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夜をぶっ飛ばせ(3)カレッジ・フォークとナショナリズム 竹村洋介【第3回】-月刊極北

夜をぶっ飛ばせ “Let’s Spend The Night Together”(3)
カレッジ・フォークとナショナリズム


竹村洋介[第3回]
2016年8月1日
[1]

 前回 [2]はザ・フォーク・クルセイダーズの深夜放送に与えた影響について書いてみた。訂正箇所を一か所。加藤和彦は1976年にANNのパーソナリティをつとめていました。その前に1974年頃にはラジオ関東(当時)で、ELECの佐藤公彦と「オー・シンディー」という番組も。ただし、こちらは生放送であったかどうかは確認がとれていません。ANNは1976年なので、第1期サディスティック・ミカ・バンド解散後のこととなる。しかし、影響となるとこれに限らない。前回も少しジローズの杉田二郎について触れたがその周辺に今回はスポットライトを当ててみたい。アメリカ合衆国のフォーク界ではガスリーズ・チルドレン(ボブ・ディランもその一人)と呼ばれるミュージシャンがいるが、さしずめザ・フォーク・クルセイダーズ・チルドレンとでもいうところか。
 メンバーの一人であったはしだが手がけた、シューベルツ、クライマックス、そしてエンドレス(前二者ほどの爆発的ヒットはなかったが、「嫁ぐ日」は「娘をよろしく」というTV番組の主題歌に使われた)という直系に限らず、多くの関西系フォーク・シンガーに影響を与えた。
 名前を挙げると谷村新司 [3]馬場弘文 [4]がいる。当時まだ学生だった谷村はロック・キャンディーズ(氷砂糖のように甘いという意味で、Rockとは関係ない)のリーダーだった。PPMタイプのハーモニーを特長として神戸などで人気を博していた。そのころすでに、おそらく直接には杉田の、もっと言えば北山のひきがあったようだ。かつてはザ・フォーク・クルセイダーズのメンバーの候補としても名前があがったこともある。もっとも1970年には北山、加藤をはじめとして、ロック・キャンディーズ、フーティーラッズ、シューリークスなどのメンバーがグレイハウンドと言われる長距離バスに乗っての40日間にわたる北米演奏旅行をしているのだから、北山のひきがあってもおかしくはない。このツアーのライブは『カレッジ・ポップス・イン・U.S.A.』として発売された。このツアーの最中、谷村は、おそらく最期のジャニス・ジョップリンのステージを見、「一生の宝」でもあるかのようにだれかれとなく(もちろんラジオでも)触れて回る(音楽性は全くと言っていいほど違うにもかかわらず「サマー・タイム」をロック・キャンディーズでカヴァーするほどまでだった)ので、とうとう友人の馬場弘文にまで『ジャニス・ジョップリンを見られなかったことが一生の不幸』と言われてしまった(馬場弘文はこのツアーに不参加)。

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 ところで「チンペイ」が谷村の元々のニックネーム(野末陳平にちなむらしい)。チャチャヤングで公募されて決まったのが「くずれパンダ」。ニックネームを公募してしまうなど、当時の深夜放送の雰囲気をよく表している。金曜日のMRSでは、杉田が(もともとは北山が)ヤンタンのパーソナリティを、続くチャチャヤングのパーソナリティを谷村がつとめていたので、続けて聞き流していたリスナーも多いはずだ。もちろん、午前5時まで続くチャチャヤングの方がはるかにリスナーは少なかったことは想像に難くないが。とにもかくにも、アリス、バンバン、ザ・ムッシュとヤング・ジャパン(あるいは北山)人事と揶揄られるほどにこの人脈はMBSでは強かった。彼らのうち、北山はパックに、谷村はセイ!ヤングに飛び立っては行くのだが。
 杉田のアシスタントを横井久仁江がつとめていたが、なんとなくいい意味で学生っぽさが残るというか、カレッジ・フォークらしいと言えばそれまでだが、アマチュアっぽさを残していた(北山はアマチュアリズムを称揚し、結局ミュージシャンとしては確固としたプロにはならなかった)。
 それにしても学生っぽさを残していたのは谷村だ。オン・エアーの最中に大学の定期試験の勉強をしていたというのだ(担当のディレクターにばらされてしまった)。結局は、桃山学院大学を中退してしまうことになったのだが。

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 URC系のミュージシャンに目をやる前に少しカレッジ・フォーク系のミュージシャンを見てみよう。前回、「あの素晴らしい愛をもう一度」をいわくつきだと書いた。作詞:北山修、作曲:加藤和彦、両者のデュエットということに間違いはない。しかしこの曲、じつは全く別のミュージシャンのデビュー曲として用意されていたものだった。それが大阪のシモンズだ。玉井タエ、田中ユミがそのメンバーで、ベッツイ&クリスの「白い色は恋人の色」(作詞:北山修、作曲:加藤和彦)などのカヴァーを得意とする、美しいハーモニーが特長のグループだった。そこに現れたのがURCの巨人、西岡たかしだった。

