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何でも「イコール!」でつないでしまうイコール脳 仲正昌樹【第63回】 – 月刊極北

何でも「イコール!」でつないでしまうイコール脳


仲正昌樹[第63回]
2019年7月16日
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最近のラッキー(記事と関係ありません)

最近のラッキー(記事とは関係ありません)

 前々回 [2]前回 [3]と、黒木玄等、反ポストモダン集団のいい加減な英語読解によるアーレント批判を話題にした。最初話題にした時は、黒木等の英語力・国語力の不足と、「俺は科学が分かっているので合理的に考えられる」という傲慢さが交差することで生み出された単純な勘違いと思っていたが。しかし最近、大学の授業や研究会などで、彼らと同じタイプの勘違い――というより、思考のショート――をしょっちゅうやっていながら、自分ではほとんど気付いていない人間がかなりいることに気付いた。その人たちの多くは文系である。哲学・思想・文学・芸術・歴史などの分野で、黒木並の勘違いを頻発していたら、学術的な会話は事実上不可能であり、本人にとっては致命的である。
 どういう共通の勘違いかというと、Aという概念(あるいは命題)とBという概念(あるいは命題)の間に何らかの関係があるような気がした場合、それを単純に「A=B」と言い切ってしまい、それを口にした後で、自分の言ったことが唯一の真実だと思い込んでしまうことである。
 例えば、Xさんという思想史の権威とされる学者のテクストの中の比較的近い箇所、二頁程度離れた所に、「ハンナ・アーレントは全体主義の起原について研究した」(A)という文と、「アーレントはホロコーストの実行責任者とされるアイヒマンの裁判を傍聴した時の観察から、『悪の陳腐さ』を指摘した」(B)という文があるのを見たとする。この二つのAとBをメモした人間が、そこから「Xさんによれば、アーレントは『悪の陳腐さ』が全体主義の起原である」と、“結論”したとする。高校生とか、将来、思想史の研究者を志望していない大学一年生なら、まあ許容範囲である。しかし、政治思想史、哲学、現代史、文芸批評などを専門とする研究者になりたいという三年生が、これをやったら、まともな指導教員は、「もっと丁寧に読みなさい」と指導するだろう。卒論のテーマにアーレントを選んだ学生がこれをやったら、ちゃんと叱らないといけない。院生になってもやっているようだったら、「テクストを読む基本がなっていない。国語の基本からやり直せ。そのつもりがないなら、研究者になるのは無理だ!」、くらいの調子で本気で叱らないといけない。
 この例でピンと来ないような人間は、少なくとも思想史・文学系の研究に口出しすべきではない。しかし、ツイッター、ブログ、5ちゃんなどで学問論議をしている連中、学術的な講演会などにやってきて的外れの質問をしたがる“学問好きの一般人”の大半は、ピンと来ないのだろう。どうおかしいのか、一言で要約すると、「AとBは密接な関係ある」を「AとBはイコール」に単純化してしまうことである。「AとBは密接な関係にある」というのはいろいろな意味に解釈できる。「AとBの間には因果関係がある」「因果関係とまではいえないが、AがBが成立する条件になっている」「AはBをその要素の一つとして含む」「AとBは対立関係にある」などいろいろ考えられる。また、AとBが想定したように二頁離れていたら、その間にかなりたくさんの文があるので、様々な関係の連鎖があるはずである。それらをすっとばして、AとBの間の関係について自分の頭で整理しないで、重要なキーワードらしいという印象だけで、イコールで結んでいたら、論理的な思考など不可能である。「文系学者、特にポストモダンは非論理的だ!」と言いながら、自分自身はこの手の短絡的な“イコール思考”をしている反ポストモダンの“論客”は少なく多い。
 ごく少ない字数で、バカでも記憶できそうな単純なフレーズを書きこむことで、不特定多数の注目を集めようとするツイッタラーや、概念相互の複雑な関係を把握することができなくなっているのに、無理に論客ぶろうとする老人――あるいは、老人並みに思考力が低下している自称論客――は“イコール思考”に陥りやすい。
 よくある例に、「ニーチェ(A)はドゥルーズやデリダなどポスト構造主義とされる思想家たち(B)に強い影響を与え、彼らのテクストでよく引用される」という文を、「ニーチェはポモの元祖だ」(X1)、更には「ニーチェはポモだ」(X2)という風に短絡するパターンがある。こういう風に単純・短絡化する奴は、そうやって自分流に単純化した文を前提にし、他の単純化した文とくっつけて、更にひどい文を作り出す。例えば、「(ポモの権化である)ニーチェ(C)は、真理を力と不可分に結び付いているものとして批判的に捉えていた(D)」という文を、「ニーチェ(C)は、真理の存在を否定した(D′)」(Y1)、あるいは「ニーチェ(C)は、真理は無意味であると主張した(D〞)」(Y2)へと変形する――本人には変形したという自覚がない。X1とY1を合成すると、「ポモのニーチェは真理を否定した」という文(Z1)になるし、X1とY2を合成すると、「ポモのニーチェにとって真理はどうでもいい」(Z2)となる。
