摩天楼の墓碑銘

吉岡達也[第5回]
2014年9月12日

 夏の東京散策の穴場を挙げるとするならば、皇居周辺や大手町界隈が有力候補だと思う。8月下旬の都心中心部は驚くほど閑散としており、この土地特有の「無機質な静寂感」を心ゆくまで満喫することができるのだ。さすがに炎天下の時間の散策はなかなか厳しいかもしれないが、夕暮れ時にかけて皇居のお濠端から日本橋川沿いに歩を進めると、不思議と穏やかな気持ちになる。単なるコンクリートジャングルの街並みにはない、歴史のぬくもりを感じる。
 現在、大手町周辺は大規模な再開発が続いており、比較的空が広く感じられる一角もある。工事に伴って出土した江戸時代当時の石垣を有効活用した遊歩道もあり、古地図を片手に往時に思いを馳せながら散策するのも、なかなかの楽しみ方だと思う。
 さて、夏真っ盛りの時期だけに今回は少々ひんやりとした話題をひとつ。案外知られていないことだが、皇居~大手町~東京駅周辺は、それこそ無数の人骨が眠っている地域なのだ。
 大正以降、新聞などに取り上げられた「骨」の話題を、年代を追ってみていこう。
 1913(大正2)年、東京駅にほど近い鍛冶橋周辺で、現在は埋め立てられた外濠の底から23個の頭がい骨が見つかる。戦後になって当時の東京大理学部の鈴木尚博士がこれらの骨を詳細に分析した結果、いずれも室町時代中期の人骨であることが明らかとなった。
 1925(大正14)年、皇居・二重橋奥の伏見櫓(やぐら)の石垣から、中世銭「永楽通宝」とともに16体の人骨が発見された。当時は「人柱説」も出るなど、社会的な反響を巻き起こした。
 1934(昭和9)年、皇居・坂下門から5体の中年男性の人骨と古銭が見つかり、翌1935(昭和10)年には東京駅丸の内北口から数十体の人骨が出土。
 さらに1953(昭和28)年には、平将門の首塚に隣接するかつての東京都産業会館建設現場から40体の人骨が、翌年には現在の東京メトロ丸の内線東京駅の建設工事現場の地下3メートルの地点から70体の人骨などが発見された。

八丁堀三丁目遺跡出土人骨(国立科学博物館「人骨コレクション」)

八丁堀三丁目遺跡出土人骨(国立科学博物館「人骨コレクション」)

 なぜ都心の一部で集中的に人骨が見つかるのか。実は中世以降、この地域には多くの寺院があり、何世紀にもわたって地域の墓地としての役割を果たしていたのだ。
 江戸城に入った徳川家康が最初に手がけたのは、江戸に移住する自らの家臣の飲料水を確保するための工事だった。江戸の町は15世紀に太田道灌が居城を構えて開発が進んだものの、その後は急速にさびれてしまっており、家康が居を定める頃は小さな一集落にすぎなかった。そんな土地に大量の住民が移住してくるわけだから、生活のための飲料確保は緊急を要した。その結果として、現在の千鳥ケ淵に「ダム」を築くことによって、貯水拠点を確保したのだ。
 しかし、「ダム」造成に際しては、現在の皇居周辺にあった日蓮宗、禅宗など合わせて16の寺院を浅草など周辺地域に移転することになった。
 寺院と墓地の移転については、本来であれば地中に埋葬された人骨とともに動くのが当然であるが、一刻も早く都市基盤をつくる必要にせまられていた創成期の江戸では、そんな余裕はなかったことは想像に難くない。結局、墓石などのうわものは移転されたものの、埋葬された人骨などはそのまま放置されることになったようだ。
 屈指の巨大都市となっていく江戸は、その後も相次ぐ災害などによって多くの人々が一時に命を落とした。1657(明暦3)年の明暦大火では10万人余りが犠牲となり、1716(享保元)年には疫病が蔓延して約8万人の死者が出た。さらに1862(文久2)年のはしかの流行では実に約26万人もの命が失われたという。
 江戸の埋葬方式はその多くが土葬だったものの、埋葬する場所自体も限られていたため、多くの庶民はその数少ないスペースに、それこそ折り重なるようにして埋葬された。さらに場所が足りなくなってきた場合には、やむを得ず盛り土を築いて埋葬場所の上に埋葬することが繰り返されたようだ。過度の人口集中に墓地の需要が追いつかなくなっている現状がそこにあったのだ。
 さて、皇居~大手町~東京駅周辺の人骨発見のニュースは1970年代後半以降、なぜかほとんど無くなる。バブル経済期などを振り返ってみると、それこそ過去に無いほどの大規模な再開発が各地で繰り広げられたものの、そこでは表面上、さしたる考古学的発見もなかった。
 本当に何も出てこなかったのか。
 開発工事の際には、遺跡が発見されると自治体などに通報する義務があるのだが、建設サイドにとっては工事期間の延長や経費の拡大につながることもあって、いざ埋蔵物が出土しても闇に葬ってしまうケースが少なからずあるようだ。バブル期の都市開発現場の取材を通じ、私自身も幾度か「隠ぺい」の証拠をつかんだことがあった。どうこう言える立場ではないかもしれないが、あえて言わせてもらえるならば、「貴重な過去の記憶」をないがしろにするものには、後年、必ず報いがあると思うのだ。
 西日を浴びる超高層ビルディングを見上げながら、ふと思う。時代の最先端を彩る建築物もまた、江戸以前から連綿と生き続けた人々の厳かな墓標のようなものであると。