たけもとのぶひろ(第57回)– 月刊極北
天皇について(8)

今月のラッキー

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■西洋列強と日本~西洋文明と日本文化(3)
 彼我の隔たりについて、いきなり “教訓” めいたことを書きます。彼に学び・我を生かすのが上策であるとすれば、彼に学んで我を見失ってしまったのでは元も子もありません。見失った我を探しだし我自身に立ち帰らなければならないのではないでしょうか。 
 これは、上山春平・前掲書『憲法第九条~大東亜戦争の遺産』の「第四章」「別章」および「はじめに(序文)」の論考をたどることで得たものです。

 まず、上山先生の議論の前提をみておきます。
①日本文化と西洋文化は対極に位置する。前者は凹型文化、後者は凸型文化と特徴づけることができる。それぞれの特徴について手短かに整理すると、
 • 凹型日本文化は、自然性――ないしは空虚性――を原理とするがゆえに、受容的・受身
的・消極的なのが特色である。
 • 凸型西洋文化は、文明性を原理とする。したがって、能動的・自己主張的・積極的な点
に特色がある。

 明治の指導者・エリートたち――「国家的国民」(ぼくの定義)――は、富国強兵・強国路線が国策ですから、自分たちの凹型文化の強みを発揮して、凸型西洋文化を受容・吸収・同化していけばよいだけの話なのですが、事柄はそれほど単純ではありません。学ぶという行為は、相手の文化――もののあり方や考え方――に強く影響され、彼らが感じるように感じ、彼らが考えるように考えるプロセスを避けることができません。
 しかし、わが指導者たちのもともとの初心は、欧米列強に対する敵対意識にありました。彼らに対抗する必要から、彼らの文明の成果を学ぼうとしているわけです。ですから、凸型西洋文化に対する対抗心・敵対意識を払拭することはできません。

 実情を言えば、西洋凸型文化に学びその文明的成果から影響を受ければうけるほど、それに対する反発や対抗心も高まったでしょうし、また逆に、西洋に対する対抗心の高まるのにつれて受容意欲も高まったのだろうと察せられます。ただ、そのばあい、文明の成果のほうはなんとかクリアーできたかもしれませんが、その源たる文化の受容となると、越えがたい困難の壁が立ちはだかったのではないでしょうか。

 彼ら明治の指導者たちは、日本的なものと西洋的なものとの間で宙吊りになり、両極へと引き裂かれているわけで、日本の文化的アイデンティティをどこに求めればよいのか、自分たちがどこにいるのかさえ、わからない状態だったと思われます。

 わからなくなって彼らは、どうしたか。 初心、原点に立ち帰って、国策を堅持すること、つまり富国強兵・強国路線からブレないこと、それ以外に選択肢はなかったのかもしれません。ただ、ここで問うておきたいのは、その選択がどういう意味合いをもっていたか、ということについてです。
 明治日本のこの選択こそは、西洋列強の “植民地侵略の流儀” そのものであり、西洋凸型文化の帰するところでもあった、と言えますまいか。 こういうときに “歴史の皮肉” などといってよいのかどうか――列強に対する敵対意識に囚われていたばかりに、まさにそのときに、自分たちが凸型西洋文化に身ぐるみもっていかれていたとは、当時、どれほどの人が気づいていったでしょうか。

 明治以降の連続する危機と戦争、そして昭和の大東亜戦争の時代に、この国の指導者たちはどういうことをしてきたか――上山先生は、次の二点を指摘しておられます(第四章)。
①「明治以降、日本は欧米列強の範にしたがって、次第に増大する国家エゴイズムを推進力とする強国路線を邁進してきた」。
②「第二次大戦とそれにさきだつ国際危機の時代に、軍人たちとそれに同調する指導者たちは、日本精神とか大和魂とかいうことを声高に叫んだ」。

