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自分の直感を疑わない“大学院生” 仲正昌樹【第7回】 – 月刊極北

自分の直感を疑わない“大学院生”

仲正昌樹
[第7回]
2014年4月8日
[1]
今月のラッキー

今月のラッキー

 三月初旬から、世の中はSTAP細胞疑惑でにぎわっている。科学に関心がなそうなヒマ人たちが、この話題に群がっている。こういう騒ぎがあると、大抵、渦中の人物がやった(と思しき)ことを強引に一般化して、「●●のやっていることも本質的に同じだ」という感じで、当該の騒動とはあまり関係なさそうな人にまで話を拡げたがるバカが出て来る。●●は、自分が気に食わないと思っている相手である。●●の悪口を言いたくて仕方ないものだから、結び付け方がかなり強引になる。
 STAP問題では、STAP細胞が実際に存在するかという本題以上に、論文におけるデータねつ造や、小保方さんの博士論文でのかなりの分量の無断コピペなど、研究者の倫理が話題になっている。将来が不安な大学院生やオーバードクターは、この手の話に過剰に反応しがちである。身近かな話に感じられるからである。しかし、あらゆる分野の研究者にとって同じ様に身近な問題ではない。文系、特に実験のようなことをしない哲学、思想史、文学、歴史学、法学等では事情はかなり異なる。事情がかなり異なるのに、いきなり、「そうだ!そうだ!内の分野でも…」と言いたがるのはバカの証拠である。
 データねつ造は基本的に、理系の、多くの金と人材を投与して実験や調査を行う必要のある分野で起こる問題である。哲学や文学では、ねつ造するような価値のある資料などほとんどない。歴史学など資料を重視する分野では、新しい史料を発見したふりをすることに多少のメリットはあるかもしれないが、それほど費用対効果があるわけではない。
 コピペの可能性については文系の諸分野でも当然あり、実際かなり横行しているが、博士論文になると事情はいささか異なる。実験の結果を報告することに主眼が置かれる理系の論文と違って、哲学・思想、文学、歴史等の論文は、考え方の新しさをアピールすることに重点が置かれる。先行研究を踏まえたうえで、自分の考え方の独自性を示さなければならない。先行研究の要約と自分の着眼点、方法を示す序論的な部分は--まともな大学のまともな院生という前提の下での話だが--念入りに書き上げないといけない。指導教員がまともであれば、そこをちゃんと見る。
 あと、文学部系の諸分野は、かなり細分化しており、同じテーマを研究している人間がものすごく少ないので、コピペ元があまりない。例えば、ハイデガー研究をしている学者は結構いるが、ハイデガーのアリストテレス論とか、新カント学派との対抗関係とかを専門的に研究している人間となると、ものすごく人数が限られる。そういう限られたソースから無断コピペしたら、まともな人が審査員にいたら、すぐに見破られてしまう。
 無論名ばかりの大学院で、卒論レベルのものを博論として通しているようなひどい処であれば、話は別だが、そこまでひどい大学院で博士号を取ることにメリットはほとんどない。多分、何も知らないど素人に対して自慢したり、マスコミなどに自分を売り込んでまわるうえで多少役に立つく程度のことだろう。
 そういうことを考えると、文系の院生がSTAP問題に便乗する理由などあまりないのだが、三月の終わりごろ、私を含む何人かの哲学・思想系の学者を、この問題に強引に結びつけてツイッター上で誹謗するアホが湧いて出た。本人の弁によると、東北大学の経済学研究科の院生で、このたび博士号を取得して、四月からどこかの大学で非常勤として教え始めるようである。
 この人物は、まずSTAP問題の背景として、理系では、生き残るために論文を量産することが求められていて、そのため無理なことをする人たちが出てくるのではないか、と指摘する。この指摘自体はおかしくないのだが、その論点を、文系である私を始め、何人かの大学教員に当てはめて、以下のように述べている。

 「個人的には、文系でも、年に単著を二冊以上出している人のことはあまり信用できない。仲正昌樹先生とか、内田樹先生とか、小川仁志先生とか、すごい人なんだろうけども、読む気がしない。國分巧一郎先生も最近ちょっとアレな気がしている。」

