- 明月堂書店 - http://meigetu.net -

「編集部便り」 ワールドボーイ(2) – 月刊極北

[編集部便り]
ワールドボーイ(2)


極北編集部・極内寛人
2016年6月6日
[1]

朝日新聞1968年10月22日朝刊

朝日新聞1968年10月22日朝刊

 前回 [2]の続きです。
 手取り給料の二カ月分までつぎ込んで、何故ラジオなのか、それも何故「ワールドボーイ」だったのか。
 それには私なりの理由がありました。ワールドボーイには、低音、中音、高音の三段階に音質を変換出来るスイッチがついていたり、電蓄やエレキギターのアンプの機能を備えるなど、掌サイズで、当時これだけの〝高い機能〟を備えた機種は他に見当たらず、小さなラジオに多くの機能が詰まっている(ように思える)、このメカニックな感じが私を引きつけたのでした。
 実に、それから半世紀が経過し、パソコンに無用なアプリを沢山溜め込んでは、かえって使い勝手を悪くしている今の私を振り返ると、その〝愚かさの原点〟がここにあったのかと、妙に納得させられるのであります。当時から私は全然成長していないみたいです。

 「ワールドボーイ」を買ったのは9月下旬だったと思います。既に働き始めて5カ月が過ぎていました。その間、お店の仕事は山ほど頂いたけれども、お休みはなかなか頂けません。この頃までに頂いた休日は、お盆休みを兼ねた8月19、20、21日の三日間、それ以外のお休みは、6月11日のみでした。しかも仕事時間は連日朝から深夜までで、3月31日の上京以来、世間の動きがまったく分からないし、知る術もありません。

 電気屋に勤務する私が、プライベートにテレビ番組を楽しんだ最初が、6月11日だったと聞けば、後は推して知るべし、職場の労働環境は大体お分かりになれると思います。初めての休日、午後2時過ぎに起床し、銭湯で一番ブロに入り(普段は午後11時半過ぎですから)、食堂に入りETC……、シャッターの降りた店内で、夕方から数時間、商品用のテレビを眺めたりして過ごしましたが、これほど自分にとって(過ぎる時間を惜しんで)濃密に過ごした一日は、それから十年も経過し、紆余曲折の果てに、当時拘置所所生活をしていたその頃、父の事故死に伴い、通夜の参列を理由に、当日の午前9時から翌日の午後2時まで執行が停止され出所した、その一日以外にありません……、申し訳ありません! 脱線してしまいました。いらん事を書いてしまいました。話を本筋に戻しましょう。

 さて、日々、仕事に追いまくられ、社会の動きすら知る術もなく、ほとんど隔離されたような生活を送っていた——、と言うところに話題を戻して、そこから続けます。
 新聞は、社長宅での朝食時、社長の『日経新聞』にチラッと目をやる程度だし、他の情報は、お店で売れた大型の電化製品を配送する際、助手席に座って配送車のラジオから流れてくるソレに耳を傾けるのがせいぜいと言った有様。
 世間の事がまったく分かりません。このままでは情報や世間から完全に取り残されてゆくようで、さすがに、これではダメだと思い、せめて自分でラジオくらいは買って、ちゃんと聴くようにしないと……、と気合いを入れて買ったのが「ワールドボーイ」だったのです。しかし、深夜、横になって眠りに落ちるまでの僅かな時間くらいしか聴く余裕がなく、思うようにいかなかった事は前回記しました。

