「どんづまり」のなかで

吉岡達也[第9回]
2014年12月17日

宮沢賢治

宮沢賢治

 師走である。例年通り、クリスマスソングが街のそこかしこから聞こえ、イルミネーションが街路を鮮やかに浮かび上がらせている。
しかし、どうにも心に響いてこない。
 人生のなかでは、何をやってもうまくいかない時期が必ずあるようだ。かといって、そこで焦ってしまい、あれこれジタバタするとなおさら良くない結果が待っている。逆境時には身をかがめ、悪い状況を静かにやり過ごすことが肝要と分かっているのだが、そんな時に限って、明らかに不得手なことに手を出すなどの愚挙を犯し、墓穴を掘ってしまうものだ。
 ご多分に洩れず私自身もここ数年、これまでにない人生の危機に直面している。何をやっても上手くいかないのだ。加えて、得体のしれない精神的ダメージが追い打ちをかける。これまで怠けてきたツケが一気に襲ってきたようだ。「どんづまり」――表現できない無力感にさいなまれている。
 この一年を振り返っても、明るい記憶はほとんど浮かんでこない。トピックは春先に某社の資格関連本の執筆を頼まれたことぐらいだ。これが失敗で、担当編集者(ついに直接会うことすら叶わず)からメールによって文章やら内容やら全て否定され、ボロクソに叩かれた。このストレスで4カ月間喘息の発作が収まらず、日常生活に深刻な影響が出た。結局、本自体は「○○研究会」編著という名目で出版されたが、私自身に得るものは何一つ無かった。
 さらに痛風、腱鞘炎にも泣かされた。社会に目を転じても、景気低迷はますます顕在化し「勝ち組」「負け組」格差が急速に進むなか、戦前の暗黒期によく似た風潮が広がっている。権力者(多くは世襲)がその優越的立場を利用して、弱い者をことさらに制圧していく。一体、この国はいつからこんな風になってしまったのだろう。
 何もかもが「どんづまり」なのだ。
 最近では人に会うのもおっくうになり、何もしたくない。願わくば、ただ横たわっていたい。この歳になって、敬愛するブライアン・ウィルソンの歌詞の世界がより体感できるようになってきた。「I Just Wasn’t Made For These Times( 駄目な僕)」というビーチボーイズの佳曲がしばしば頭をよぎる。
 勤めを終えて、ふらふらと師走の街を歩いていたら、聞き覚えのあるチェロの音が聞こえてきて、思わず足を止めた。カタルーニャが生んだ20世紀最大のチェロ奏者、パブロ・カザルス(1876~1973)の「鳥の歌」だ。
 真の名曲というものは、時に人を黙らせるものだという。確かにこの旋律はクリスマスの喧騒をほんの少しだけ静寂に変えていた。「鳥の歌」の主題は「平和」――身に染みた。
日本でカザルスの存在を思い起こしてくれる場所といえば、何といっても神田駿河台の「カザルスホール」だ。実は諸事情あってコンサートホールとしては2010(平成22)年に閉館しており、目下その動向が注目されている。ともあれ、少なくとも日本が誇る室内楽専用施設として世界的なホールであり、何よりも「カザルス」の名を冠していることがその格式を高めている。
 「カザルスホール」の持つ意味合いは他にもある。この場所が不世出の詩人・童話作家として知られる宮沢賢治(1896~1933)が最後の上京の際に滞在した旅館「八幡館」の跡地であることだ。
 1931(昭和6)年9月20日、35歳の宮沢賢治が上京したのは文学者としてではなく東北砕石工場のセールスマンとして、だった。彼はカバン一杯に見本用の石灰岩を詰め込み、故郷の岩手から東京へと向かった。しかし八幡館に到着後間もなく、肺炎を悪化。熱はなかなか下がらず、賢治は親族に向けて遺書をしたためる。連絡を受けた家族は東京にいる知人に頼み、無事実家に戻した。
 賢治のセールスマンとしての姿はなかなか浮かんでこない。事実、賢治に営業的なセンスはほとんど無かったようだ。正直にいえば最後の上京の際の賢治の姿には、どうしてもある種の「どんづまり」感がある。
 宮沢賢治は学生時代からたびたび上京している。若い頃は積極的にチェロやドイツ語を学び、宗教にも傾倒した。そのまれにみる文学的素養は上京を重ね新たな知識を得ることにより、一層充実していった。
 また、学生時代には神田駿河台にあるニコライ堂に強い印象を持ったようで、1916(大正5)年の上京の際には「霧雨のニコライ堂の屋根ばかりなつかしきものはまたとあらざり」という短歌を残している。ニコライ堂が後に滞在する「八幡館」に程近い事実にも興味がそそられる。それ以上に賢治がチェロを最大の趣味としたことと、カザルスの因果は土地の持つ不思議な力を感じる。
 1933(昭和8)年9月21日、賢治永眠。八幡館で賢治が高熱を発していた時からちょうど2年後のことだった。今にしてみれば遺書をしたためた八幡館で、賢治は自らの天命を悟ったのかもしれない。様々な意味で人生の折り合いをつけたのだろう。
 あまりにも有名な「雨ニモマケズ……」の詩は賢治が八幡館から花巻に戻った直後に書かれたものとされている。「どんづまり」を実感しながらも、欲をかかず愚直に日々を送ることができるか。どうもそこが人生の分岐点のようだ。