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日本的な反ポモ集団は、読解力の低さによって“結束”しているのか?―山川ブラザーズの甘えの構造 仲正昌樹【第47回】 – 月刊極北

日本的な反ポモ集団は、読解力の低さによって“結束”しているのか?―山川ブラザーズの甘えの構造


仲正昌樹[第47回]
2017年8月1日
[1]

 これまでこの連載で何回も述べてきたように、自称評論家の山川賢一や祭谷一斗等の山川ブラザーズとも言うべきネット上の集団は、世間的にポストモダン系と呼ばれる人たちを罵倒することで注目を集めようとする、ゴロツキである。そのくせ、「ポストモダン系の思想」とはどういうものかを自分たちでは全然説明できない。どこかのポモ批判者の言葉を受け売りして自分では何も理解しないまま、「科学性がない!」とか「エヴィデンスがない!」「もう終わっている!」と叫んでいるだけである。
 その山川が最近、私の名前を出して以下のような主旨が不鮮明なツイートをしている。

ふと気づいたんだが、哲学でわからないことがあったらここに書いておくと仲正先生が翌月のブログで「愚かな山川はこんなこともわからないのだ!」と言いながら教えてくれるのではないだろうか。

聞いてみた。仲正先生以外の識者から教えていただくのも別にやぶさかではないです

 
 何か哲学的な内容に関する質問があるらしいことは分かるが、誰に質問したのか分からない。私は当然、彼から質問を受けていない。仮に、このぶっきらぼうなツイートで私に質問したつもりになっているのなら、彼は他人に質問するときの基本的な作法を知らない。先ずは、私が偽学者であるかのように印象操作してきたこれまでの無礼な言動を詫びたうえで、その質問をツイッターではなく、メール、手紙、電話などで直接伝えるべきである。私ではなく、別の人に質問したのなら、こういう紛らわしいツイートは迷惑だ。よく知らない人が、私が山川から質問を受けたと勘違いしてしまうかもしれない。学者として学術的な内容の質問を受けたのに、不誠実にも“放置”していると思うかもしれない。
 誰に聞いたのかは判然としないが、前後のツイートからすると、彼が言っているのは以下の書き込みのようである。

デリダ、哲学の余白より「差異はトポス・ノエートス(叡智界)のなかに書き込まれているのでもなければ、あらかじめ脳髄の蝋板に書かれているのでもない。(中略)ただ諸差異だけがそもそものはじめから徹頭徹尾「歴史的」でありえるのだ」

