七司野寝子(第1回)– 月刊極北
名無しの猫ちゃん

 もしも、「愛とは過剰に名づけることである」という言説が正しければ、一生のうち本当に少しのものしか愛せないのだな。その過剰さは、野良猫があちこちで様々な名前(タマとかトラとか)で呼ばれていることとはたぶん違う。それに、飼い猫に名前をつけずに、(『ティファニーで朝食を』の「名無しの猫ちゃん」など)自由にさせておくことともおそらく違う。
 ブログを書く上では、名前が必要になる。何と名乗ろうかということを考えていたはずなのに、私の脳裏には名前があるようなないような猫たちが立ち現われてきてしまった。そして私は今眠い。寝る。しかし、今寝るわけにはいかない。寝られない私の代わりに、そうしよう……。
 こうして、ペンネームは「七司野寝子」に決定したのだった。「子」をつけてしまうあたりが時代を感じさせてしまうことは否めない。近年の「女の子名前人気ランキング」には、もはや「~子」は登場しない。キラキラネーム、珍名、きらきらきら。眩しすぎて目をつむる。寝る子へ……、スヤスヤ。
 さて、過剰に名づけることについて考えはじめると、眩しいなどとは関係なしに、本当に頭がクラクラしてくる。そもそもフツウに生活を送る上で、いちいち名前を確認した上でそのものと関わってはいないわけだ。過剰に名前をつけるどころの話ではない。こうしてキーボードをカタカタ叩いているときも「これはキーボードと名づけられたものであって……、ふむふむ……」と、考えながら指に触れさせているわけではない。「キーボード」という名が意識上にのぼるのは、そうなだなぁ……、ある日突然、パソコンからキーボードが切り離されてどこかへ消えてしまったときくらい。(たぶん、そんなことは起きないが……。本当にたぶん!)「あれ……、キーボードがないぞ」という風に考えて、「キーボード」という名をやっと思い起こすのだ。いや……、もっとフツウにキーボードが壊れて買い替えるとき「ちっ……(舌打ち)、キーボード買わなきゃ」って思うことになるのか。
 人物についても事情は同じようで、目の前の会話する相手を「○○さん」と呼ぶことはあっても、単なる慣習や話の流れでそう言うだけで、つきつめて考えた上でのことではない。愛とはほど遠い。愛に少し近づくとすれば、今現在ここにいない誰かを思い描くとき。しかし、そのとき浮かぶのはほとんどの場合、顔や表情や仕草であって、名前は記憶を整理するラベル程度の意味合いでしかないのかもしれない。
 何かを過剰に名づけるには、そのものとの親密さがどうしても必要になる。深く相手に立ち入らねばならない。特に既に名前があるものに名前をつけるのは難しい。新たな名前をつけるには、その既にある名前が属している体系から脱しなければならない。たとえ今まで知られることのなかったような特徴を言い当てたとしても、それは性質を表す表現にとどまり、名前として機能することは難しい。名づけるには、既存の体系から逸脱した上でそのものがそうとしか呼べないような心境に至らなければならない。そうした決定的な衝撃が必要になるのではないかという気がする。
 名づけの過剰さが深刻になればなるほど、狂気的とも思われる事態も生じる。カフカは固有名詞を何度も何度も発音することで既成の意味やイメージをそぎ落とそうとしていたという話もあるし、詩人のペソアは数多くの異名を抱え、それぞれが独立した経歴や生活を持っていた。
 こうしたカフカやペソアの固有名詞や名前に対するこだわりや熱量を思うと、安易に名前をつけようとしている自分が嫌になる。インターネット上の匿名性の楽さにまんまと流されてゆく。まぁ、それはそれで仕方ない。この名前を愛するように頑張って書いていこう。よし、そうしよう。

七司野寝子(ななしの・ねこ)
1987年生まれ。社会哲学専攻。大学卒業後、中高生に小論文の指導を行いつつ、無所属で勉強中。興味の対象は拡散中。