たけもとのぶひろ(第48回)– 月刊極北
永続敗戦論(2)

ラッキーと恋人ピース(奥)

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■要するに臆病なだけの話ではないのか?

 正しくは「敗戦」なのに「終戦」と言ってしまう。それは「すり替え」「隠蔽」「欺瞞」である。「終戦」ではなくて「敗戦」でなければならない。白井氏はそう書いています。
 この種のことが、ぼくら日本人には多すぎます。安倍内閣の最近の例をあげると、「武器輸出三原則」を「防衛装備移転三原則」へとすり替えました。これは似たような言葉の言い換えですが、武器輸出の「原則禁止」から「原則容認」への根本的政策転換です。
 なんという誤魔化しを!  と思ってきたことが他にもあります。議論を始めようとしたばかりなのに、早速の寄り道で恐縮ですが、このことについて実際の例を見て、何が問題なのか、考えたいと思います(なお、以下に挙げる事例の順序はアトランダムです)。

 第1。「進駐軍」ではなくて「占領軍」でなければならないということ。
 ぼくは小学生の頃、よく米兵を見かけました。「進駐軍」と呼んでいました。あいつらは正しく言うと「占領軍」だったのだ、と気がついたのは中学生になってからでした。今から思うと、そのとき少年のぼくが感づいていたのは、「占領軍」が事実を表わしているのに対して、「進駐軍」はその事実の大事なところが見えないように隠している、つまり、ぼくらは誤魔化されているらしい、ということだったと思います。念のためと思って、このたび『新明解』で調べてみました。
 「進駐」:他国の領土内に兵力を進め、そこに ある期間とどまっていること。
 「占領」:他国を武力で圧伏し、その領土を自軍の支配下に置くこと。
 やはり、と思いました。子供心に感じていたことが正しかったのです。

 第2。「民政局」ではなくて「軍政局」でなければならないということ。
 連合国総司令部General Headquarters(GHQ)は、ポツダム宣言に基づいて日本の統治を行う、つまり軍政のための連合国の機関です。そのGHQのなかにGS(Government Section)という組織がありました。日本人はこれを「民政局」と訳しました。
 これは間違いです。GHQにせよ、そのなかのGSにせよ、そもそもが軍隊組織であって、一般民間人の組織ではありません。ここにGovernment とあるのは「軍隊による」統治です。したがって、GSは「軍政局」でなければなりません。
 「軍政局」とすべきところをあえて「民政局」と訳した人は、日本が米国(連合国)の軍事支配下にあるという事実をそのまま表現することを躊躇ったのでありましょう。いくらなんでも、まずい、と。しかし、これは嘘をついて物事を誤魔化すことですからね、このことのほうが余程まずい、根本的にまずいと思います。

 第3。「国際連合」ではなくて「連合国」でなければならないということ。
 これについてはまず上山先生の発言を紹介します。
 ①「「国際連合」と「連合国」、これはたしかユナイテッド・ネイションズの同語異訳だったと思います。当時のユナイテッド・ネイションズは連合国宣言に署名した国々のことで、枢軸諸国は除外されています。」(上山春平 上掲書p107)
 ②ここに言う「除外」について先生は、さらに立ち入って次のように論じています。
 「私は、むしろ(国連憲章)第51条に、連合国としてのユナイテッド・ネイションズの元来の姿がくっきりと示されているように思います。つまり、第51条は、「平和愛好国」としての連合国=国連と「枢軸国」=非国連との対立もしくは差別を前提としてつくられたのだと思います。(第51条の)集団安全保障というのは、もともと反ファシズム共同戦線を意味するものだったのではないでしょうか。」(同 p114)

 したがって、United Nations は「連合した国々」でなければならず、通称が「連合国」とそのまま直訳するのが正しい。「連合国」は、その名称だけで、それがどういう性格の組織であるか、その歴史的な意味および背景を語っており、そのこと自体が重要だと思われます。そこへ「国際」などと、ありもしない単語をかぶせると、いかにも不偏不党なニュートラルな印象を与え、正真正銘の事実がどこかへ行ってしまいます。したがって、「国際連合」は誤訳です。ちなみに、他の加盟国はもとより、同じ枢軸国だったドイツもイタリアも、「連合国」と直訳しているそうです。どうして、日本だけが「国際連合」などという誤訳を罷り通らせているのでしょうか。

 発端は League of Nationsの邦訳にあるそうです。すなわち――本来は 「国家連盟」と訳すべきところを「国際連盟」と訳した。その「国際」を、UN の場合もそのまま踏襲した。いずれの場合も英語はNations であって、inter- という接頭辞(=「国家間の」「国家相互の」)のついたInternationalという単語はない。したがって、United Nations は「連合国」でなければいけない。それなのに、どうして?

 朝日新聞はその謎に迫っています(2013.6.19)。春日芳晃・ニューヨーク支局員(当時)は、黒田瑞大氏(みずひろ 外務省外交史料館・館長代理、当時)を訪ね取材しています。黒田氏は言っています。「「連合国」という呼称には敗戦国の屈辱がついてまわる。当時の国民心情からすれば、耐えられなかったはず。知恵を絞り、苦心して考え出したのが「国際連合」だったのでは」と。

 ホントに情けない。国民感情を慮ってのことなら少々の嘘をついても許される、とでも思ってか? 「敗戦国の屈辱」が「耐えられなかったはず」というが、天皇自らが「爾臣民」に向かって「(朕ハ) 堪エ難キヲ堪エ」と言ったではないか? 「敗戦国の屈辱」を ”なかったことにする“ というのは、歴史の改竄に等しいのではないか?

 この伝でいくと、本当のことはどうでもいい、ウソもありだし、曖昧に逃げるのも手だ、ということになりかねません。明言直言すると角が立つ、角を立てると衝突する、衝突は和を乱す、そうなると碌なことはない。だから、そうならないために、「空気を読め」「長いものには巻かれろ」「和を以て尊しとせよ」などと言う。まるで三猿処世訓(見ザル・聞カザル・言ワザル)みたいな話になってしまいます。

 あえて「占領軍」「軍政局」「連合国」と明言しなくとも、「進駐軍」「民政局」「国際連合」と事実を迂回して婉曲に表現し、曖昧なままにしておいたほうが、角が立たないし、その方が “みんな” の「和」のためになる。というのであれば、たとえ虚偽であっても、その方がよいことになる。そういうことだとするともう、お手上げです。
 「事実」など関係ないというのですから、「歴史」が問われることはありません。 “みんな” が第一というのですから、「自分」が問われることがありません。そこに「責任」という言葉はありません。

 「事実」「歴史」「自分」に直面したくないとは、要するに臆病なだけの話ではないですか。
 ぼくら日本人が「敗戦」を「終戦」と言い逃れるとき、以上のような大きな文脈のなかに自身の身を置いて考え直すことが求められているのではないでしょうか。