七司野寝子(第2回)– 月刊極北
覚めたあとは一人きり

 全豪オープンテニスがTVでも中継されている。サーブ、レシーブ、長いラリー……、じっとボールの行方を見守る観客たち。ミスプレーで得点が決まればため息、素晴らしいショットが決まれば歓声と拍手が沸き起こる。そうした会場の雰囲気はもちろんだけれど、試合中の選手たちの表情なども映される。プレーとプレーの間のふっと息をつく瞬間、選手たちはどのような気持ちでいるのだろうかと考えてしまう。「もう無理だ。これで終わりかもしれない……」という諦めの感情がよぎることはないのか……!?
 暗いムードのとき、団体競技であれば、合間にチーム内で声をかけ合うことができる。個人競技の場合、たとえば陸上や水泳、スケート……、レースや試合の最中に小休憩はない。はじめからおわりまで連続して身体を動かし続ける。集中状態から解き放たれて、自分のパフォーマンスを客観的に眺めるのは、既に選手としてできることは全て済ませた後であるように思える。
 テニスではひとつの試合中、汗をぬぐうとき、コートチェンジをするとき、ボールを受け取るとき、何度も身体が止まり、雑念が入りこむ余地が十分にあるように見える。しかも、椅子に座って休憩をするときでさえコーチからアドバイスをもらうことはできない。コーチは観客に混じってスタンドから応援するのみなのだ。むかし、スポ根テニスアニメの主題歌で「コートではだれでも一人一人きり~♪」と歌われていた(注意!私の親の世代である)。あの歌もあながち間違いではないのかもしれない。
 大学受験のシーズン、「受験は団体戦」(私はこの文言が苦手であった)と掲げている高校や予備校があったりするけれど、試験本番はだれでも一人一人きり……、例の歌が流れ始める。目の前の問題に集中しているときは別にいい。辛いのは何かのきっかけで集中が途切れ、ペンを動かす手が止まったとき。隣の人に鉛筆の音が気になりだしたり、簡単そうな問題が解けなかったりして気分が沈み、焦る、焦る、また沈む。そうして、今まで費やしてきた勉強時間はなんだったのだ……、自分は本当にバカなのだな、それにスポーツも苦手だしモテないし……、と全く関係ない考えまでもが邪魔をしてくるのだ。そうして試験時間は残り10分……、なんていうことはあったり、なかったり。どちらにしても試験終了。一方で妄想のほうは、まだまだ続いてゆく。帰宅途中、空なんか見上げながら「別に合格できるかできないかなんて些細な問題だよな」と自分自身を励ましたりするのだ。「世界で起きていることに比べれば、どうってことないし……」と今朝のニュース映像の衝撃を思い出してみたりする。
 とりあえず、テニス選手の場合、目の前の試合の勝敗が今後の世界ランキングに反映され、受験生の場合は試験の出来具合によって4月からの進路が決まる。片手間で乗り切ることができるような特別な人もいるだろうけれど、大半はそうではない。そのことだけに集中して取り組まないとなかなか良い結果が得られない。何にも惑わされず競走馬のようにやりきるのは難しい。普通に生活を送るだけで煩わしいことはたくさんある。その上、新聞やテレビで報道されていることは胸をザワつかせるし、インターネット上も決して平和には見えない。周囲には、先行きが見えない重い雰囲気が漂う、ダークネス。
 そうした漠然とした不安感を理由に挙げて「集中できなくて、今日の試験はほとんど解答できませんでした」なんて言ったら、「それはキミ、現実逃避だよ」と一蹴されるだけ。「現実逃避」……、実際その通りであるとも思うし、それが本当に「現実逃避」のまま過ぎ去ってほしいとも思う。確かに今すぐには自分自身の「現実」には何ら影響しない事柄かもしれない。しかし、そのことがいつかジワジワ関係してくるのではないかという恐れは、不確かな感覚であっても完全に消し去るのは難しいのだ。
 どんなことを行う上でも、無心で取り組んでいたほうが散漫になっているときよりも良いパフォーマンスを行うことができる。でも、惑わしてくる要素は常に満載で重量オーバー。通過不能にならないように、考えてみる。そう……、一度、意識があちこちに飛び散ったあとで再び集中できれば、集中力もパフォーマンスもバージョンアップするはずで……。現実逃避をしつつ現実に居続ける、行ったり来たり、むずかしいなぁと思いながら、寝て朝帰り覚めて夜、一人全開にして、また寝るのだった。