たけもとのぶひろ(第37回)– 月刊極北

日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(15)

今月のラッキー

今月のラッキー

 国民の命を「捨てること」が「守ること」なのか?
 安倍首相の「集団的自衛権行使容認」に関するトンチンカンな記者会見のこと、なかなか終わりにできません。続きの論点をいくつか記します。
 「集団的自衛権の限定的行使」論のいう「限定的」が、集団的自衛権の行使容認を既成事実化するための “目眩まし” であることはすでに述べました。 実際に戦争を始めてしまえば、限定もへちまもありません。目の前の戦争上の必要が最優先となりますから、限定なんて伸縮自在であって、なんとでもなります。
 首相自身、そのことを認めています。「あらかじめ将来起こりうる事態を想定することは容易なことではない」。敵国が何を考えているか想定できない。何が起こるか想定できない。それが戦争です。その想定できない「あらゆる事態に対し万全の備えをするのが大切だ」
と安倍は述べています。「あらゆる事態」に対する万全の備えですよ。どこが「限定的」なのですか。これだと、「全面的」行使そのものでしょうが。

 安倍は全面的な戦争準備をうたっているでしょ。だから、「仮想敵国」の中国からみるとき、日本の――というより日米の――安保政策の見直しは、どのように映るでしょうか。自国をターゲットにした戦争の危機の切迫、ということではないでしょうか。 
 ところが、首相は断じてそれを認めません。まったく反対のことを主張します。
「日本が再び戦争をする国になるといった誤解がある。しかし、そんなことは断じてありえない。」「安保政策の見直しはむしろ戦争を回避する抑止力につながる」と。
 それこそ、そんなことは断じてありえないでしょう。日本が抑止力を強化すれば、仮想敵国も抑止力を強化します。それは戦争回避ヘの道ではなくて、軍拡競争への、ひいては戦争そのものヘの道だと言わざるを得ないのではないでしょうか。

 「戦争をしない国」を是とするのなら、それは平和憲法の基本理念ですし、誰も何も文句ないでしょう。違うでしょ、安倍は「戦争をする国」にしないといけない、とくり返し言っています。だって、かくかくしかじかの脅威がある、と思いっきり脅した上で、国民の命を守らないでよいのか、守るための戦争をしないでよいのか、と何度もまくしたてているではありませんか。
 「人々を守る(ために戦争をしなければならないという)政府の(とるべき)責任を放棄しろと(現在の平和)憲法が要請しているとは私には考えられない」――こういうワケのわからない日本語になるのですよ、安倍の隠しているところを補って書くと。これってトリックですよね?

 同じくもっともらしい口調で “ですね” 、安倍は「責任」について教訓をたれています。
 「集団的自衛権=他国防衛権の行使」を容認すると「戦争に巻き込まれる」、まずいではないか、と心配する向きに答えて、安倍いわく。「巻き込まれるという受身の発想ではなく、国民の命を守るために何をなすべきかという能動的な発想を持つ責任がある」と。
 なんでもかんでも “受身よりも能動がよい” のですか? いついかなるばあいも ”消極よりも積極がよい” と、どうして言えるのですか? 事柄によりけりでしょう。場面・条件にもよるでしょう。さらに言えば、「能動的な発想を持つ責任」を遂行することによって生じるであろう結果に対する責任――いわゆる結果責任――というものもあるはずですが、そちらのほうは、どのように考えているのでしょうか。

 「国民の命を守るために」と言います。それのいちばん確実な、最強の道は「平和」です。「戦争をしないこと」です。当たり前でしょう? 
 ところが、安倍は違います。「戦争をしない」なんて消極的かつ受動的な根性で、国民の命を守ることはできない。国民の命を守るためには、積極的かつ能動的に戦争をしなければならない。国民の命を捨ててかからないと国民の命を守ることはできない。戦争なくして平和はない。「戦争=平和」哲学、これこそが安倍首相の考えだ、ということです。

 しかしなぁ、戦争をするのはだれなんや? 自衛隊員に決まってるやないか、自衛隊員がやらなかったらだれがやるねん? 自衛隊員はそれが仕事やから、しゃあないのか、ワシらは関係ないのか、ホンマに。そう言うてええのか? 

 当の自衛隊員はどう思っているのでしょうか。新聞によると、たとえば、航空自衛隊小松基地所属の40代の隊員はこう答えたそうです。「(戦争と)決まれば、命を捨ててでもやることになる」と。「国民の命」なんて抽象的なものではありません。いま息をしている生身の自分の命です。命を捨てるか敵を殺すか、二つに一つの戦場に出撃するのですよ。出撃それ自体を自分に得心させることができるでしょうか。
できないと思います。できないからこそ、上記の自衛隊員は「やることになる」などと、まるで他人事のような言い方しかできないのではないでしょうか。

命令が下されたら、従うことになる、ということですよね、これは。だとすると、命令が戦争をする、命令が自衛隊員の生命・肉体を借りて戦争をする――そういうことになりませんか。戦争をするのは、国民(自衛隊員)ではなくて、国家(命令)なのではないですか。であるならば、やっぱし、「国民の命」を守るというのは “嘘も方便” の類いであって、本当のところを明かせば、「国民の命」を犠牲にして「国家の命令」を守るという話でしょ、これは。