 もっとひどい場合には、このニーチェによって“否定”されている「真理」というのを、自然科学や数学を成り立たせる基本的な命題の真理性という意味に取ったうえで、更に単純化する変形を重ね、「ポモ=ニーチェは、自然科学・数学における真理は、人間の気分次第でどうにでもなるものと考える」(P)→「物理学者のアラン・ソーカルはそうしたポモの本性を見抜き、実証した」(Q)→「したがって、ソーカルの主張に対するポモたちの反論は、根拠のない悪あがきにすぎない」(R)という結論を導き出す――ソーカル事件と、それに対する日本のネット論客たちの低レベルの受容については、この『極北』の連載をまとめた『続Fool on the SNS』 [4]を参照。
 こうした歪曲・単純化は伝言ゲームのような形で連鎖していく内に生じることもあるが、一人の頭の中でどんどん進行していくことがある。後者の場合、救いようがない病である。自分ではちゃんと考えているつもりになっているのだから。Rのようなことは真顔を主張する輩は、自らの何重もの歪曲・単純化の産物であることを自覚しておらず、各段階の「イコール」が妥当だと思い込んでいるので、間違いを指摘してやろうにも、どこから手を付けるべきか見当がつかない。先のニーチェの例について、思想史に詳しい人が、「Y1は見当外れだ。ニーチェはD′のようなことは言っていない。もしそうだと言い張るのであれば、ニーチェのテクストの該当箇所を示して証明してほしい」、と教えてやったとする。すると、イコール脳の人間は、「何を言うニーチェの専門家として有名な、E先生が解説書の中でD′だと言っているではないか。あなたは、自分がE先生よりも、ニーチェに詳しいというのか」と“反論”する。「いや、E先生が言ったのはあくまで、Dだ。君の言っているD′とは違うだろ」とただしてやっても、イコール脳の人間はそれが理解できない。自分が一度イコールで結んだものは、永久にイコールであり続けるのだろう。[2×2=4]の[=]が永久に否定されることがないのと同様に。だから、「それは些細な言葉遣いに拘る揚げ足とりだ。だからポモはダメだ」、などと言って、自分の脳内で問題を処理してしまう。こうなってしまうと、他のポイントで間違いを指摘しても無駄である。論点ずらしをしているだけなのだが、本人は数学的に明晰な論理に従って推論しているつもりになっているのである。
 これよりも一見高尚そうに見える他の例を上げておこう。生半可にドイツ近代思想史をかじって、理解したつもりになった奴は、「討議原則の普遍性に関するハーバマスの主張は、カントの定言命法を、間主観性という視点から変形することを試みたものである」という文と、「ヘーゲルは、定言命法に集約されるカントの道徳哲学の抽象性を批判して、歴史的現実に即した道徳哲学を構築しようとした」という文を、「ハーバマスの基本はヘーゲルではなくてカントだ」という単純な文へと“要約”してしまう。ひどい場合は、「ハーバマスは(ヘーゲルではなくて)カントだ」と言ったりする。三者の間に複雑な関係があることを理解したうえで、当面の主要なテーマではないので、便宜的な短縮表現として言っているだけなら、いいのだが、ダメ院生や壊れかけている老害は、「ハーバマスはカントだ」を「ハーバマスはドイツ人だ」と同じレベルの明確な意味を持った命題として扱おうとする。例えば私がハーバマスの社会理論のヘーゲル的な側面について説明しようとすると、「仲正はハーバマスがカントだということが分かっていない。全然だめだ」とか言い出す。この手の雑なこと極まりな文を口にして、学者ぶっているバカが多いので、疲れる。
 この手のイコール脳の人間の雑さは、英語など、外国語を読ませると際立つことが多い。よくありがちなのは、関係代名詞と先行詞の関係――どちらが主語でどちらが目的語か、あるいは補語になっているのか、前置詞を介して繋がっているのか――が分からない、関係代名詞が省略されると関係文として認識できなくなる、能動態と受動態の区別がつかない、前置詞を読み飛ばして適当に二つの名詞を繋いでしまう、節の区切りを見つけられない…といったことである。これらは読解の基本なので、まともな感覚の人間なら、これらが自分にとってクリアにならない限り、その外国語で書かれた文の中身について偉そうなコメントなどできないはずだが、イコール脳の人間は、適当に概念をイコールで繋いで分かった気になるので、見切り発車してしまう--本人は見切り発車したつもりはなくて、ちゃんと分かったうえでコメントしているつもりになっているので、物凄く始末が悪い。
 前々回取り上げたBerkowitzの《Misreading ‘Eichmann in Jerusalem’》を素材に考えてみよう。ひどいイコール脳君だと、このタイトルからして、[misreading≒misleading]だと勘違いしてしまう。これは単に発音が身に付いていないので、〈r〉と〈l〉を取り違えたというだけの話ではない。現在分詞の文法的役割が異なっている。といっても、私に言いがかりを付けてくるような連中には、何のことだか分からないだろう。

