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他人を人格異常者に見せる手口 仲正昌樹【第4回】 – 月刊極北

他人を人格異常者に見せる手口

仲正昌樹
[第4回]
2014年1月20日
[1]

 ネット上で他人の誹謗中傷をする人間には、誹謗中傷する相手をバカに見せるためのやり口がいろいろある。相手の発言を意図的に捻じ曲げて、あるいは、わざと誤解させるように要約する、というやり口が一番手軽である。
 例えば、昨年の八月に起こった、私に対する誹謗中傷騒ぎ(本サイトの過去ログ参照)に関して、関西のある私大の教員が、「自分の所属先の学生を直接あれするのは、教師の態度ではないと思う」、と最近ツイッターでツブやいた。そういう表現をすれば、あの騒ぎを中途半端に知っている人は、私を攻撃してきた匿名の自称学生が、金沢大学の、恐らく私の授業に出ている学生で、その人物に対して私が教師としての権力を利用して弾圧をくわえているように思うだろう。わざと誤解させるような表現だったので、抗議したら、その人物は、明月堂ブログの内容についてうろ覚えだったと認めて、いったん“謝罪らしきもの”――ちゃんとした大人の謝り方ではない――をした。
 その人物は、ブログが完全に削除されていると思いこんでいたようなので、過去ログのことを教えてやった。すると、今度は、「いや、その匿名の人のことではなくて、その前段の金沢大学が『二流大学』だと書いておられることを念頭においていたのです」、と言い出した。
 そもそも曖昧な記憶のまま、他人を批判する文章をアップすること自体がおかしい。仮に本当に、前段の話だけ念頭に置いてつぶやいたのだとしても、「自分の所属先の学生を直接あれする」と書けば、多くの人は、権力を利用したハラスメントのようなことを連想するだろう。加えて、私が「二流」と言っている意味を理解していなかったようである。私が「二流」と言っている意味をちゃんと分かったうえで、そうした言葉遣いを批判するのであれば、ちゃんとした批判だが、そんな高尚な話ではない。その私大教員は、「仲正は自分のところの学生を直接あれした」、という漠然とした記憶をそのままツイッターに書いているのである。それを悪いと思っていない。
 これがまともな教育者の態度だろうか。この人物は、その後、ツイッターでの文言を多少修正し、「直接」という言葉(と仲正という名前)を削除したが、当初どういう意味で「直接」と書いたのか、私に対して納得できるような釈明をしていない。しかも、新たに「私はそういう中傷罵倒芸はきらいです」と書き足しているが、自分のやっていることが分かっているのだろうか?
 またもや、曲解する人間が出てきそうなので、改めて強調しておくと、私は、自分の所属大学の学生であれ他大学の学生であれ、私の書いた文章や授業に対する、(思い込みでなく)きちんとした根拠に基づく、ちゃんとした手順に基づく批判であれば、きちんと対応する。“批判”とは程遠い誹謗中傷であれば、いいかげんにしろ、と言うし、バカのサンプルとして例示することはある。それだけのことである。
 こういうインチキ要約の他に、相手を貶めるように“人物紹介”することも、常套手段として使われている。最近私は週刊文春に、週刊現代と週刊ポストが半年以上にわたって続けている「死ぬまでセックス」特集に対する批判的に論評する文章を寄稿した。それに対して元週刊現代の編集長だという元木昌彦“なる”じいさんが、J-Castニュースで、「気鋭の 思想家・仲正昌樹氏(金沢大学法学類教授)なる人物がこう批判している…」、という調子で“論評”している。「…なる人物」というのは、当人をうさんくさい輩に見せるためによく使われる言い回しだ。まるで、「こんな奴、わしゃしらん。どうせ大した人間ではないのだろう」、と言わんばかりである。元木が私を知らないのは、この一九四五年生まれのボケ老人が、最近の哲学・思想関係の書籍をほとんど読んでおらず、関心もないことの帰結であるので、至極当然だのことだが、どうして自分の無知を、何故偉そうな物言いで正当化するのか?
 ひょっとすると、「気鋭の思想家」という枕詞に反応したのかもしれないが、それは編集部の付けたリード文の中の表現である。自称のはずがない。元週刊誌編集長のくせに、そんなことにも思い至らないとすれば、ボケているとしか言いようがない。
 当該の文春記事の中で、私は、自分の立場を明らかにすべく、「私は五十歳まで同性とも異性ともセックスした経験はないが、仕事が忙しいせいか、とくに虚しさを感じていない」ということを書いた。自分の立場を明らかにするために書いただけである。それに対して元木老人は、「彼のいい分は何とも妙である」とコメントしている。自分の立場を明らかにするのが、何が妙なのか?何の「言い分」でもない。ひょっとして、セックスをしない人間は、異常だという前提なのか?あるいは、私が自分のことを証拠にして、セックス無用論を展開しているとでも思ったのか?
 それに加えて更に、「こんな風変わりな御仁に批判されても、週刊現代、週刊ポストの編集長は戸惑うばかりではないか。」と結んでいる。一体何が言いたいのか?実際に批判された編集長たちが「戸惑う」のであれば、批判として大成功ということだろう。「こんな風変りな御仁」と言うが、死ぬまで一度もセックスをしない日本人が意外といることは、今や常識だろう。何を基準に、「風変りな御仁」と言っているのか?――恐らく、「風変りな御仁」というフレーズを使いたかっただけなのだろう。
 いずれにしても、これほど読解力が欠けた“御仁”が、編集長をしていたというのは、『週刊現代』、延いては、講談社にとって黒歴史であろう。以前、やはり講談社のOBで学術局長まで務めた鷲尾賢也“なる”一九四四年生まれのじいさんに、拙著『Nの肖像』について、とんでもない誤読をした文章を三省堂本店のHPに掲載されて抗議した覚えがある。こういういう迷惑老人たちは、本当に“死ぬまでセックス”でもやって、他人に迷惑をかけないように消えていってほしい。