たけもとのぶひろ(第34回)– 月刊極北

今月のラッキー

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日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(12)

「これしかない」憲法解釈
 安倍自民党は、戦争のできる「普通の国」をめざして全力疾走しています。彼らとしては、平和憲法を破棄して “戦争憲法” ――戦争のできる「普通の主権国家」の憲法――に取り替えるのが理想なのでしょう。けれど、それを実現するには、けっこう高いハードルを越えてゆかねばならないし、ぐずぐずしていると時間がかかってどうしようもない、と焦りまくった末に、憲法の条文はそのままにしておいて歴代内閣の憲法「解釈を変更する」、との決断に至ったのでありましょう。現在の平和憲法の下でも集団的自衛権(=他国防衛権)を行使することができる、行使してもよろしい、と。

 これから少しの間、「集団自衛権の解釈変更」問題を考えます。「閣議決定」をみた今日となっては “今は昔” の観をなしとしませんが、まずは石破茂自民党幹事長に対するインタビュー記事(朝日新聞・三輪さち子記者)からとりあげてゆきます。
 石破氏は「憲法解釈」について、こう述べています。
「憲法には9条に限らず、条文のどこにも「集団的自衛権を禁じる」とは書かれていない。憲法をどう読んでも「これしかない」という解釈なら変えられない。しかしそうではない。時代に合わないのなら、解釈を変えるのは当然のことだ」と。

 しかし、9条には、「集団的自衛権を禁じる」と解する以外に解しようのない文言が書いてあります。既述とおり、集団的自衛権とは他国防衛権であり、9条に言う「国際紛争を解決する手段」そのものです。その種の「国権の発動たる戦争」は「永久にこれを放棄する」と明記してあります。この理解は、憲法をどう読んでも「これしかない」という解釈です。
 したがって「変えられない」のであって、だからこそ、自民党の歴代内閣は、集団的自衛権の行使について、「憲法上許されない」「その解釈の変更については十分に慎重でなければならない」とその行使を自ら封印してきたのでした。

 また石破氏は、上記において「時代に合わないのなら、解釈を変えるのは当然のことだ」と述べています。しかし、日本国民は憲法9条の「これしかない」解釈を定着させるのに、半世紀以上の歳月をかけてきたのです。それは文字通り絶対の解釈ですから、解釈を変えるのは無理筋というものです。変えるとすれば、解釈ではなくて憲法9条そのものでしょう。解釈改憲ではなくて憲法改正を国民に問う――それが筋というものです。

 しかし、その筋を通すには、国民主権の発動を避けることができません。国民に決めてもらうということです。安倍とその内閣に、この正道をゆくだけの度胸があるでしょうか。あるわけがありません。彼らの逃げ口上は聞かなくてもわかります。曰く。
  “ 真っ正面から国民に問うて・国民に議論してもらい・国民に答えを出してもらうなんて、そんな時間的余裕はない。それよりもなによりも、丁と出るか半と出るか判らない博打みたいなことは危なくてできない。憲法改正の是非を国民の判断に委ねるなんて無責任なことができるわけがないだろう ” と。したがって “ 国民に問いかけることはしない。ブレずに一気に密室で決めてしまう。国民は決めてもらいたいのだから、決めてやりさえすれば、後から付いてくる。何の問題もない ” というわけです。

 なお、石破氏の上述の発言にある「時代に合わないのなら」との文言について注釈を加えておきます。憲法制定時と21世紀の今日とでは、時代が違う、と言いたいのでしょう。米ソ冷戦体制の終焉、覇権国米国の衰退、新興中国の台頭などにより、世界の秩序が根底から揺らいでおり、いつなんどき偶発的な武力衝突が起こって戦争になりかねない情勢なのに、「平和憲法」でよいのか、時代の要請に応えることができるのか、というわけです。
 しかし、それは安倍とか石破とかの見解であって、ぼくは別の見方です。そのような「時代の変化」があるとしたら、なおさら憲法9条の平和主義に依拠し、その理念を高く掲げて国際社会に貢献する、それが我が国の政治であり外交でなければならないと思うのです。

 続いて石破氏は、憲法前文の理念を捩じ曲げられだけ思いっきり捩じ曲げて、こう述べています。「憲法前文には、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない、平和を維持して国際社会で名誉ある地位を占めたい、とある。集団的自衛権の行使は、前文が示す憲法の精神に合致している」と。しかし、「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という前文の、いったいどこをどうやれば、「集団的自衛権の行使は、前文が示す憲法の精神に合致している」という結論を導くことができるのでしょうか。

 憲法前文のテーマは、平和です。裏を返せば、国益(ナショナル・インタレスト)の衝突回避です。前文の「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という部分は、正確を期してリライトすると、こうなるはずです。<自国の国益のみに専念して他国のそれを無視するような>、排他的一方的な国益の自己主張があってはならない、と。
 国益の対立を認めた上で相互に折り合いをつける努力こそが、平和のための努力です。逆に、この努力を放擲せんか、国益の対立は非妥協的地点へとのぼりつめ、互いに退くことができず、戦争による決着以外に選択肢がなくなります。

 平和憲法を擁する我が国は、他国に対する攻撃を禁じ、専守防衛に徹してきました。国家の自然権とでも言うべき、国家に固有の「個別的自衛権」――これあるのみ、というのが国際社会における日本の、あえていえば「消極的平和主義」の立場でした。
 ところが、安倍や石破たちは、「集団的自衛権」とか「積極的平和主義」などの決まり文句を口癖のようにまくしたて、他国への抑止力・武力展開による、つまり戦争による国際紛争の解決が、当たり前であるかのような “空気” を形成しつつあります。

 インタビューの後半、石破氏はホンネを丸出しにして日本国民を恫喝しています。曰く。
 「集団的自衛権を行使するようになれば、自衛隊が他国民のために血を流すことになるかもしれない。」「米国の指導者は、他国を守るために自国の兵士が命を落とすことを覚悟している。日本の指導者は自国を守るためには命を懸けるが、他の国のための覚悟はできていない。そんな日本の姿勢が今後も世界で通用するのか、考えるべきだ。」

 なんちゅうことを言うてくれるのや! こわいなぁ、ホンマに! 殺さんといてぇなん!
 日本の自衛隊員がなんで米国のために死なんといかんのや! そんなアホな!