This time, a new critical consensus is emerging, one that at first glimpse might seem to resolve the debates of a half century ago. This new consensus holds that Arendt was right in her general claim that many evildoers are normal people but was wrong about Eichmann in particular. As Christopher R. Browning summed it up recently in The New York Review of Books, “Arendt grasped an important concept but not the right example.”

 この箇所を見ると、単語だけで分かった気になるイコール脳君は、〈a new critical consensus is emerging〉という部分だけ見て、アーレントのテーゼが否定されたという記述だと思い込むことだろう。そして、三つ目のBrowningを主語とする文の〈not right〉で、その確信を強めるだろう。こういう風に分かった気になってしまう奴は、治癒しがたい。先ず、〈a new critical consensus〉という強めの表現が主語になっているものの、〈emerge〉という動詞の現在分詞形が使われていることに注意する必要がある。〈reach〉でも〈achieve〉でも〈establish〉でもない、しかも過去分詞ではなく、現在分詞である。更に、その後ろの関係文に、留保を含意していることの多い〈at first glimpse〉という副詞句と、〈might〉という条件法の助動詞が使われている。英語にある程度慣れていたら、こういうポイントを見逃すはずはないし、英語は苦手でも、文章は、様々な挿入的な要素や語彙のチョイスで、単純な肯定/否定ではない、微妙なニュアンスが出る、という国語的な常識さえあれば、「あれっ、何かよく分からない言葉があるな、辞書と参考書で調べてみないといけない」と思うだろう。
 また、Browningは、アーレントを主語にして、〈Arendt was not right …〉と言っているのではなく、例について〈not right〉と言っているのである。〈right〉という形容詞は様々な意味合いで使われる。何について言われているかで意味合いがかなり異なる。イコール脳君にとっては、〈right〉の意味は、数学的な意味での「真か偽」の「真」でしかないので、こういうことを言っても、何かの文学的たわごととしか思えないだろう。カリスマ予備校英語教師の教科書で、受験英語を覚えた奴には、この手のバカの一つ覚えをしている者が少なくない。そういう奴は、カリスマ講師が教えてくれたのと違うことを言う人間の話は全否定する。英語が分かっていない奴と決めつけたりする。場合によっては、英語のnativeに指摘されても、屁理屈を言って否定するだろう。当然、そういう奴は、改めて辞書を見て、「ああこういう意味や用法もあるのか」、と確認したりしない。だから、時と共にどんどん英語の読解力が低下していく。
 以下の二つの段落のつながりも、イコール脳君の短絡的な理解を誘発しやすい(下線は引用者による)。