もろブランクスレート説にみえる。

これは言い抜け不可能でしょう。わざわざ脳髄の蝋板がどうとかいっちゃってるもの

 相変わらず、雑な発想による決めつけがひどい。こんなのは、まともな大学院とか学会だったら、到底質問として受け付けてもらえないひどい代物だが、学者になれない、未熟な学生にありがちの勘違いがコンパクトに凝縮した、面白い事例なので、少しコメントしておこう――とっくの昔に学者になりそこなっている、質問の仕方も知らない山川に対して“回答”してやるわけではない。
 まず、山川は「質問」だと言いながら、デリダがブランクスレート説なるものを前提にしているとほぼ断言し、デリダをバカにしようとしている。侮蔑的な断言をしておきながら、質問するというのはおかしい。ある学者に対して、「こんなこと言うなんて、学者としての資質を疑います」というような暴言を吐いておいて、その学者当人に、「こんなこと」の意味するところについて“質問”をするのは、極めて無礼な行為である。その学者がまともに答えてくれると思っているとすれば、頭がおかしい。下手に答えると、曲解されて、誹謗中傷の材料にされるのではないか、と警戒されて当然だ。この場合、デリダ本人への質問ではないが、山川は、私あるいは他の哲学・思想史の研究者がデリダについて研究し、それなりに高く評価しているということを前提にして、“質問”しているはずであるから、その行為は、当人に対する侮辱と似たような意味を持つ。本気で質問したいのなら、虚心坦懐な態度を取るべきである。
 しかし、大学院生や、学者志望の生意気な学生には、そういう当たり前のことが分かっていない奴が多い。無礼な口調で質問の体をなしていない“質問”をして、無視されたり、叱られたりすると、逆恨みして、「答えられないので、逆ギレした」などと言いふらす。これまでの言動からすると、山川や祭谷一斗、uncorrelatedなどは、その手の学生だったのではないか、という気がする。
 もう少しコミュニケーションの手順について述べておくと、デリダの『哲学の余白』の訳者は早稲田の藤本一勇氏なので、本気の質問であれば、先ずは、藤本氏に聴くべきだろう。あるいは、内容から見て、山川が卒業したはずの名古屋大学の文学部にはその方面の専門家がいるので、その先生に聴いてもいいだろう――山川は、母校の先生に質問することさえできない状況にあるのかもしれないが。いきなり私の名前を出したのは、私が反応すると、ネタとして面白くなるとでも思ったからだろう。
 また、あるテクストの内容について質問するのであれば、原典と邦訳の頁数を明示すべきである。文学、哲学など、テクスト読解に重きを置く分野の基本である。山川は邦訳の頁数さえ書いていない。ネット上の他人のブログ上のメモなどからコピペしたせいで、頁数をちゃんと書けないのかもしれない。後で述べるように、邦訳でいいから、元のテクストが手元にあり、前後の文脈をちゃんと把握していれば、上記のような勘違いはしないはずである。
 内容に入ろう。先ず、「ブランクスレート説」という言葉だが、この連載の第四十二回で述べたように、極めて曖昧である。人間の知覚や意識の内容が、文字通り、全て白紙(ブランク)の状態から始まって、どのようにでも構成され得ると主張した著名な哲学者は実在しない。また、「ブランクスレート説」批判を展開している主要な論客である認知心理学者スティーヴン・ピンカーは、ポストモダンを主要な論敵に想定しているわけではない。哲学史的には、「ブランクスレート=心は白紙」説は、ロック以来の英国経験論の特徴とされている。経験論的な立場を取るのが、山川の言う「ブランクスレート」説だとすると、英米の分析哲学の大半がブランクスレート説に従っているダメな学問ということになってしまう。このことはきちんと指摘したはずだが、山川は相変わらず、自分でもよく分からないまま、適当なイメージで「ブランクスレート」という言葉を使い続けている。自分でもよく分かっていない「ブランスレート」という“概念”を前提にして、「デリダはブランクスレート説ではないのか?」、と質問しようというのであるから、全く無意味である。
 また、「脳髄の蝋板」という表現にひっかかって、デリダがインチキ認知科学を展開していると思い込んでしまう山川は、国語力が著しく低いか、科学の基礎知識が中学生レベル以下であるかのいずれかである。人間の脳内が蝋板のようになっているとでも思っているのか?空間とか時間、因果関係のような基本概念がどの程度生得的に定まっているかは別にして、脳全体が反液体状のまとまった物質になっていて、どの場所にどの情報が貯蔵されているか正確に決まっているわけではない。基本概念の生得性の度合をめぐる問題と、脳内の機能分化は別の問題である。デリダは当たり前のことを言っているにすぎない。
 山川や祭谷のように、哲学についても自然科学についても基礎知識があやふやなくせに、理系的な情報を孫引きして哲学者をバカにしたがる人間にありがちの勘違いを避けるべく、念のため言っておくと、デリダが「蝋 cire」という比喩を使っているのは、物質の本質をめぐるデカルトの「蜜蝋の分析」を念頭に置いているからである。これは、哲学をちゃんと勉強している人なら、必ず知っているはずの比喩である。デリダ自身が、脳を蜜蝋状の板でとしてイメージして、その前提で議論をしているわけではない。
 山川は、デリダが人間の脳の働きをめぐる似非科学的議論をしていると思い込んでいるようだが、これは哲学や文学研究が分かっていない人間にありがちの見当外れな言い分である。山川の(恐らく孫引きの)“引用”の直前の箇所を見てみよう。藤本氏の訳からの引用である。

「或る言語のなかには、その言語の体系のなかには、もろもろの差異しか存在しない。だから分類学的な作業がそれら諸差異の体系的・統計的・分類的な明細目録の作製を企てうるのである。しかし一方で諸差異は戯れる――ラングのなかで、またパロールのなかで、そしてラングとパロールのやり取りのなかで、他方で諸差異自体は結果である。」

