たけもとのぶひろ(第36回)– 月刊極北

日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(14)

集団的自衛権について自説を展開する安倍首相

集団的自衛権について自説を展開する安倍首相

「血の同盟」だって?
 まだまだ集団的自衛権です。5月15日の安倍記者会見を問題にします。安倍首相の「集団的自衛権の行使」容認論は、同じ安倍という人間の言っていることなのに、その言い分が互いのあいだで齟齬をきたし、つじつまが合わなくなってしまっています。
 国民の理解を求めなければならない場面ですから、言うべきことを言わなければなりません。なのに、それを言わないでおいて別のことを言う。本当のことを隠して言わない。嘘をつく。――こういうやり方だと、会見の全体が単なる支離滅裂になってしまいます。会見を聞いて得心のいった人がどれだけおられたでしょうか。 「集団的自衛権の行使」を容認したばあい、ぼくら国民の明日はどうなるのか、この国の運命はどこへ向かうのか、会見の結果、ますますわからなくなったのではないでしょうか。

 たとえば、首相は「国民の命を守る」と連発しました。朝日新聞の高橋純子記者のコラムによると、その総数は計21回、頻度は1分35秒に1回だったそうです。
 しかし、肝心なのは、首相が言うところの「国民の命」とはどこの国の「国民の命」なのか、ということです。日本国民相手の記者会見ですから、素直に聞けば、もちろん「日本国民の命を守る」という話ですよね。しかし、もしそうであるのなら、「個別的自衛権=自国防衛権の行使」という範畴で考えるのが筋です。

 ところが、かの記者会見のテーマは、「集団的自衛権の行使」をめぐって、その趣旨を説明し理解を求めるというものでした。「個別的自衛権」は一つの話であり、「集団的自衛権」はそれとは別のいま一つの話です。二つの話を一つにすると、どれだけバカバカしい混乱が生ずるか――それの見本みたいなのが安倍の記者会見です。
 安倍はいわゆる「想定例」を持ち出して、 “このような事態に直面したばあい、日本国・自衛隊としては「集団的自衛権」を行使するほかに選択肢がないのだ” と説得しにかかりました。イラストによる絵解きのボードを掲げながら、です。

 安倍はお気に入りの「想定例」を示すことによって、こういうことを言っています。
 “ 朝鮮半島有事(戦争)の際に、米軍指揮下の艦艇が日本人を乗せて退避・救出してくれているとする。そのばあい自衛隊は米軍艦艇を防護しないでよいのか。米軍の防護をしなければ、日本人の「お父さんやお母さんやおじいさんやおばあさん、子どもたちを助けられない。それでいいのか」。いいわけがないだろう。自衛隊は当然、米軍艦艇を防護しなければいけない。しかし、防護するには、その前提として、「集団的自衛権の行使」があらかじめ容認されていなければならない ” と。

 しかし、朝日新聞は “ 有事における米艦艇の日本人救出作戦 ” という、この「想定例」そのものが「想定」不可能だ、と報じています。
 この案件について米国防総省は、日本政府に次の点を断定的一方的に通告しているといいます。①米国政府の「非戦闘員救出作戦」は「自国民退避のための計画」である、②米国民の救出が最優先課題であるから、日本人の救出は約束しない、③日本人非戦闘員の退避・救出は日本政府の責任である、④日本政府に対しては「米国政府の資源に依存しないよう」に要請する。なぜなら「(米国が日本のために自国の軍事資源を投入すれば、その分)米軍と市民がより大きな危険にさらされる」恐れがあるからだ。

 彼らの通告は、要するに「米国民の救出は米国政府の責任であり、日本人の救出は日本政府の責任である。したがって、米艦艇に日本人を乗せて救出する作戦というものは、そもそもありえない。以上終わり。」ということです。しかも、これには恥ずべき “おまけ” までついています。朝日新聞の記事をそのまま引用します。
 「自民党の中谷元衆議院議員は99年3月、周辺事態法など関連法案を審議していた衆院特別委での質問で「(日本政府は)当初、(防衛協力)ガイドラインにも米軍による邦人の救出を入れて、米国が実施する項目ということでお願いしていたが、最終的に米国に断られた」と指摘している。」