Behind this consensus is new scholarship on Eichmann’s writings and reflections from the 1950s, when he was living among a fraternity of former Nazis in Argentina, before Israeli agents captured him and spirited him out of the country and to Israel. Eichmann’s writings include an unpublished memoir, “The Others Spoke, Now Will I Speak,” and an interview conducted over many months with a Nazi journalist and war criminal, Willem Sassen, which were not released until long after the trial. Eichmann’s justification of his actions to Sassen is considered more genuine than his testimony before judges in Jerusalem. In recent decades, scholars have argued that the Sassen interviews show that Arendt was simply wrong in her judgment of Eichmann because she did not have all the facts.
These facts, however, are not new. An excerpt from the Sassen interviews was published in Life magazine in 1960. Arendt read them and even wrote that “whether writing his memoirs in Argentina or in Jerusalem,” Eichmann always sounded and spoke the same. “The longer one listened to him, the more obvious it became that his inability to speak was closely connected with an inability to think, namely, to think from the standpoint of someone else.” His evil acts were motivated by thoughtlessness that was neither stupidity nor bureaucratic obedience, but a staggering inability to see the world beyond Nazi clichés.

 ここでは、アーレントを主語にして、〈simply wrong〉と言われている。自分の等式に固執するイコール脳君たちは、既に「それみろ!」と叫んでいるかもしれない。しかし、ここでも、〈wrong〉だと筆者の見解として断定されているのではなく、〈scholars〉を主語にした文のthat節で言われていることである。しかもscholarsがそう判断する理由として挙げている〈because~〉以下の部分が、次の段落の記述で、見事に反論されている。ただ、イコール脳君たちは英語力も国語力もないので、次の段落が反論になっていることに気付かないだろう。〈Arendt was not wrong…〉と書いてあれば、さすがに気付くかもしれないが、それについて、Berkowitzは単純に白黒つけるのを回避しているように見える。どうしてそうしているのかは、学問的に考える習慣が身に付いている人には説明するまでもないことだが、イコール脳君はどう説明してもらっても理解できないだろう。
 この手の間違いはまだ高尚な方である。イコール脳君たちは、ごく単純な文しか受け付けられないので、主節と従属節があるだけでいっぱいいっぱいになる。いずれかの節に、関係文や若干複雑な副詞句、分詞構文、挿入句などが入っていると、パニックになってしまう。意味のある日本語に訳すことなどできない。
 英語の話はこれくらいにして、単純なイコール化とは一見逆に見えて、実は同根の現象を指摘しておこう。答えるべき問いに直接答えようとせず、関連情報の蘊蓄で代用しようとする奴がいる。壊れかけた老害の名誉教授や、自分のPCに情報をため込んでおきさえすれば、理解を深めたことになると思い込んでいる基本のなっていない院生に多い。例えば、法哲学・法思想の研究会で、「ヘーゲル法哲学において、事実としての占有から法的な所有権が生じてくる根拠についてどのように説明されているか」、という問いについて議論しているとする。これに答えるには、ヘーゲルの『法哲学要綱』の該当箇所を読むしかない。納得できるかどうかは別にして、ヘーゲルの考え方の筋道は明白である。
