たけもとのぶひろ(第52回)– 月刊極北
天皇について(3)

■明治天皇制国家を考える(1)

 明治国家には、そもそもの成り立ちや造りからして “嘘や誤魔化し” の類いがあって、そのことが国と人びとに災禍をもたらす因(もと)となってきたのではないか――ぼくはそう疑っています。  
 この疑問を解明してゆく手立てとして今回は、久野収・鶴見俊輔著『現代日本の思想』(初版 昭和31年)における、「明治国家」観をとりあげたいと思います。まず、両氏の考え方の大体のところを見ておきます。

久野収・鶴見俊輔

久野収・鶴見俊輔

 「伊藤博文が明治天皇を中心として作りあげた明治の国家こそは、何よりも一個のみごとな芸術作品のモデルだとみなされてよい。」
「こうして作りだされた一君万民のシステム」「伊藤の苦心の結晶たる明治国家システム、天皇の国民、天皇の日本は、中心としての明治天皇、作者としての伊藤の逝去とともに、各部分が勝手に動きはじめ、全体の調和と統一はこわれはじめた。」

伊藤博文

伊藤博文

 これらの文章から目をひく言葉を選んで整理すると、二つに分けて示すことができます。一つは「一君万民のシステム」「天皇の国民、天皇の日本」です。いま一つは「一個のみごとな芸術作品」「伊藤の苦心の結晶たる明治国家システム」「全体の調和と統一」です。前者のもとでは、明治天皇制国家のシステム(仕組・構造)が論じられます。後者は、それについての評価です。

 後者の評価から見ます。『現代日本の思想』は、明治国家を「伊藤の苦心の結晶」「一個のみごとな芸術作品」と賞賛し、そこには「全体の調和と統一」があると評価しています。この見立ては、日本近代史の “常識” ――どこの国の誰が言い始めたのか知りませんが――みたいに広められてきたのではないでしょうか。彼らは判で押したように言います。 “明治までは良かったのだ、悪くなったのは日露戦争の講和条約調印と日比谷松本楼放火事件以降、とくに大正・昭和になってからで、軍部・大衆の好戦的軍国主義が日本を戦争に引きずり込んでいったのだ ” と。
 しかし、明治国家そのものに問題がなかったとしたら、 “軍部・大衆の好戦的軍国主義” なるものは、いったいどこから出てきたのでしょうか。出どころは「一個のみごとな芸術作品」である明治国家――それ以外には考えにくいと思います。

 となれば、前者の、明治天皇制国家のシステム・仕組・構造――「一君万民のシステム」=「天皇の国民・天皇の日本」――をこそ問わねばなりますまい。
 まず、「一君」が日本を統治するということ、つまり「天皇の日本」ということは、いったい、どういうことを意味しているのでしょうか。たいていの人は「天皇親政」という言葉を思い浮かべ、天皇その人が自ら統治する政治、というふうに答えると思います。そう答えながらも、しかし、なにかしら腑に落ちないものを感じる人が大半ではないでしょうか。そして、その人たちは心の中で反問するにちがいありません――「天皇親政」というのは、形式というか名目だけの話で、要するに「たてまえ」でしょ、と。

 そもそも明治維新のとき16歳であった少年天皇が、自分の名前で発せられた「王政復古の大号令」とか「五箇条の御誓文」とかの文書を自分の力で書くことができるでしょうか。政治というほとんど化け物同然の世界の、いったい何が、天皇にわかるでしょうか。ましてや、国家権力の総覧など出来るわけがありません。実際の統治は、天皇以外の人間――天皇の周りを取り囲んでいる側近の偉いさんたちがやっているのであろう――と、おおよその見当をつけていた人がほとんどだったのではないでしょうか。

 「天皇の日本」「一君統治」の主体は天皇ではなくて、実は天皇政治の輔弼・翼賛――いずれも「助ける」という意味――を自認する側近権力者たちでした。彼らは天皇の名を騙って・天皇に代わって統治行為を行う――このことは、彼ら権力者たちの間でさえ、大っぴらにはできない「申し合わせ=黙契」だったと思われます。なにしろ「天皇の日本」「一君統治」「天皇親政」という国家規模の「たてまえ」を真っ向から否定しているのですから、決して表沙汰になってはいけません。つまり、彼らの「申し合わせ」は最大の「国家機密」だったに違いありません。

そして「申し合わせ」が最大の「国家機密」である以上、当たり前のことですが、側近権力者たちは、自分たちにとって都合の悪い情報は、すべてブラックボックスの中へ放り込み、封印してしまうことができます。あったこともなかったことにすることができるし、その逆もOKです。とんでもないことです。
とまれ、「たてまえ」を掲げる当の人間たちは、国民にはその「たてまえ」を信じ込ませておきながら、自分たちはその「たてまえ」の影に隠れて、仲間うちで天皇権力をほしいままにする――それが「申し合わせ」だというのですから、大したものです。

 このように、嘘をつき・誤魔化し・隠蔽する秘密主義は、『現代日本の思想』が言うところの「(国家)全体の調和と統一」を損なうことはあっても、それに資するものとは言えないと思います。この忌むべき “権力”“ 政治は、明治のど頭に始まって以来、ほとんど体質となって今日まで引き継がれてきたのではないでしょうか。

 以上、『現代日本の思想』が “伊藤の苦心の結晶” ”一個のみごとな芸術作品” と賞賛する明治国家における、「一君万民のシステム」「天皇の国民、天皇の日本」のうち、今回は「一君統治」「天皇の日本」について考えてきました。「万民統治」「天皇の国民」については、次回に論じたいと思います。