編集部便り
どうでもいいことですが……。(6)

新宿西口小便横町「菊屋」

新宿西口小便横町「菊屋」

 若者の貧困問題が喧しい。しかし、開闢以来、若者が貧乏でなかった時代があっただろうか。
 本当のことを言うと、若者は貧乏の方がいいのである。若者が貧乏な時代こそ健全な社会なのである。若者にしても貧乏こそ自ら誇れる唯一の勲章であることをシッカリ自覚すべきなのである。
 可能なら想像してもらいたいのだが、若い金満家で溢れかえる社会とはいかなる社会なのか、金満とまでは言わなくとも、若者が何の過不足も感じない、自足した社会とはどんな社会をいうのだろうか、私は想像する事すら出来ないでいる。
 貧乏と不満に満ちた若者で溢れた社会は国力の源であり、貴重な国有財産である。私はむしろ今の若者が貧乏でない事を深く嘆いている。

 一例をあげて説明しよう。
 昨今、貧乏で高等学校に通うお金も工面出来ない云々――の、ステレオタイプの「貧乏物語」をよく見聞するけれども、これが何故問題なのか私にはサッパリわからない。高等学校に行くカネがなかったら、いかなければいいのだし、どうしても行きたければ自分で働いて行けばいいだけの話ではないか。
 芸能人などに憧れる若者が、自分の夢を実現させる為に、あえて目先の賎業に甘んじて、健気に頑張る姿をたまーに見かける事があるけれども、勉学でも事情は同じだろう。本当に「高等教育」に身を投じ、更に「最高学府」にまで駒を進め、その道を深く極めたいと思うなら、まず賎業から始めればいいだけのことである。

 「高校三年生」の舟木一夫や、同時代の「青春スター」西郷輝彦、三田明、あるいは日活の吉永小百合、浜田光夫などの、60年代の青春映画を文献を通して眺めていると(という事は私自身映画を観ていないということですが)、主人公が定時制の高校生だったり、夜間部の大学生だったりする事が多い。彼らは(親から学費を貢いでもらう余裕もなく)自明の理として、自力で学校に通うという設定になっている。
 今、若者の貧困を云々し、同情的な論者の視点でこれを観れば、残酷無比の「貧乏物語」ということになるのかも知れないが、実際はそうではない。むしろ主人公にそう言う役柄が与えられていたという事は、当時の社会もそれを当然の事として受入れていたということの証拠だろう。
 勿論、主人公に貧困ゆえの怨恨や暗さは微塵も感じられない。むしろ「体制的健全さ」に溢れていると言っていいくらいである。これらの映画は、多くの同時代の若者が羨望し、憧れるほどの、爽やか青春・学園・恋愛・友情物語だった。
 60年代と言えば日本の高度成長期の最も活力のあった時代――と広く認識され、今ではしばしば強いノスタルジーの対象になる時代であるが、その60年代にして若者の実態はこのようなものだったという事をシッカリ認識しておく必用があるだろう。

 翻って、同世代人口の98%の進学率を誇り「高等学校」で「高等教育」を享受することが、あたかも普通であるかのように語られる昨今であるが、この数字一つをとってみても、喧伝される「貧乏物語」の嘘がよくわかろうというものである。
 そもそも「高等教育」を「普通」に誰でも享受されていい筈がないではないか。そこからして既に心得違いをしているふしがある。まず「高等」という意味をよく考えるべきであろう。普通に誰でも享受できるものを「高等」とは言わないし、そんな普通なものに、いやしくも「高等学校」ともあろうものがなぜ迎合し、受入れる姿勢を示すのか不思議でならない。私は「高等学校」にはプライドがないのかと言いたくなるほどだ。
 ハッキリ言って「高等教育」など、はなから受ける必用もなければ能力もない者に血税を投入し、いつまでもモラトリアム状態に甘やかし、挙句の果てに60%を「最高学府」に送り込んで恬として恥じない社会のどこに貧困があるのだ。あるのは貧困な心だけではないか。
 98%を遊ばせる学費予算があるなら、それを10%の有資格者が使えるように選別した方が、よほど予算の有効や人材の有効活用になるというものである。

 問題はそれだけにとどまらない。これだけの数字の若者に「高等教育」を施し、「最高学府」に送り込んで、それではいったい、誰が森林を切り開いて道路を作り、断崖絶壁に橋を架けるのだろうか。“設計図をかく人間”ばかり社会に増殖蔓延跋扈し、“汗をかく人間”がどこにもいないではないか。社会はなぜその事の異常を声高にいわないのか。
 これで若者の労働力不足が発生しなかったら、その事の方がよっぽど不思議である。
 確認しなくては行けない。労働力不足は人口減少のせいではないことを肝に銘ずべきである。
 額に汗して働く事を厭う社会は必ず滅びる。いくら外国人労働者の移住移民政策をとろうがダメだ。まず自分たちに汗をかく覚悟がない社会は終わりである。私は社会衰退の蟻の一穴がここにあると思っている。

 以上、教育の一例だけをとってみても、若者の過剰な豊かさが社会を如何に蝕んでいるか、その一端をかいま見る事ができるであろう。まず、若者が額に汗して働くのを厭うほどの過剰な豊かさをなんとかしない限りこの日本は終わりである。
 本当に嘱望される有為な若者は周りが放って置かないだろうから、行政からでも何でも遠慮なく支援され援助を受けて自ら天命と信じる仕事に邁進すればいい。しかし、それ以外の若者にまでモラトリアムを許すような豊かなやさしい社会であってはならないのだ。若者は常に貧乏でなければ行けない。自ら貧乏と戦うのでない限り放って置けばいいのである。
 (1月5日、新年会、新宿西口、小便横町、焼き鳥の「菊屋」での居酒屋トークより)