 真っ先にやり玉にあげられている私は一応置いておいて、他の人たちは、本が売れているので有名な人たちである。恐らく本屋の人文書コーナーでよく見かける面子の名前を挙げたのだろう。これにRTする、自称大学院生が二人いた。その内、一人は以前にも、私の著書『今こそアーレントを読み直す』が参考にならないとつぶやいていたが、今回はご丁寧なことに、昔のヒット曲の焼き直しを出し続けるアーティストに譬えて、仲正等が本を出せば出すほど信用がなくなる、とふざけたことをツブヤイテいる。
 こういう発言をすること自体、まともな文系研究者から、バカ丸出しなのだが、どこがバカなのかピンと来ない人--プロの研究者でない人--のために、どこがおかしいか解説しておく。
 先ず、この東北大院生は、一般向けの本や入門書を出している--けれど、あまり学会的な権威はなさそうな、旧帝大や早慶などには勤務していない--思想史系学者を念頭に置いているようだが、あまり目立たない専門書を年二冊以上出している研究者は結構いる。かなりその分野で権威ある人でも、二冊以上出している人はいる。「年に二冊以上」という基準で言うと、かなりの大物まで引っかかってくる。どういう人が該当するか考えての発言とは思えない。
 次に、理系の論文量産体制と単純に比較しようとする発想がおかしい。理系の場合は、査読付き論文を一定数出していないと、採用、昇進、予算配分に響いてくるので、とにかく量産、場合によってはねつ造、盗作、ほぼ同じ論文の使い回し、というプレッシャーがかかってくる。文系の場合、学会誌に査読付き論文を定期的に掲載し、それを採用や昇進の条件にするという制度が整っていない分野が少なくない--念のために言っておくと、私自身は、採用された時点で、博士論文のほか、別テーマで何本か査読付き論文を持っていた。内容をでっちあげたり、盗作したりしなければならない理由などない。
 更に言えば、この東北大院生は、たくさん書けば質が落ちるという前提に立っているが、私や名前が挙がっている人たちがたくさん書いているのは、一般向けの本や入門書である。私の場合、専門への導入的なものが多い。そうした本は、出版社等を通して伝わってくる、一般的ニーズに対応して書かれるものである。学内での業績プレッシャーとは直接関係ないし、専門誌に載せる論文とは書き方が根本的に異なっている。それを踏まえたうえで、研究者はやたらと一般向けの本を書くべきではないと言うのであれば、一応傾聴に値する意見だが、この院生は単純に冊数だけを問題にしている。専門書と、一般書・入門書の区別がついてない幼稚な判断をしているように思える。再び念のために言っておくと、私は今でも結構専門的な論文を書くこともあるが、それらはあまり人目につかない。また入門書の中で、細かい専門的な論点について私なりの意見を示しているところもある。一般論として、入門書であっても、他の学者の既存の入門書との違いをはっきり意識して書くこともあり、そうした違いに学術的な意味が込められている場合も少なくない--私の書いたものが、そうだと言いたいわけではい。そうしたこと全てを視野に入れたうえでなければ、書くものの上がった下がった、といった評価はできないはずだが、恐らく、三人衆はそういうことは全然考えていないだろう。考えているのであれば、安易な悪口ツイートなどできないだろう。
 最も根本的な問題は、「読む気がしない」相手をけなしていることだ。読みもしないものを、本屋に置かれている本の冊数の印象だけで、質が下がっていると断定するのが、研究者を名乗る人間のやることだろうか。以前にも、どこかの法化大学院を出て司法試験を受けたと称する奴が、私の著書『カール・シュミット入門講義』に関連して、読みもしないのに、「俺は仲正の能力を信用していない」とツブヤイているのを見かけたことがある。この手の連中は、読みもしないで他人の本や論文について評価できるかのように発言している自分たちが、単なるバカを通り越して、狂っていることに気づいていないのだろうか--本当に狂っているのなら無理か!
 多くの文系大学院は、この手の連中を量産している。これこそ、文理共通の問題であるような気がする。