七司野寝子(第5回)– 月刊極北
岡崎京子←→フランソワーズ・サガン

 何か好きなものを堂々と語ろうとするとき、気おくれすることがある。よくよくその理由を考えてみると、二つのパターンに行き着いた。一つ目は、好きすぎて恥ずかしいというパターン。好きなのだから、影響が皆無であるはずがない。だから、自分の弱みや手の内などの心臓部を見透かされてしまう気がして、抵抗感を覚えるのだ。そしてもうひとつは、世間体。〈○○好き〉、〈××ファン〉と表明することにより、〈~系〉といちいちカテゴライズされることがあるのだ。その分類ラベルが揶揄されたものであるならば、余計にそうと言い出しにくくなる。
たとえ明確な分類がなされなかったとしても、「好きである」以上の意味を賦与しようとする圧力は往々にしてあるようだ。小池真理子氏は、新潮文庫のフランソワーズ・サガンの小説『悲しみよ こんにちは』の解説で、そのような現象について書いている。「サガンが好き」と告白することは「私は典型的なプチブルであるにもかかわらず、ブルジョワジーの懶惰な暮らしに憧れ、気取った物言いばかりをしたがる、中身のうすっぺらな文学少女です」と認めているのと同じと見なされる雰囲気があったと述べている。
私もサガンの小説は好きだ。「中身のうすっぺらな文学少女」だったとしても好きだ。だけど、今回は岡崎京子マンガについて書こうと思う。「中身のうすっぺらなサブカル少女」であっても書こうと思う。
 世田谷文学館で「岡崎京子 展 戦場のガールズ・ライフ」という展覧会が開催中で、私も行ってきた(3月31日まで開催中)。これまでの彼女の仕事が取り上げられている展覧会だ。スケッチやイラスト、原画が展示されている。刊行された単行本、雑誌がガラスケースの中に並べられ、壁には漫画のセリフがプリントされていた。あらゆる限りに取り尽くし集めることは、何かセレモニー的な様相を帯びる。異様なファンタジー空間の中にいるようで楽しかった。
 岡崎京子マンガで描かれるのは、ほとんどが若い女の子たちだ。大抵、彼女たちは多くのものを望み、ハチャメチャな生活を送っている。サガンも若い女性をヒロインとして、多くの小説を書いている。サガンが描くのはエレガントで都会的な女性ばかりだ。
しかし、どちらも乾いた笑いが聞こえてきそうな諦めと虚無感が漂う。きっとサガンの小説に出てくる女性たちは岡崎京子マンガの女の子たちに憧れるのだろう。エネルギーを発散させているようで羨ましい、あんなにギラギラしたものがあって羨ましい……、と。逆に岡崎京子マンガの女の子たちもサガンが描くような女性の暮らしに羨望の眼差しを送るのだろう。あんな洗練された暮らしをしてみたい、きらきら輝く宝石を身につけてみたい……、という風に。そうして、お互いそんな生活がもしも実現できたら、この空っぽさはなくなるのだろうと思ったりするはずだ。だけれど、実際そうなってみたところで、空虚さが消えないことは明らかである。しかも、彼女たちは皆、そのことに薄々気がついている。
 このような「戦場のガールズ・ライフ」的な考察は社会学の方面で、90年代から多くなされている。しかし、それに対する救いは今まで示されたことはあったのだろうか。今回の展覧会で私が見つけたとすれば、「生きてゆく私」。丸っこい直筆の文字で、そう書かれていた(宇野千代名義というお茶目な冗談つきで)。《生きてゆく私》。「生きていた」ではもちろんなく、「生きている」でもなく「生きてゆく」のだった。こう書いてしまうと、すごく陳腐で下らないのだけれど、それが表現として存在しているようで、だから私は好きなのだ。