左側はなぎら健壱

左側はなぎら健壱

 「恋人もいないのに [5]」という楽曲を提供(のみならずプロデュースも)し、ヤンタン今月の曲の関連曲となり、結果60万枚もの大ヒットとなり1971年のレコード大賞新人賞を受賞した。西岡自身はこのような大ヒットに恵まれたことがなかったので、この時期、代表曲は?と尋ねられると、「恋人もいないのに」と答えていた。もちろん西岡には「遠い世界に [6]」(これは音楽教科書にものっているそうですね)、「これが僕らの道なのか」「血まみれの鳩」などの名曲が多数ある。ただ「遠い世界に」は1か所引っかかるところがあるのだがそれはまたあとで記そう。
 私事で申し訳ないが、この西岡さんとは僕が高校生時代によくお会いした。理由は簡単で(もちろん毎日放送にしょっちゅうたむろしていたからだが)、出身地がともに大阪・鶴橋でかわいがってもらったのだ。もしもいたとしたらおじさんくらいの年だったのが、親しみを覚えたのかもしれない。なにくれと親切にしてもらった。僕から見ると、背は小さいし、関西フォーク界の巨匠のはずなのに、腰が軽くて低い、親しみやすい人だった。彼もやはりヤンタン・チャチャヤンで、一時期病気をして離れたこともあったが、活躍した。西岡のDJとしての特長は単にその時に流行っている曲だけを流すのではなく、セロニアス・モンクやマイルス・デイヴィスを自分の音楽のルーツとして盛んに紹介していた。聴いているときには、よくわからない部分も多かったが、こういう音楽がルーツとなっているのか、音楽は深いものがある、ただ楽しいだけでなく深く勉強になるものだと感心したものだ。 
 シモンズがデビューする直前に京都からよく似たタイプのデュオが登場していた。それが茶木みや子・小林京子のピンク・ピクルスだ。両グループともヤンタンでラジオパーソナリティとして活動したりしたので、勘違いする人もでるほどだった。もっともピンク・ピクルスは、ミュージシャンとしての活動はごく短期間だった(シモンズの活動期間もそう長くはなかったが)。それでもKBSのマルブツWAIWAIカーニバルやヤンタンの出演―ミュージシャンを先に引退した小林京子の方が主としてだが―での活動期間をいれればそう短くないし、何より茶木みやこは還暦を超えた今もミュージシャンとして現役だ。彼女らは1971年にセクシーな「僕にさわらせておくれ」でデビューし、同年2nd「天使が恋を思えたら」を出し、翌72年「一人の道」を出して解散した。アルバムとしては『FOLK FLAVOR』を残すのみだ。
 バンド名は高石友也と親しかった諸口あきら(KBSズバリリクエストなどの深夜放送で活躍)が、しば漬け=ピンクの漬物にちなんで命名したものらしいが、なんとはなしに色気な感じを漂わせる響きがあった。しかも先に書いたようにデビュー曲は「僕にさわらせておくれ」だ(これを下品にやればあのねのねの「つくばねの唄」になってしまう)。それが、現役の同志社女子大生ということもあって、下品さとは程遠い、なんだか「深窓の令嬢」のようなとりあつかわれかたまでもした。ところが実際に会ってみると、20代の女性らしい―僕には少し遠い大人のような―大人びた、それでいて健康的な色気はあるのだが、はっきりものを言う人だった。アイドルなんかとは全く違う、芯の通った人たちだった。もっと言えばまぶしかった。

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 女性、しかも女子大生のデュエットとなると、政治性とは全くかけ離れた存在と思われるかもしれないが、彼女たちの場合はそうではなかった。もちろん、デビューシングルはラヴソングだし、直接的な政治的メッセージを前面に出すものではない。そういう意味では五つの赤い風船の反戦ソングの名曲「血まみれの鳩 [7]」にしても、岡林信康や頭脳警察のようには直接的な形で政治的なメッセージを発しているわけではないのと似ている。しかし、そこには確かな政治性に裏付けられた表現がある。「政治性」という言葉が嫌われるのは承知しているが、あえて「政治性」という言葉を本来の意味で使うことにする。ピンク・ピクルスの場合もそうだ。茶木がソロになってからの動画だが「一人の道 [8]」、クレジットに1972年とあるのでピンク・ピクルス解散直後のものだろう。冒頭の画面は東京オリンピックのマラソンの最終場面。それまで2位を走っていた円谷幸吉が、イギリスのベイジル・ヒートリーに抜かれようとしている。優勝はオリンピック史上初の二連覇を果たしたエチオピアのアベベ。
 もうご承知のように1964年の東京オリンピックは、まごうことなきナショナルイヴェントだった。そのハイライトともいえるマラソンで、優勝こそ逃したものの堂々の第3位銅メダル。この時、円谷、弱冠24歳。次のメキシコオリンピックへの期待は膨らむばかりだった。しかし、その後、円谷はけがなどに災いされ、メキシコ五輪が開催される1968年1月、自衛隊体育学校宿舎の自室にてカミソリで頚動脈を切って自殺した。27歳の時だった。そして遺書 [9]が残されていた。
 円谷自身は自衛隊員。けっして左翼かぶれの人間などではなかった。「父上様母上様/三日とろろ美味しゅうございました。/干し柿 もちも美味しゅうございました」で始まり「父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。/何卒 お許し下さい。/気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。/幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。」で終わる「遺書」にもナショナリズムに殺された、殉じたという言葉は出てこない。またこの遺書に対して、関係者などからさまざまな憶測が飛び交った。川端康成は「遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ」とコメントし、三島由紀夫は「それは傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による自殺であつた」と評している(そしてこの三島も1970年11月、自死している)。
 ピンク・ピクルスはどうだったのだろうか?おそらくオリンピックのスター選手と言うよりも、日本中の期待を一身に背負わされて苦悩する一青年の姿として映ったのではないだろうか?しかし、はっきり歌う。「日本のためのメダルじゃない(1:28頃)走る力の糧なんだ」と歌い切る。日本国民、ひとりひとりの小さなナショナリズムが、一人の若きマラソン・ランナーを自殺に追い込んだのだ。


kanren
>>夜をぶっ飛ばせ “Let’s Spend The Night Together”(1)序章 1971 竹村洋介【第1回】 [10]