 ところが『法哲学要綱』をちゃんと読んだことがない、読んでも理解できないくせに、偉そうなことを言いたがる奴がいる。そういう奴は、「いや、当時、サヴィニー等のローマ法学の研究者の間で、占有と所有をめぐる議論が闘わされていた。ヘーゲルはその問題に答えようと必死に考えたはずだから、その論争を知らないで、議論しているあなたたちは見当外れだ」、などと言う。どこか有名大学の名誉教授がこの手のことを言うと、気の弱い初学者は惑わされてしまうかもしれない。しかし、本題がヘーゲル自身の論理を哲学的に再構成することだとすれば、ローマ法学者の論争はあくまで背景情報にすぎず、そういうコメントをする方が見当外れである。
 ただ、参考になるのは確かなので、サヴィニーたちの論争を要領よくまとめたうえで、それとヘーゲル自身の議論をうまく関連付けて説明してくれるのであれば、無礼な物言いは許してやってもいい。ところが、そういう偉そうなことを言う割には、肝心な議論の中身は全く説明できない。「それについては日本でも、民法学の〇〇先生や△△先生の業績があり、そこでいろいろ複雑な問題が指摘されているのであって、それを先ず理解したうえで…」、などと言ってお茶を濁そうとする。要するに、中身のない権威主義で逃げ切ろうとするわけである。法学、哲学、歴史、文学研究にはこの手の浅薄な権威主義で、偉そうな顔をしているバカが少なくない。ただ、本人はそう思っていない。本質的なことを言っているつもりになっている。
ハイデガーがカントの構想力論をどう解釈していたかという問題を論じるのに、『判断力批判』に関する研究文献のリストを読み上げ、自分はそれらの文献(の存在)を知っているから、君たちよりもこの問題をよく分かっているという。サンデルのロールズ批判のポイントになっている「負荷なき自己」とは何かという問題を論じている時に、サンデルはロールズを誤解していると断じる専門家の論文名をいろいろ挙げるけれど、「負荷なき自己」とはどういうものか自分では説明できない。「問題に答える」ことを、「その問題の答えが書かれている(と自分には思われる)文献を挙げる」ことが、イコールになっているのである。完全な論点ずらしなのだが、本人の中では、「答えがある(と自分に思える)場所」を示すことが、「答える」ことと等価なのかもしれない。これは、旧来の権威主義の老人と、ネット検索で全ての知識が得られると思い込んでいるバカ者に共通する傾向のようである。
 イコール脳による思考の単純化が進んで行くと、連想ゲームで“思考”しているような感じになる。例えば、Brexit問題について考えてみましょう、と言われたとする。「英国のEU離脱の原因の一つに、移民問題がある」とニュースで聞いたのを何となく思い出す。イコール脳の中では、当然、「英国のEU離脱の原因は移民だ」、と単純化される。「移民」と「難民」が混同されて、「英国のEU離脱の原因はシリア難民問題だ」となったりする。その次に、「『移民or難民問題』は、グローバリゼーションと関連している」というようなことが、どこかの思想雑誌に書かれていたのを思い出す。更に、「グローバリゼーション」と「新自由主義」を結び付けていた一九九〇年代の言説を何となく思い出す――両者がどう関係しているのかについては、当然、自分では説明できない。それで、「英国のEU離脱の原因は、グローバリゼーション=新自由主義だ」、という文が出来上がる。そして、「新自由主義」から、「安倍自民党」というワードを思い出す。最終的に、「英国のEU離脱は、本質では、安倍自民党の問題と同じだ」、というような意味のよく分からない文ができあがる。しかし、それが深い洞察による発見だと思い込んで、自説を説いて回ろうとする“論客”は少なくない。何でもイコールで結んでいると、次第に、この手の“天下の論客”へと“進化”していく。

 少し話題が変わるが、黒木等のイコール脳ぶりを指摘した前々回の記事について以下のような、失礼なツイートをした奴がいる。「北大M1 radiographer」を肩書とする、「yam‏ @yachts111xenon」というハンドル・ネームの奴である。

この仲正昌樹先生という方は 一体どうしたんだろうか それなりの地位のお方と思われるが 学者とは思えない感情的な文章だ

 いつものことながら、この手の連中には、見たいものしか目に入らないようである。黒木も一応は大学教員のはずである。彼が私や他の人に対して失礼極まりないことを言っているのも、そのことを私が指摘しているのも、こいつの目には入らないだろう。そのうえ、大学の教員は、論文ではなくエッセイを書く時も、失礼な中傷罵倒を受けても、決して、相手に攻撃し返してはいけないというルールがある、と思い込んでいるように思える。北大のMIと言っているが、大学に対して勝手に妄想を抱いている、呆けかけた老人の妄言のように思える。本人は、何らかの公式に基づいて冷静な判断をしているつもりなのだろうから、いくら説明しても受け付けないだろう。
 この手の輩の失礼な物言いについても、少し書いてみたいことがあるが、それは別の機会にとっておこう。