇りとしていました。それだけに、政党・議会・内閣が政治の表舞台になったのちも彼らは、国の政治全体に対して隠然たる影響力を行使して、自分たちの思いのままに国を動かしてきたであろうことは、容易に察せられるのではないでしょうか。

 以上、明治憲法制定における伊藤博文と枢密院について書きましたが、彼らが天皇の前でどういう問題についてどういう発言をしたのか、あるいは天皇とのあいだでどういうやりとりがあったのかなど、いちばん知りたいことの、本当のところは闇の中です。これは内閣(政府)についても、残念ながら同様の不透明感ないし疑義を抱かざるをえません。

 明治政府は、1885(明治18)年12月、太政官制(太政大臣・左大臣・右大臣・参議)を廃止して、新たに「内閣」(内閣総理大臣・国務各大臣)を政治運営の中心として制度化しました。伊藤たちとしては、立法の府(議会)のほうは二の次でよいが、行政府(政府・内閣)の改革は急を要する、と考えていたのではないでしょうか。法律を作るのは、天皇を握っていますから、仲間うちで何とでもなるでしょうが、目の前の政治課題となると、内閣を構成する国務大臣統括下の当該行政機関が、国の統治行為として対処しなければならず、その能力強化は待ったなしの要請だったものと思われます。

 この要請に応えること、それこそが「内閣」制度化の目的だったと思うのです。では、その目的は達成されたのでしょうか。「内閣」制度化の4年後に成立した明治憲法は、「内閣」(総理大臣・国務各大臣)について、どのように規定しているでしょうか。
 この問いを考える際に感じないわけにいかない “奇妙な違和感” について、既述部分と重なりますが、改めて指摘せざるをえません。なにかしら噛み合ないというか、肩すかしを食らったというか、そういう感じなのですが。

 憲法は、先ず天皇について、統治権を総覧する、統治権のすべてをまとめて一手に握る、と規定しています。次に、内閣を構成する総理大臣・国務各大臣については、その「統治権総覧者たる天皇」を「補弼する責任」がある、と規定しています。別言すると、総理大臣・国務各大臣によって構成される内閣は、天皇「輔弼の協議体」だということです。憲法の規定によると、内閣・大臣は、議会・国民に対してはなんら責任を負う必要がない代わりに、天皇に対してだけは負うべき責任を有すると規定され、その責任は、上述の通り、「統治権総覧者たる天皇」に対する「輔弼責任」だ、ということです。

 しかし、これだと、どうしても得心がいきません。天皇は統治行為の主体ではなくて、単に統治の権限をまとめて手に持っているだけなのです。そして内閣と大臣は、その、権限を持っているだけで直接には行使しない天皇を助けるのです。助ける責任があるというのです。天皇は総覧するだけ、大臣・内閣は天皇の総覧を輔弼するだけ。だったら、いったいだれがこの国を統治しているのでしょうか。不可解と言うほかありません。

 さらに不可解なのは、内閣を構成する総理大臣・国務各大臣について、天皇が任命すると規定してあるだけで、任命の前提としての選出については、方法もルールも、何も何処にも書いてない、それを規定した法令がない、ということです。加えて指摘すれば、明治憲法は議院内閣制の立場をとっていませんから、「内閣(政府)の存立」と「議会の信任」とはなんの関係もない、ということです。内閣(総理大臣・国務各大臣)についてわかっているのは、天皇が「任命」するという、この一点だけで、「選出」方法および「存立」条件については、何処にも明記されていないのです。

 これが事実だとすると、早い話、なんでもありということになるのではないでしょうか。なかでもありそうなのは、たとえば、ボスどもが謀(はかりごと)をめぐらして内閣のメンバー・リストを作成する、天皇がその推薦名簿通りに大臣たちを任命する、それがそのまま罷り通る、議会(国民)の関与する余地はどこにもない、というふうなことです。
 ボスというと、この時代、枢密院を牙城とする元老なんかがイメージされます。元老はそもそも法律外の存在ですから、厄介なことこの上ありません。元老が暗躍する政治とは、藩閥ボス政治家による政治の私物化ということと同義なのではないでしょうか。

 明治時代、日本は内外にむかって君権主義・天皇親政を掲げてきました。その事実を疑う人はいません。しかし、その中身については、なにかしらひっかかるものがあって、どうも判然としない、得心がいかない、というような思いをしているのは、ぼくだけではないと思うのです。そして、その原因の一つは、いま上に示唆したように、明治の政治というものが、すっぽりと闇のなかにあるからではないでしょうか。