たけもとのぶひろ(第65回)– 月刊極北
天皇について(14)

憲法発布略図

憲法発布略図

■明治憲法における天皇親政の欺瞞
 本題に返って、明治天皇と明治政府についての議論を続けます。
 新政府にとって天皇とは、維新の大義であり、正統性の根拠であり、錦の御旗そのものでした。そして、明治という時代は天皇親政の時代だとされ、天皇自らが政治の最高責任者として政治をとりおこなうことになっていました。しかし、天皇政治の実状は天皇親政の定義からはほど遠く、額面通りに受け取ることはできません。どうして実状が定義から乖離してしまったのでしょうか。
 明治天皇とその政治について問うことは、すなわち、明治政府ないしは明治国家を問うことでなければなりません。そして、このような問いについて考えをめぐらせることは、同時に、この国のこんにちの困難を解き明かす営みの、少なくともその一部としてとらえてよいのではないか、あるいは、そのようにとらえることもできるのではないか――そういった気持ちで書き進めていきたいと思います。

 ここで、すでに詳述してきたところを要約しておきます。以下の数行がそれです。すなわち、政治の表舞台はすべて天皇の名においておこなわれていたが、それは名目・形式だけの話で、実際は側近の実力者たちが裏方をつとめて舞台全体の根回しをし、仕切っていたのではないか、ということです。そして、実際上のこういう仕組み・仕掛けのことを「天皇親政」と呼び、そう呼ぶことによって権力政治の実態を隠蔽しようと目論んできたとすれば、それこそ天皇の政治利用以外のなにものでもない、ということです。
 ここで言う、ウラの実力者側近とは、薩長を中心とした藩閥政治家のことであり、五摂家を中心とした有力公家政治家のことです。教科書に出てくるほどの名のある政治家たちは、ほとんどこの類いです。

 こういう政治の仕組み・仕掛けは、結局は明治憲法(大日本帝国憲法)として成文化され、然る後はこの憲法によってその権力的正統性が担保されてきたのでした。この大日本帝国憲法に少し立ち入って、明治の政治について考えたいと思います。
 中心人物は伊藤博文です。彼は1882年3月から1883年8月まで、およそ1年半の長期にわたって欧州憲法調査の旅に出ています。ドイツ・プロイセンの君権主義憲法、オーストリア、ベルギー、イギリスなど立憲国の法律諸制度などに学んだとされています。
 伊藤の問題意識は二つありました。天皇国家(=天皇による日本統治体制)を立ち上げること、これが一つです。いま一つは、実態はともかく体裁だけでも立憲政治の条件を整えることでした。

 前者は、天皇主権(君権主義)に拠る日本統治について、その骨格を示すものであり、帝国憲法の肝腎の要です。
 次に後者は、憲法制定・国会開設・三権の独立と運用などに関わります。昨日まで封建制でやってきた日本をイメージしてみてください。指導者にせよ人民にせよ、その備えがあったでしょうか。まだまだ無理、時期尚早、というのが西欧諸国の政治家や学者の見立てでした。ドイツ人の医学者ベルツなんかは、その「日記」のなかで「滑稽なことには、誰も憲法の内容をご存じない」「20年は早すぎる」と書いているそうです。

とはいえ、伊藤たちとしては、日本国を不平等条約の軛(くびき)から一日も早く解放するのが使命であってみれば、少々の無理があっても立憲政治の体裁を整え、欧米列強諸国に追いついて仲間入りを果すしかない、と意を決していたに違いありません。
 ただ、立憲主義・立憲政治の考え方は、議会・政党・内閣の役割を高める方向ですから、天皇主権の考えとの間に折り合いをつける点で困難があります。もちろん伊藤たちは、なんとか折り合いをつけて並び立てようと知恵をしぼりました。そうして仕上げた憲法の出来映えは、彼らの目にどんなふうに映ったでしょうか。表向き何と言おうと、内心では、満足のいく成果には遠く及ばないと思っていたのかもしれない、必ずしも自信満々ではなかったのではないか――わけもなく、そんな風に空想するときがあるから妙です。

 では、伊藤博文らの労作とも言うべき「明治憲法」の何が問題なのか――まずは、天皇主権(君権主義)について考えます。
 明治憲法第1章天皇・第1条に「大日本帝国は、万世一系の天皇が、これを統治する」とあります。天皇という位(くらい)は、万世一系(万古不易)の一つの系統のなかで継承されてきており、したがって天皇とは単に一天皇ということではなくて、皇祖皇宗のなかに地位をしめるかぎりでの天皇、ということのようです。この解釈でいくと、天皇主権、つまり天皇が主権を有するとは、皇祖皇宗に主権があることにならざるをえず、天皇は超越的な存在として神格化されます。
 さらに第3条に、「天皇は神聖にして侵すべからず」とあります。天皇というものは、神域とでもいうべき異次元の存在であって、憲法とか法律上の責任をあらかじめ免責されています(=「君主無答責の理念」)。天皇が免れた責任は、事に当たって天皇を補弼・賛助・協賛する立場の、法人ないし機関が負うものと規定されています(第55条)。