 これではっきり分かるように、この前後でデリダは、「言語」が「差異の体系」であるというソシュール言語学の議論を確認したうえで、そこに独自の主張を加えている。以前のツイートからすると、山川は、構造主義も“ブランクスレート説”に関係していると思い込んでいるようだが、見当外れである。言語が「差異の体系」であるというのは、言語の機能は、もっぱら諸事物に聴覚的(+視覚的)なイメージを与えて、相互に区別することにある、ということだ。「犬」を〈イヌ〉、「猫」を〈ネコ〉、「狸」を〈タヌキ〉と呼び、相互に区別するわけである。その場合、「犬」を〈イヌ〉と呼ぶか、あるいは〈dog〉〈Hund〉〈chien〉などと呼ぶのかは、各言語ごとに異なり、どういう音の組み合わせを使うかは、「恣意的」だとされる。また、フランス語で〈chien〉と呼ばれているものが、日本語の「犬」だけでなく、「狸」も指すことがあるように、聴覚的イメージとしての「意味するもの」と、それによって「意味されるもの」の関係も恣意的である。こうしたことは言語学的な事実であって、脳の仕組みとは関係ない。山川がデリダのイタイ発言だと思い込んでしまったのは、そういう当たり前の事実の確認である。
 念のために言っておくと、「意味するもの」と「意味されるもの」の関係は完全に恣意的か、人間の発声組織や認知のメカニズムと多少の関係はあるのではないか、ということはソシュールを研究している人たちの間でも指摘されており、言語学と認知科学の中間領域で研究が行われているが、少なくとも、「犬」を〈イヌ〉という音で表示することに、生物学的な必然性がないのは確かだろう。絶対的に「恣意的」だと言い張る言語学者はいないし、構造主義の成果を踏まえて議論するレヴィ=ストロースやラカンのような構造主義者、それを脱構築していこうとするデリダやドゥルーズも、そこに拘っていない。脳の認知メカニズムの話などしていない。脳の認知メカニズムとは違う次元の話だ、直接関係ないと断っているのに、山川は、それが脳内の話だと思い込んでしまう。だったら、もっと分かりやすく書けと言い出すかもしれないが、山川、祭谷、uncorrelatedのように、自分でオリジナルのテクストを邦訳でさえ読もうともせず、ネット上で見つけてきた断片の中の、自分にも理解できそうな、更に小さな断片に噛みついて騒ぐような輩にも分かるように書くことなど不可能だし、無意味である。
 この程度のことは、名古屋大学の構造主義言語学や構造主義を応用した文学理論の専門家に聴けば、一発で分かるはずである。そもそも山川がまともな学生生活を送っていたとすれば、そうした先生たちの授業に出て、教えを乞う機会はいくらでもあったはずだ。彼は今までどういう生き方をしてきたのか?
 私が追加的に引用した箇所で、デリダは「(これらの)差異は戯れる ces différences jouent」と言っている。山川のような輩には、これがまた“ブランクスレート”説に見えてしまうかもしれないが、そうではない。言語の中での差異化のルールは変動するものである、というこれまた当たり前の話である。発音が変化することもあるし、新しい種が知られることで、動物の区分の仕方や動物という概念自体が変化することもある。こうした変化は、脳内の認知メカニズムと何らかの形で関係しているであろうが、脳の構造からそうした変化が必然的に導き出されてくるわけでも、その逆に、言語の変化に合わせて脳の形が目立って変化するわけでもないだろう。
「差異」あるいは「差延」をめぐるデリダの議論を、言葉の印象だけから勝手に曲解している人は少なくない。彼らは、「デリダは、諸差異の変化は全く無制約であり、どんなナンセンスな意味の体系でも構築することが可能である、と主張している」、と思い込んでいる。そんなことはデリダも、彼と言語理論的に近い立場だと思われるリオタールやドゥルーズも一切言っていない。むしろ、「分類学的な作業がそれら諸差異の体系的・統計的・分類的な明細目録の作製を企てうる」というフレーズから分かるように、諸差異から成る、言語を始めとする各種の記号体系が、一定の体系的・統計的・分類学的特性を具えていることを大前提にしている。そうした安定しているように見える体系の中で、「差異化」の仕組みに徐々に変動が起こり(=差延)、それがどういう方向の変化になるか、予測できない、というのがこの箇所での彼の主張である。「ただ諸差異だけがそもそものはじめから徹頭徹尾「歴史的」でありうるのだ」、というのはそういう意味である。
因みに、山川が中略している箇所には、以下のように書かれている。

