七司野寝子(第3回)– 月刊極北
スマホの挑発

 最近、ガラケーからスマホに変えた。画面に触れても反応しない折りたたみ式のアレである。もともと、ガラケーは電話とメールからはじまり、お財布もテレビも全部ケータイ内で持ち運べるようになったとされ、世界を広げたはずだった。しかし、そのケータイ自身は今やガラバゴス諸島の生物になぞらえてしまうとは、何とも皮肉。
 私がはじめて携帯電話を手に入れたのは、ガラケー全盛期の頃だった。その時期は、各社が競って軽量化をアピールしていて、端末はどんどん小型化していった。新しい機種が出るたびに小さくなるわけだから、操作するボタンも年々小さくなる。この流れが長い間続けば、携帯電話に合わせて人間の指は先端が尖った形に進化するのではないかとSFめいたことを思い描いたこともあった。
 だが、実際の状況は、まったくそうはならなそうな方向に進んでいる。尖った指ではスマホのタッチパネルは使いにくくなる。今度はスマホに合わせてどんな風に指が進化するのだろうと考えていたが、指よりも脳の構造が変化してしまいそうな新たなSF的な予感。
 しかし、それも間違いであるらしい。NYタイムズ(1月21日付)の妙訳が朝日新聞に載っていた。記事のタイトルは「集中できない感覚 スマホが悪いわけではない」だ。その記事によると、スマホによって脳が変化するということは決してないという。ただし、多くの人が集中できない感覚を覚えるようになったのは確かである。記事では、そのことについて人間心理の問題として分析している。注意力は外へ向けられるものと内へ向けられたものがあって、片方がオンになるともう片方はオフになるらしい。スマホを使うときに働くのは前者で、この集中できない感覚は絶えず思考が外に向けられすぎていることに起因するらしい。
 可能性が無限にあり、得られること。それが問題の引き金になる。たとえばyoutubeで映像を見ていても、他にもっと面白い映像があるかもしれない、誰かのブログを読んでいても、もっと興味をひくような文章があるかもしれない……。そういう思いに駆られる。だから最後まで見続けないし、読み通さない。次から次でと飛び移ってしまう。様々な可能性に到達することが「できる」ようになる。
 一般的に「できるからやる」を実行すると、あまり幸せになれないように思う。それを完璧に遂行できたとしても、何かしらの気味の悪さは残る。「できるから……」がスマホによってどんどん増えてゆく。
 技術についてマルティン・ハイデッガーがあれこれ言っていたことを思い出した。技術とは手段であったり人間の行為であったりするわけで、それを道具として捉えることは正しい。そのようにハイデッガーも言っている。しかも、それは極めて正しい。しかし、その正しさがかえって不気味でもあるのだ。ハイデッガーは、樹木の本質と一本の樹木の関係になぞらえながら「技術の本質は技術的なものではない」と言う。
 それでは、技術の本質とは何なのか? 答えは、1953年の講演をまとめた『技術への問い』(関口浩 訳)において明確に示されている。技術の本質とは、「開蔵の命運としての集-立である」と。つまり、技術とイコールに近いのは、あるものそれ自体を生起させる(開蔵)ことである。特に、それ自身では自ら現出しないものを生起させ、現像させる。そして、その生起しなかった部分がさらなる開蔵をするように人間を駆り立てる。これが「集-立」である。技術の本質が「集-立」であるならば、「集-立」を考えれば済むという話ではない。「集-立」は「本質を発揮しつつ存続する」、……動的なイメージでいつまでも追いつかず捕えることが不可能な予感に満ちている。
 ハイデッガーは、それほど希望のある結末を提示しているようには思えないがどうなのだろうか。技術が暴走するという話ではないけれど、手に負えない感覚は残る。私は私でスマホに慣れず、持て余している。どうしようか。せっかくスマホを手に入れたのだから、何かしようとは思う。家にはラジオはない。いちいちパソコンを立ちあげてラジオを聞くのも面倒だ。そういうわけで、今後は習慣的にラジオを聞いてみようか。