 天皇の法的・政治的行為は、あらかじめその責任を免れる仕組みになっていますが、もし仮にこの免責規定がなかったとすれば、天皇制国家・日本の存続は危うかったのではないでしょうか。それにしても、しかし、あらかじめ責任を免除されているとは、どういうことなのでしょう? 責任というものがはじめから無いわけではない、責任は有るには有るのだけれども、事と次第によっては問われて背負わなければならないような責任からは免れている、したがって、天皇のばあい責任は、有るといえば有るし、無いといえば無いような、要領を得ない、曖昧な、その所在を明示することができない、そういうややこしい性格のもののように思えるのですが、いかがでしょうか。思いつきの比喩で言うと、あらかじめ責任を免れた天皇というものは、まるで無重力状態の宇宙空間を遊泳しているような在り方で存在している、そういう存在なのではないでしょうか。

 また、帝国憲法を読んでいて伊藤らの真意を測りかねる文言に出くわすことがあるのです。
 たとえば第4条は、「天皇は、国の元首であって、統治権を総覧し、この憲法の条規により、これを行う」とあります。天皇は日本国の元首(代表)であり、統治権の総覧者(主権者)である、と書いてあります。天皇がこの国の支配者なのだ、と書いてあります。
「総覧」とは、「全体を一手におさめること、とりまとめて手に持つこと」を意味する言葉です。だとすると、4条は何を言っているのでしょうか。天皇は国の元首としてすべての国家権力を一手に収める統治者であるということ、これが第一の点です。ただし第二点として、その統治権を行使するばあい天皇は、単独にては行使できないのであって、憲法の条規に拠らなければならない、と定めているのです。こうなると、天皇の統治なるものが実際に行われていたと言えるのかどうか、はなはだ疑問です。ここでもぼくは、天皇が無重力遊泳を強いられているような気がしてならないのですが。

 第4条に「憲法の条規に拠る」とは、具体的に言うと、各条規が指示する関係諸機関(内大臣、宮内大臣、議会とくに貴族院、枢密院、裁判所、海軍軍令部・陸軍参謀本部など)に拠ることを意味します。これら諸機関の輔弼・賛助・協賛を得なければならない、ということです。もっとあからさまに言えば、輔弼だとか協賛だとか、テキトーなことを言って、天皇を前に立ててはいるけれども、統治の実際をやるのは諸機関だということです。ぼくなんかからすれば、明治の国家とその政治の、なんとも言いようのない “いかがわしさ” は、この第4条から出てきているような気がするのですが、この憲法の産みの親とも言うべき伊藤博文は、これを最重要条項と自賛しているそうです。

 彼はこう言いたいのでしょう。帝国憲法は、単なる君権主義の理念だけではなく、それに対して掣肘を加える立憲主義の理念をも同時に備え、二つの理念を「融合」させた点で、西欧の立憲君主国のそれとも比肩しうる、誇るべき憲法だ、と。

 問題は、しかし、伊藤自慢の「融合」にこそあると思うのです。すでに指摘したところですが、立憲主義はほとんどリアリティーがありません。君主の権力を制限せずにはおかないほどの人民の政治的圧力というものは存在しなかったわけですから、議会といっても、「上から」憲法によって「与えられた」官製の組織・制度に過ぎませんでした。人民の権利も権力の分立も、立憲主義の基本原理など、知ったことではなかったのだと思います。
 加えて言えば、君権主義にしてからが、維新の勢いに乗じて、いわば泥縄式にでっちあげたに等しい代物であったことは、すでに詳述したところです。

 すなわち、明治の建国当時の日本においては、西欧の立憲君主国にみられるような、君主の絶対的支配というものは存在していませんでしたし、存在しない君主権力を制限する(議会などの)人民の政治参加というものも存在しようがありませんでした。
 ともに上からこさえあげた、現実には存在しないも同然の、君主主義と立憲主義を、どうすれば「融合」することができるのでしょうか。融合の場があるとすれば、大日本帝国憲法の条文こそが、それの唯一の場所だったのではないでしょうか。
 そして、伊藤博文ら憲法起草者としては、帝国憲法において立憲主義をとりいれ、国家の体制として立憲君主制を掲げ、それ相応の法的・制度的体裁を備え、よってもって不平等条約解消の政治的条件を整えることができたわけですから、ひとまずそれでよしとした、ということではないでしょうか。