たけもとのぶひろ(第29回)– 月刊極北

今月のラッキー

今月のラッキー

日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(7)

前回も書いたように、「憲法9条および前文」をかかげる新憲法は、米国・占領軍が草案を書き、日本の議会が可決し、極東委員会を構成する11カ国がその制定に承認を与えることによって成立した「国際的文書」です。このように「国際契約」でもある憲法などというものが、いったい日本の憲法以外にあるのかどうか。
 それはともかく、各契約当事国のそれぞれに発生している責任というものについて考えておきたいと思います。憲法原案を起草した米国の責任は計り知れません。また、憲法制定を承認した11カ国についても言えることは、新生日本が国際契約を履行しているかどうか、平和憲法を実践しているかどうか、見守る責任があるということです。

 他に比類のない最大の責任国・米国が「日本再軍備化」の方向に舵を切ることによって、他国に先んじ、その最大の責任を放棄したことは、世界周知の事実です。中国・ソ連をはじめ他の制定承認国も、戦後世界政治が冷戦化するドサクサにまぎれて、契約の履行を見届ける責任など、知らぬ顔の半兵衛を決めこんだのでした。では、肝心要の、他ならぬ憲法施行国・日本の責任は、どうなったのでしょうか。最高の議決機関において可決・決定した日本国の責任は、どのようなものとして考えられてきたのでしょうか。

 既述の部分と重なりますが、くり返しを恐れずに書きます。日本が平和憲法議決の責任をとる、その取り方というものは、どうしても逆説めいたものにならざるをえません。それが新憲法を引き受けた日本の避けることのできない運命だったのではないでしょうか。
 逆説と書いたのは、例えば「負けるが勝ち」みたいなことです。

 旧敵国・米国の「9条」起草の意図は「日本に対する膺懲」ということでした。すなわち、敵国日本に最大無比の制裁を加えて二度と戦争ができないように懲らしめること、罰することでした。二度と戦争ができなくするとは、あからさまに言うと、戦勝国・米国が主権国家・日本の「主権」を奪うことを意味します。いざというときに最後の手段として暴力=戦争に訴えることができないとなると、一国の国益はおろか、安全すら保障することができません。国家としてもはや一人前でない、半人前、半主権国家の地位に貶められた、ということです。

 しかし、この「平和=膺懲」憲法の、いわば “逆説の論理” によって、世界に誇る平和国家としての活路が開かれたのだ、と言いたいのです。それについてぼくは、 “屈辱=栄誉”の逆転劇、 とでも表現せずにおれないものを感じます。
 ちょっと見ただけでは、まるきり負けているだけのようであっても、その負けが実は勝ちなのですから。まさしく「負けるが勝ち」なのですよ。だって、戦争ができないのだし、戦争をしてはいけないし、戦争をしなくてよいのですから。人を殺さなくてもよいし、殺されることもないし、どんなことになろうと金輪際、戦争から解放されている国なのですよ、わが国は。

 すでに詳述したように日本は、19世紀型主権国家としては半人前の「“普通”以下の国家」となることによって、むしろ国際国家として「“普通”以上の国」として未来へ飛翔することができる――それくらいの可能性を手に入れました。しかも、その可能性を国際社会が認知したということです。それこそが、まさに国際契約としての日本国憲法の真価ではないでしょうか。
 そんじょそこらの「普通の国」とはわけが違うのです。なのに、戦争のできる「普通の国」になりたいなんて、あたまがおかしいのではないですか。逆でしょ? よっしゃ!  でしょう、ほんとのことを言うと。

 すなわち、「負けるが勝ち」の論理を貫徹することが、新憲法を決定した日本国および日本人民の、国際社会にたいする責任というものではないでしょうか。
 この論理をもう少し先へと進めると、日本国憲法は世界の弱者・弱小国に向かって、強者・強大国に勝つとまではいかなくても、負けない方法を伝えようとしている、と言ってよいのではないでしょうか。
 負けないためには、争わない。争いの火種をつくらない。火種を見つけたら、直ぐさま消しとめる。間違っても火に薪をくべるようなことは断じてしない。――それだけの話です。単純明快なこの真実ゆえに、憲法9条はノーベル平和賞に値すると確信します。