たけもとのぶひろ(第40回)– 月刊極北

日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(18)

今月のラッキー

今月のラッキー

 ■最初に「武力行使容認ありき」でよいのか?
 続けて「集団的自衛権の行使を容認する閣議決定および安倍首相記者会見」再論です。
 「閣議決定」によると、「新3要件」を満たして武力行使の容認へと進む道は、次の二つのうちどちらか、ということになります。「我が国の存立」および「我が国の “国益” 」が脅かされる場合が、それです。

 前者についてはこう述べています。「今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る」と。ここに、「我が国の存立を脅かす」危機、とあるのは、もっと端的に言えば、「日本が滅亡するかもしれない」(朝日新聞の解説記事2014.7.3)という、それほどの危機ということを言っているのですね。「滅亡」とはちょっと大袈裟かな、と思いはしますが。
 それにしても、しかし、日本は攻撃されていない、攻撃を受けているのは日本ではなくて他国である、という状況であるというのに、その状況がどうして、日本の存立に関わる、「日本が滅亡するかもしれない」危機ということになるのでしょうか。

 また後者に関して、閣議決定はこう述べています。「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」における必要最小限度の実力行使は許容されると考えるべきだ、と。
 この場合、他国に対する武力攻撃の発生によって危険にさらされるものは、日本の存立、日本人の命、そして「自由及び幸福追求の権利」です。しかし、これら三つはそれぞれの質を異にしており、同列に並べて論じることはできません。また、それらの危険が「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃の発生」の結果であると一義的に解釈することは困難で、意見が分かれるのが通常ではないでしょうか。

 ましてや、言うところの「(国民の)自由及び幸福追求の権利」とは何のことなのか、意味不明です。というか、この「権利」の中には何でも彼でも入ってしまいそうです。その意味不明の・何でもありの「権利」が「他国に対する武力攻撃の発生」によって根底から覆される危険があると、彼らは心配しているのです。
 いちばん心配なのは何なのか、隠すことはないでしょう。もっと堂々と、いちばん言いたいことをはっきりと口に出して言えばよいものを、言わないから察して言うと。
 「(国民の)自由及び幸福追求の権利」とは、つまり、「経済活動の自由及び利潤追求の権利」のことでしょう。もっとも、「日本国の存立」「日本人の命」のすぐあとに「金儲けの権利」と言わんばかりのことを書いて平然としている、この図々しさがなければ、世界中の人びとが聞いているのに、その前で「美しい国」なんて恥ずかしいことは言えません。

 この「金儲けの権利」こそが安倍たちの主要な関心事なのだ、と得心させてくれる話があります。その話とは?
 ①中東ペルシャ湾において機雷が敷設され、石油の輸入が途絶します。
 ②日本のエネルギー供給システムが危機に瀕ことによって、日本経済は死活的影響を被ります。
 ③経済の死活的損失は国民生活の、すなわち日本の国益そのものの、死活的損失を意味します。
 ④したがって、機雷除去のための武力行使は容認しなければならない――という論理です。

 ただ、この論理が適用されるのは、なにも石油だけではありません。そもそもの始まりは、
 「我が国と密接な関係にある他国=米国」の存在です。
 安倍たちは、日米同盟の帰趨が、日本の存在、日本人の生命、日本の国益(利潤追求活動)に「死活的な影響」を与える、との立場です。これをすべての前提に置くと、米国の国益がらみの話にはどうしても日本の国益がからんでしまうわけで、結局は集団的自衛権の発動へと収斂する “流れになる” 否、そういう流れは望むところであるからして、むしろそういう ”流れにする”「積極性」が必要だ、とでも考えているのではないでしょうか。

 安倍たちは、まさかとは思うのですが、ひょっとしたら、何が何でも「武力行使=自衛戦争」へともっていきたいのかもしれません。このように疑う気持ちが、そうであるに違いないとの確信にまで固まったのは、朝日新聞の署名記事(園田耕司記者)の影響があります。園田記者は政府高官の取材にもとづいて次のように書いています。
 「柳沢協二・元内閣官房副長官補は「政府が『経済的な打撃を受ける』『日米同盟が揺らぐ』という二つの理由で、武力行使を始める論理を作っていることが分かった。閣議決定は一見、厳格な制約をかけているように読めるが、歯止めは何もかかっていない。無制限に武力を使えることが浮き彫りになった」と話す。」

 いずれにせよ、彼らの論理は、AだからB、BだからC、CだからD、というものです。
 ただ、このような “一本道を行く” かのような考え方は、違う考えに対してはまるで馬耳東風と聞き流し、馬車馬のように盲進するみたいで、きわめて危ない、危ういと思うのです。かの大東亜戦争のときも、このパターンだったのではないでしょうか。
 しかし、違うと思うのです。AだからB、というけれど、AだからHかもQかもしれないでしょ? また、AはほんとにA以外でありえないのか、ということだってあるのではないでしょうか? 万が一Aであっても非Aに変える努力だって可能なわけでしょう? ありとあらゆる条件が絡まっているのが現実の状況というものだとしたら、いろんな可能性があるはずですし、選択肢をあれこれと考えたうえで決断する――そういう柔軟な思考の手順というか癖というか、そういうものを身につける必要があるのではないでしょうか。