たけもとのぶひろ(第60回)– 月刊極北
天皇について(11)

天照大神

天照大神

■「アマテラス信仰」の政治利用
 前回の最後に、明治国家の定義として「天皇・人民の親子関係=明治家族国家」論をあげ、この定義の根拠として「明治天皇=天照皇大神宮様ノ御子孫」という議論のあることを指摘しました。そして、これらの事柄について得心がいくように説明できなければならない、と述べました。今回はこの点について考えてゆきます。

 最初にたしかめておきたいことがあります。「先祖」と「祖先」との違いについてです。
 「先祖」と「祖先」とは、同じ二つの漢字の「先」と「祖」のどちらを前にもってくるか後ろにもってくるかで、できている言葉ですから、意味のほうも、混同されやすいし、実際に混同されています。両者のあいだには、似て非なる違いがあるように思えるのですが、こういう議論をするばあいは、その違いについて整理をし、よくよく考えてみる必要があると思うのです。

 「先祖」という言葉は、「先祖代々」とか「御先祖様のお墓参りにいく」などといった用例があるように、現在の子孫にいたるまで血のつながりがある、そういう関係にある人たちのことを意味します。血のつながりがあると思うから身近に感じられるのでしょうか、人びとの先祖信仰は絶えることがありませんでした。先祖とは、素朴な信心の向かうところであって、祀り上げる神様ではありません。「祖先崇拝」というのはあっても、「先祖崇拝」とは誰も言わないのは、そういうことではないでしょうか。

 上記の「先祖」は、家族の血のつながりというか、家系図みたいな話が前提であるのに対して、もう一つの「祖先」という観念のほうは、なんらかの共同体――氏族・部族・民族とか、土地・村落・国(くに)など――への帰属意識みたいなものから生まれるものではないでしょうか。同じ一つの共同体に属するという、ただそれだけのことで、おのずと同族意識・一族意識が生まれる。別言すれば、 “共同体の霊=祖先の霊” のような、いわばスピリチュアルなものを共有することで、一族のメンバーとして安んじて生きることができる、そういうことではないかと思います。

 家族・先祖が別であっても、同じ土地(国)の人間なら、あるいは同じ氏族(民族)のメンバーであるならば、同じ祖先神を祀り、崇め、拝む、という単純な “営み” を通して、人びとは安んじることができたし、そうやって生きてきたのではないでしょうか。
 同じことの別の言い方ですが、家族や先祖といった具体的な個別性を超えて、もう少し精神的な次元で共通なもの・霊的な共同性みたいなものへと向かっていくことで、人びとはたがいにつながり、救われていくのだ――と、そんなふうに信じて生きてきたのではないでしょうか。それが、つまり、「祖先崇拝」の世界だと思うのです。

 誰でも知っている例を二つあげます。一つは氏神信仰です。この国では、どこの土地・村落であっても、自分たちの守り神様である氏神様を祀って崇めています。
 いま一つはアマテラス信仰です。日本国(土地)・日本人(民族)の全体をカバーすると言っても過言でない、この信仰は、民衆のあいだで、広くて・深い・大きな支持を得ています。天照大神・アマテラスは、太陽神であり・豊饒神であり・女性神であるとされています。天照大神を日本人共通の祖先としてあがめ祀る「アマテラス信仰」は、日本最強の民衆信仰と言ってよいのかもしれません。

 そして、天皇および天皇家もまた、日本国(土地)・日本人(民族)に帰属していますから、天照大神を祖先神として祀り尊んでいいわけですし、彼らを「アマテラス信仰」から排除する理由はありません。問題はこの後です。
 明治政府はこう主張しているのです。その、祖先神・アマテラスの血を絶やさず受け継いできたのが天皇家なのだ、と。したがって、天照大神は、天皇および天皇家の「祖先」であるにとどまらない、天皇家の「御先祖様」なのだ、と。天照大神に発する「万世一系の家系図」こそ、明治天皇が先祖アマテラスの末裔であることを物語る何よりの証拠だ、と。

 上述のように、「祖先」と「先祖」は、本来はまったく次元を異にする概念です。しかし、天皇家に関するかぎりは、例外的に、両者を同じ次元の一つの事柄として、融合させて考えてよろしい、むしろ融合させ同一化して考えるべきだ――と、そういうふうに明治の指導者たちは主張したのでした。彼らが言いたいことのとどのつまりは、明治天皇こそが「祖先神=天照皇大神宮様」の「御子孫」であらせられるぞ、ということに尽きます。ただ、それはタチの悪い “作り話” にすぎません。万世一系のアマテラスの血の継承、だなんて。

 さらに、真偽のほどを疑うような話は続きます。天照大神は天皇家の祖先であり先祖であるから、明治天皇はその天照大神の子孫である、 ”であるがゆえに” 明治天皇は「日本国ノ父母」「億兆ノ父母」であり、天皇と人民の関係は「親子関係」であり、明治国家は「家族国家」である、ということになる、そういう話だそうです。
 どうして “であるがゆえに” なのでしょうか。
 また、天皇の血の系譜などという、何の根拠もないことを根拠にして、天皇は日本国・日本人の父母である、天皇は親であり人民は子である、国家は家族である、なんて!
 百歩千歩ゆずっても、これらはすべて単なる “喩え” であり “見たて” であって、それ以上のものではありません。どうしてそんないい加減なことが言えるのでしょうか。

 無理というか強引というか、この種の話をまだもう少し続けざるをえません。