「もしも「歴史」という語が差異の究極的抑圧というモチーフをはらんでいるのでなかったら、こう言うこともできるかもしれない

 「歴史 histoire」が「差異の究極的抑圧 répression finale de la différence」であるというのは少し難しい言い回しだが、これはポストコロニアル批評の最も基本的な前提に属する話なので、興味がある人は、入門書的なもので調べてほしい。いずれにしも、デリダが言語が不可避的に孕んでいる、差異化のルールの変動をめぐる「歴史的」議論を、山川等が勝手に、脳の中の話にしてしまって、デリダやデリダ研究をしている人たちを、似非科学の信奉者に仕立てようとしていることは確かである。
 この山川のように、自分でもよく分からないまま、極めて雑な印象に基づいて“ポモ批判”をして、目立とうとしている人間、あるいは、そういう人間の尻馬に乗ることで、自分も目立とうとしたり、憂さ晴らしをしている連中のことを、私は「山川ブラザーズ」と呼んでいるのである。
この連中にとっては、いろんなメディアで取り上げられ、偉そうにしているように見える「ポモ」に関する悪口ツイートを拡散し、それを一定数の人がRTしてくれさえすれば、それでいいのである。悪口ツイートの内容が間違っていようが非科学的であろうが、どうでもいいのである。
 例えば、前々回(四十五回) [2]で触れたように、私(仲正)が自分と同じ様に鬱ではないかと勝手に素人判断した、「南条宗勝‏ @Karasawa242002」という人物は、最近、(ポモの若手代表と見なされている)千葉雅也氏の以下のようなツイートに食いつき、それを山川に“ご注進”している。

ニセ科学がどうしてニセなのかを科学的合理的に説明しても、信者には届かない。なぜなら、科学的合理性の根底もまた信仰だからだ。いや、近代科学は物質に直に関わるだろ!と反論があるかもしれない。ならば、「物質性もまた信仰だ」と応えることができる。ニセ科学批判は、信仰の問題だから難しい。

 千葉氏はこのツイートの前後で偽科学批判クラスタの人たちと、科学の本質とは何かをめぐって論争していたようであり、その全体について評価することはここでは差し控えるが、少なくとも上記のツイートに関しては至極当たり前の話をしているだけである。偽科学の信奉者が、信仰に近い信念として信じているとしたら、科学的根拠に基づいて批判しても、彼らには届かない、という主張のどこがおかしいのか? 科学的根拠に基づく批判は、偽科学信奉者も受け入れざるを得ないというのであれば、とっくの昔に偽科学者信奉者などいなくなっているだろう。無論、偽科学信奉者とされる人にも、科学的根拠に関する誤解がもとで信じている人もいるだろうから、そういう人には科学的批判は有効だろう。その点で、上記のツイートは言葉足らずであるように思えるが、これをもって、「二一世紀になったというのに、この認識!」などと騒ぐ南条は、端的に国語力不足である。
 そもそもどうして、自然科学や数学とほぼ縁のない、それどころか、ポモ系の学者とされる人たちよりもそうした方面の知識が欠如していると思われる山川などにご注進するのか? 理由があるとしたら、山川が千葉氏をポモの若手代表と見なして、しつこく粘着して誹謗しているからである。山川にご注進して彼が拡散してくれたら、ネット上の千葉叩きの傾向が強まって面白いと思ったのだろう。これが科学的合理性を尊重するものの態度だろうか。南条は、理系/文系という以前に、高校レベルくらいから再教育を受けた方がいい。
 私は、まさにこういう輩を「山川ブラザーズ」と呼んでいるのだが、前回(四十六回) [3]の記事が掲載された直後、「偽トノイケ☆ダイスケ(久弥中)」は、この表現に過剰反応して、何度もしつこくツイートしている。この男は精々二回くらいで済む内容を、七回、八回と無駄にしつこくツイートする傾向があるが、どういう精神構造になっているのだろうか――今回は九回連投している。彼は、「仲正さんの主張自体が、まさに相手を『怪物化』する、または典型的な陰謀論者のそれである、とヒースは主張しそうじゃないか」、とまるで私が陰謀論的な話をでっち挙げたかのように言っているが、前回私が書いたことのどこが陰謀論なのだろうか? 恐らく、「山川ブラザーズ」という表現で、ポモ系の論客を陥れ、失脚させようとする闇のネットワークのようなものを暗示しているかのように思い込んだのだろうが、相変わらずの見当外れである。ちゃんと読んでもらえれば分かるように、私はブラザーズをそれほど過大評価していない。ネット上のゴロツキどもが、「ポモ」というキーワードをターゲットに集まって来て、騒いでいるだけのことである。不愉快な連中ではあるが、脅威ではない。偽トノイは、ラカンやデリダが実際にどういうことを言ったのかではなく、もっぱら、私が反ポモ陰謀論のようなものを前提にしているかどうかに関心を持っているようだが、そういう風に「ポモ」に対してねじ曲がった関心を持って、ネット上で野合する人間の集合が、「山川ブラザーズ」である。それ以上でも以下でもない。



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「極北」誌上連載の単行本化第1弾!

◈読者の皆様へのお知らせ◈

『FOOL on the SNS』発売にあたりまして、本著に収録した仲正昌樹氏の連載記事中1~36回分を2017年8月1日付で「極北」ブログサイト上では非公開とさせて頂きました。閲覧ありがとうございました。