 •①の指摘にある「強国路線」は、日本独自の・日本発のものではなく、「欧米列強の範に
したがって」進めたものだということです。植民地争奪戦はもともと西洋発であり、西洋文明が出身母体だということです。
 •②に「日本精神とか大和魂とか」とあります。こういうと、いかにも日本的な、日本固有の文化であるかのように聞こえるけれど、この種の声高な自己主張というか、積極的に自分を前に押し出していくスタイルは、日本風・日本流ではない、日本文化のものではないということです。

 では、②は何なのか? 上山先生は次のように論じておられます。
 「彼ら(=当時の日本の指導者・軍人たち)のとらえた日本文化のイメージは、自然性もしくは空虚性を原型とする消極的な凹型文化としての日本文化の反対物であり、いわばその自己疎外形態にほかならなかったのではないか。彼らは西洋文化に対する敵対意識を通して、対抗の必要上、相手から強烈な影響をうけとり、無意識のうちに相手の凸型文化の流儀に同化され、日本文化に対するイメージを、本来の姿の反対物に転化させてしまったのではないか」と。(第四章)

 日本文化が本来の日本から疎外され、その反対物に転化し、もはや日本文化でなくなっているのであれば、それを否定するところから始めなければなりません。
では、これを否定して、どこへ向かえばよいのか――この方向について、先生は述べておられます。「(それは)日本文化の本来の原型に復帰する方向を一つの可能性としてはらんでいるとはいえまいか」(第四章)。
 そしてこの原型復帰の方向は、「消極的凹型文化の創造的意義を肯定」し「凹型文化の行き方を徹底させる」ものであろう、と論じておられます(別章)。

 ここで、現実の具体的な問題をとりあげてみましょう。たとえば日本の防衛体制を凹型的文化論で考えるとしたら、どのような内容になるのでしょうか。先生の答えは、凸型文明におけるマスラオぶりの武装防衛体制から、凹型文化におけるタオヤメぶりの徹底的に受動的な非武装防衛体制へ、というものです。言わんとするところは以下の通りです。

 「非武装の受動的な防衛体制は、旧来の「力には力を」というマスラオぶりの体制とはちがって、たとえば「力には悲鳴を」といったまことに不甲斐ないタオヤメぶりの体制であるが、これを不甲斐ないなどと思うのは、旧来の観念にとらわれているからにすぎない。私たちが「力には力を」の論理にしたがうかぎり、核武装の採用は不可避というべきであろう。したがって、核武装を拒否する立場を貫こうとするのならば、現状のように、「力には力を」の論理にしたがいながら核武装はしないといった中途半端なごまかしはやめて、「力には悲鳴を」というタオヤメぶりの論理に徹してはどうか、と私は言いたいのである」
(上山上掲書「はじめに」/『遺産』序文)。

 男性的な凸型西洋文明のばあいは、いわゆる近代主権国家が一般ですから、「力には力を」をモットーとする、マスラオぶり防衛体制がお似合いです。絶対不可侵の主権を排他的に主張して、それぞれが尖っていますから、凸型ナショナリズムと言えましょう。
 他方、女性的な凹型日本文化がその女性性を花開かせることができれば――それはすでに近代主権国家の域を超えているはずですから――力で押すのではなく、悲鳴をあげて周りに助けを求めることができるでしょう。まさに「力には悲鳴を」です。タオヤメぶりの防衛体制、と先生が特徴づけている所以です。
 ナショナルな感情それ自体は消滅しないでしょうが、凹型ナショナリズムとでもいうべきものの性格は、従来の凸型のそれからは一変するはずです。

 上山前掲書の「解題」のなかで、ぼくはこの点について次のように指摘しました。
 凹型ナショナリズムとは、つまりは、自らを開いて、他を受け容れ、他に受け容れてもらう「開かれたナショナリズム」。けっして自己完結しない、つねに他国を尊重し他国に尊重される、はじめに関係ありきの「開かれたナショナリズム」。そういうことではないでしょうか――と。
 日本の女性的凹型文化が花開くときこそ、「主権国家」に代わって「国際国家」が歴史に登場するときではないか、ということです。