編集部便り

時間と空間を楽しむ哲学(1)

 子供の頃読んだ『サルカニ合戦』の教訓も若干尾を引いているのかも知れないが、私には食べた後の柿の種をどうしても無碍に棄てられない傾向がある。これは柿だけに限った事ではなく、他の果実全般にも言える事なのだけれども、とりわけ、柿に関してはその傾向が強いのである。
 雪国の、それも山間の全戸農家という部落出身で、どの家にも庭や畑の脇には大きな柿の木が立っているような環境で育った私にとって、柿は店頭で求める必要もなければ、商品イメージを喚起する事もない唯一の(といってもいいほど)、自然にありふれ、風景にとけ込んだ果実であったが、ひょっとしたら、そういう郷愁がかえって馬齢を重ねた今、柿に対して特別な思いを抱かせているのかもしれない。
 どうこうするというわけでもないのだけれども、棄てきれずに事務机の引き出しに放り込んでそのまま忘れ去り、いつの間にか乾涸びた状態で発見し、その段階で屑篭に放り込む、そう言う事の繰り返しであった。
 ごく稀に、気まぐれを起して鉢に移して芽の出るのを楽しみに観察して見たりした事もあるのだが、今までキチンと成長させる所までやり遂げた事はほとんどもなかったのである。 

 今年の2月8日、連合設計社市谷建築事務所が主催されている「哲学塾」で、『極北』でもお馴染みの、仲正昌樹氏の連続講座「プラグマティズム入門」の何回目かの勉強会があった際、私もお声をかけて頂き、ノコノコ出かけて行ったことがある。

当日の講座ホワイトボードの一部

当日の講座のホワイトボードの一部

それは、講座で勉強した後「懇親会をやるから云々」と言う主催者の誘惑にのった、いわば懇親会目当ての動機不純な参加であった。

講座後の懇親会

講座後の懇親会

 当該「哲学塾」には、この5月に刊行した『戦争と性』の解説として掲載した、宮台真司さんの講演をやらせて頂くなど、普段から何かと面倒を見て頂いているのであるが、この2月8日、東京地方はあいにくの雪模様、それも半端ではない猛吹雪! それを衝いての私の講座参加に、主催者のBさんも感心してくださったのか、ご褒美に? 甘柿を1個、握らせてくださった。

 見るからに美味しそうな柿であった。しかも包装パックには昨今お決まりの「種なし」の表記がない、つまり、豪華にも種の「附録」つきである。
 ただ食べてオシマイにしてしまうのはいかにも惜しいと思った。「桃栗三年柿八年」と言うではないか。そこで、8年後に実を付ける柿の木をイメージして種を蒔く事に決めたのであった。
 この小さな柿の種で8年間も楽しめるのである、しかも8年後には、以後毎年美味しい柿を100年間? 孫の代まで楽しめるのである。何と言う濃厚な時間の流れ、またそれを味わうことの何と言う贅沢。
 Bさんから頂いて5日が過ぎた2月13日の事だった。会社で美味しく頂いた後、出てきた8個の種を、鉢に蒔いたのである(写真1〜4)。

写真1(2月13日)

写真1(2月13日)

写真2(2月13日)

写真2(2月13日)

写真3(2月13日)

写真3(2月13日)

写真4(2月13日)

写真4(2月13日)

 4月7日、発芽した1個を発見(写真5)、更に10日には2個目の発芽を確認(写真6)、14日には3個目を確認し、それぞれ鉢に植えかえる事にした(写真7)。

写真5(4月7日)

写真5(4月7日)

写真6(4月10日)

写真6(4月10日)

写真7(4月14日)

写真7(4月14日)

 写真8(4月26日)、写真9(4月29日)、写真10(4月30日)は、鉢に移し替えた3本の苗木(と言うにはあまりにも頼りないけれども)のなかで、一番成長著しい苗木の成長の推移を追ったものである。

写真8(4月26日)

写真8(4月26日)

写真9(4月29日)

写真9(4月29日)

写真10(4月30日)

写真10(4月30日)

 5月5日にはその成長著しい苗木を移した同じ鉢から、新たな発芽を確認し(写真11)、5月も終わろうとする28日には共に立派に成長する様子を見てとることができる(写真12)。そして昨日7月3日にはそのまま同じ鉢で成長されても、狭くなるので、1本を他の鉢に移す事にした(写真13)。

写真11(5月5日)

写真11(5月5日)

写真12(5月28日)

写真12(5月28日)

写真13(7月3日)

写真13(7月3日)

 8個の種のそれぞれの運命はかなり省略したが、結局、8個のうち発芽したのは5個、しかし、結局、7月初旬の現在まで成長したのは、上記の2本だけであった。
 もっと真剣に成長を促し、かつキチンと管理をしていたならば全部育てる事も出来たような気がしているが、こういう道楽はあくまでも片手間にやるものであり、必要以上に身を入れてはいけないと思っているので、「8打数2安打」をもって善し、とせねばならないと総括している。

 私は、この柿の他に、ラッキーと散歩の際に拾った椿、胡桃、銀杏の種や、隣の敷地から我が社の花壇に落ちたドングリの種、その他、やはり散歩の際に拾った桑、ジャスミン、アケビなどの枝から挿し木を育てて、現在総計100本近くの苗木を抱えてしまっているが、実はこの道楽には一切カネが掛かっていない。
 鉢はゴミ集積所からラッキーと散歩の際に見つけて持ち帰ったり、町内会のおばさんから頂いたものでまかなっているし、土に関しては、毎日のラッキーのウンコと残飯及び会社の敷地内の雑草を混じらせ堆肥を作ってやりくりしているのである。
 不要として一度は捨て去られたもの、そういうものだけを集めて育て成長を見守るのもまた愉しからずや、なのだ。
 尤も、1個の柿を食べる為に8年間待つ酔狂と、誰もが顧みる事なく打ち捨てられた廃棄物に新たな命を与えて遊ぶ楽しみは、なかなか周りから賛同を得られず苦戦しているのが実状だが、それでもめげる事なく、小生、今後は「時間と空間を楽しむ哲学」と、わざと大袈裟に構えて、諸々の事象に託つけ、あれこれ敷衍して行こうと思っているのである。というか、こじつけ強弁していこうと思っている。これは持たざる者の挑戦である。