 お願いしていたが、断られた、だと? お願いするほうがどうかしています。朝鮮半島が有事となって、日本人非戦闘員の救出命令を出さなければならない事態となれば、それこそ「個別的自衛権」を行使するほかないでしょう。どこに「集団的自衛権」の “出る幕” がありますか。加えて言うと、退避邦人を乗せていようといまいと米艦艇を「防護」してあげないと危ないほど、世界最強の米軍は弱い軍隊なのですかねぇ。 
 とまれ、安倍の「想定例」の話では、「集団的自衛権」がどういうものか、わかりません。というより、混乱してますますわからなくなるのでした。

 しかし、これはつまり、想定例の「想定」を間違えたということです。いまひとつ問題は、どうして「例」なのか、ということでもあると思うのです。
 「例」とは「たとえ」でしょ。日本と日本国民の運命を左右する重大事を「たとえ」の説明で済ますことができるなんて、思いつくこと自体、国民を愚弄しています。
 それにしても、安倍はなぜ「例」を挙げようと思いついたのでしょうか。喩え話をすれば、その先の最も大事な本質的なことは、国民が推しはかってくれる、察してもらえる、とでも “計算” したのでしょうか。早く言うと “逃げた” ということでしょうか。
 何から? 「もっとも大事な本質的なこと」からです。彼自身のホンネとは、そのものずばりを言うと「集団的自衛権の行使」の説得です。ホンネを包み隠すことなく、ごろりと国民の前に広げてみせるだけの度胸がなかったということでしょう。

 ただ、事態がここまで煮詰まる前のことですが、安倍はホンネを語っています。「軍事同盟は血の同盟だ。今の憲法解釈のもとでは、自衛隊は米国が攻撃された時に血を流すことはない」と。言わんとするところは、こうです。 “日本の自衛隊員は、日米同盟のもとで、米国のために血を流さなければならないのに、いまの憲法では血を流してはいけないことになっている。「血を流す」ことができるように憲法を変えなければならない。憲法の改変に時間がかかるのなら、もう待っていられない。その解釈を変えるしかない。とにかく米国とともに戦争ができるようにしなければいけない。”

 安倍は日本の自衛隊員に向かってホンネを宣告しています。 “ 自衛隊員よ、日本のためではなく、まずは米国のために死ね、米国のためのお前たちの死が回りまわって日本のための死になるのだ ” と。 “これが「集団的自衛権行使」=「血の同盟」の掟なのだ ” と。

 “解釈改憲でもしゃあない、ひとまずそれでいこう” と口に出して言ったかどうかはともかく、安倍は “解釈” 改憲のカイシャクによって、平和憲法の最後の息の根を止める “介錯”をたくらんでいるのでありましょう。

 しかしまぁ、たいしたものです。だれが見ても黒なのに、それを白だと言い張ります。嘘も、すり替も平気です。 “お父さんお母さん~” などと世論におもねります。どうせ国民はバカなのだからと、情に訴える手も使います。かと思いきや、強面気取りで “それでええのやなぁ、どうなってもワシは知らんぞ “ なんて脅しにかかります。挙げ句、 ”いまの「平和憲法」では米兵が血を流しているときでも日本の自衛隊員は血を流さないで済む、本当の日本の平和は米国のために血を流す「戦争憲法」でないと守れないのだ“ なんて、平和破壊的かつ戦争挑発的な、アホなことを、真っ昼間、酒も呑まないで大声で言ってのけます。世界中が見て聞いていると言うのに、恥ずかしい話です。
 「血の同盟」だって? 劇画じゃあるまいし、みっともない。