 それでも、それが全部が無駄だったかというと必ずしもそうでもなかったと、今では考えています。
 確かに、日々のニュースに自分から接して、社会の動きにも関心を寄せてみたい——という、当初の成果は得られなかったけれども、日々のニュースとは別に、計らずも、ほとんど惰性で聴いていたに過ぎなかった深夜放送は、私に、もっと広く、今いる自分の世界とは別に、〝外部〟いわば、もう一つの世界が他にある事を予感させてくれたのです。次に進むきっかけを私に与えてくれました。
 あえて大袈裟に言うと、深夜に届くラジオの響きは〝外部〟から共鳴を求めて私に届く〝鼓動〟であり、私を焦燥に駆らせる〝何か〟でありました。
 たとえば、今となっては、当時聴いた番組も何も、内容はまったく覚えていませんが、高崎一郎の声は妙に懐かしく耳に残っていて、エコーを効かした、柔らかいその独特の語り口は極めて印象的で、枕許から届く彼の声は、心身ともに夜の静寂に私をさらって行ってくれるような不思議な心地よさがありました。それは、今の自分とは違う〝外部〟に広がる〝共鳴する心〟の確かな存在を予感させる誘惑の響きのようにもきこえたのです。
 高崎一郎ほど〝情緒的〟ではありませんが、68年の新宿騒乱事件 [3]を中継していた〝深夜放送〟も忘れることができません。
 当日、仕事が終わって銭湯も済ませ、午前零時前後に夕食(夜食ではありません)をとるべく、お店の近所にあった社長宅に、先輩(五名、これで店員全員です)と向かいました(これはいつもの事です)。
 夕食を社長が店員と一緒にとる事は少ないのですが(但し朝食は大抵一緒)、この日、社長は何かの用事で都心に出かけ、つい先ほど戻ってきたばかりだったらしく、食卓につくと、この日起こった(まだ続いている)、新宿での〝暴力学生〟と機動隊の衝突の〝真相〟を、偉そうに私たちにレクチャーしてくれたのです。それは、
 〝アイツら、とんでもない連中だ〟
 という一言に尽きる内容でありました。中学生の頃からベトナム戦争に強い関心を持っていた私は、それとはまったく別の感想を持っていましたが、勿論、社長に向かってそんな事は一切クチにしません。黙って拝聴するのみです。
 食事を済ませ、先輩店員26歳(お店での肩書きは「部長」)の運転する配送車に同乗し、当時、お店名義で借りていた、埼玉県戸田市の戸田ポートレース場近くにあったアパートに帰ったのでした(時間にして自動車で15分〜20分くらいの距離です)。
 多分午前1時半頃ではなかったでしょうか。アパートに戻るのは大抵この時間帯です。部屋に入って身体を横たえ、灯りの消えた枕許の「ワールドボーイ」に手をかける、これもまたいつもと同じです。
 同じでなかったのは、流れて来た音でした。いつもの、如何にも〝深夜放送然〟とした静穏な感じとは違って、この日の「ワールドボーイ」は、興奮したアナウンサーの声で、〝昨夜〟(既に日が改まっていましたから)の〝暴力学生〟と機動隊の衝突に、16年ぶりの「騒乱罪」が適用された事や、まだ騒然として混乱が続く新宿の様子を中継していたのです。
 私に「騒乱罪」が何かは分かりません。しかし、その言葉の響きからして尋常ならざる罪名である事は容易に想像がついたし、当時16歳だった私にとって、16年ぶりに適応されたという、その年月の長さと重さは、ただならぬものである事を感じさせるには充分でした。
 上京してから半年、その間〝仕事漬〟の毎日でしたが、それとは違った〝外部世界〟が確かにここにある——、自分の知らないところで大きな社会のうねりが確実に起きている——、この夜、私はそんな〝おぼろげな予感〟に小さな興奮をおぼえながら寝入ったのでした。それまで一度としてなかった事です。形を成さないまま募っていた焦燥に、何となく輪郭が見えてきたような気がした夜でした。

 余談ですが、運命の悪戯か、その後、私は、この「新宿騒乱事件」の首謀者の一人とされ、「騒乱罪」で逮捕起訴されたS・A氏とH大学で(宿敵としてですが)面識を得る事になります。また、それより16年前の騒乱罪事件(「大須事件 [4]」)の被告の一人で、当時R大学教授のI・H先生とは、自宅に招かれるような関係ができるのですが、勿論、かかる運命をこの時点では知る由もありません。

 翌朝の8時半には、件の部長に怒鳴り起こされ、社長の家まで配送車に同乗し、そこで社長を加えた店員全員で朝食を済ませて、また慌ただしくお店に走って開店の準備をする……、どこかに〝外部〟を感じながらも、その後も暫くはこうして同じ事を繰り返す日々が続くのでした。
 以上「ワールドボーイ」が示唆してくれた〝外部の世界〟——これをどこかの放送局のキャッチフレーズをもじっていえば、〝きっかけはぁ…深夜放送ッ〟そんな感じでしょうか。
 おそまつでした。


kanren