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夜をぶっ飛ばせ(1)序章 1971 竹村洋介【第1回】-月刊極北

夜をぶっ飛ばせ “Let’s Spend The Night Together”(1)
序章 1971


竹村洋介[第1回]
2016年4月29日
[1]

Rolling Stones LIVE - "Let's Spend The Night Together" TOTP '67 (YouTube)

Rolling Stones LIVE – “Let’s Spend The Night Together” TOTP ’67 (YouTube)

「糸居五郎のオールナイトニッポン」(YouTube)

 「君が踊り僕が歌うとき、新しい時代の夜が生まれる。太陽の代わりに音楽を、青空の代わりに夢を、フレッシュな夜をリードする オールナイトニッポン」

 かつて、「深夜放送」という解放区があった。それ自身が主張するようなものであったかどうかはわからない。それはこの連載の一つのテーマとして考えていくことになるだろう。「もう一つの広場」=another squareとして、幻想かもしれないが、それこそリスナーの「想像の共同体」だったのかもしれない。自由で新たな時間と空間が。
 ロック評論家でオールナイトニッポンのパーソナリティも勤めた伊藤政則は、次のように振り返る。
「ラジオは僕に未知の世界を垣間見せてくれた。家族が寝静まった真夜中が、僕にとっては、まさに解放区だった。/そして1970年に創刊された雑誌『深夜放送ファン』(自由国民社)は、いつしか、僕の教科書になった。オールナイトニッポンの会報誌『ビバ・ヤング』は、郵送代として一五〇円分の切手を送ると、5か月間。毎月、自宅に届けられた。毎日がとても楽しかった。」
 家族が寝静まったというからには、家族と同居していた高校生時代の思い出だろう。
 伊藤は1953年生まれ。『深夜放送ファン』の創刊は伊藤の回顧にもあるように1970年10月(季刊)。これらを考え合わせると1971年くらいのことだろうか。この連載で言う「深夜放送」の第1期黄金時代だ。
 時代はラジオ離れを言われ、万博から石油危機へと転換点を迎えていた。音楽の領域では、1971年にピンクフロイドが来日し箱根アフロディーテが催された。

 ここでは、深夜ラジオではなく「深夜放送」について語っていきたい。年代的にも、地域的にも、(意図的に)限られたそれについて述べていくことになる。時代的には1960年代半ばから、1970年代中盤までに限定する。

 1971年8月第3回フォークジャンボリーが中津川で開催された。その2日目の8日、その事件は起きた。まずは吉田拓郎と高田渡がやりあう。加川良を従えステージ上っていた高田渡に、アルコールの入った吉田拓郎がヤジをとばす。それにステージ上から「うるさい」と応えていた高田がこの動画の(2:56~3:15)で「吉田拓郎あいつほんとに殺してやろうか」と檄を飛ばす。静止画像に小室等が写っているのはご愛嬌。

中津川フォークジャンボリー’71(YouTube)

 これに付け加えて、岡林信康が退場する。フォークのプリンス吉田拓郎がフォークの神様岡林信康にとって代わる象徴的出来事ともいわれる。LPにも収録されているように吉田拓郎のライヴは熱狂的なものだった。小室等と六文銭を呼び、延々といつ終わることもなく「人間なんて」を絶唱する。小室等が「ここでやることは終わった。俺たちは倒れる。みんなメインステージに行こう!」とStop!をかけるまでその演奏は終わることはなかった。「人間なんてらら~ららららら~ら」というフレーズの繰り返しは呪詛的であり、吉田拓郎と共にそれを歌った観客たちはトランス状態にあったと評する人もいる。

 さらにURC対ELECという当時のフォーク界の対立、関西対東京と言われることもあった。これはだれが深夜放送のパーソナリティをつとめるかということとも大きく関係していた。さらにそこにもう一大勢力として、特に関西では、フォーククルセイダーズ系のミュージシャンたちが入り込む(唯一、はしだのりひことマーガレッツの名義で参加しているようだが、LPには未収録)。URCとELECは同じインディーズではあるけれど、ルーツは全く違う。URC=Underground Record Clubと1960年代来のアンダーグラウンド文化を背負っているのに対し、ELECはもともと浅沼勇が買い取ったレコード会社というよりはソノシートの会社だった。それが吉田拓郎を発掘することでフォークソングのレコード会社へと変転を遂げたものだった。

 最初は吉田拓郎が村長をつとめる広島フォーク村の『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』(その前にセイヤングのパーソナリティをつとめることになる土井まさるが、ミニLPを出してはいるが)。
 このLP『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』はもともとインディーズどころではなく、全くの自主制作版。それも上智大学全共闘の資金を集めるために制作されたものらしい。ELEC版にはない厚いパンフレットがついていたという。現物はさすがに僕も見たことがないが。
 URCに属するミュージシャンに関西系に人が多かったのは事実だ。高田渡も東京の人間だが、京都に住んでいたことがある。この第3回日本フォークジャンボリーには出演していないが、MBS「ヤングタウン」や「チャチャヤング」でも根強い人気を得ていた西岡隆(五つの赤い風船)なども大阪出身だ。しかしURCは特に関西に限っていたのではない。かの「日本語のロック論争」で内田裕也がURCと意識して批判したのは立教大学出身の「はっぴい・えんど」だ。ジャックスも関東のグループでありながらURCからLPを出している。

 安田南「粉砕結構ですよね、だけどね」で絶句。おそらくはマイクを奪われたのだろう。
 画像、最初の写真はこの第3回日本フォークジャンボリーを席巻した吉田拓郎と加川良の二人。

第3回全日本フォークジャンボリー、メインステージ占拠の瞬間(YouTube)

 画像はアップロードした人のイメージなのだろうが、実態とそれほど関係ないので深く考えないことにしよう。『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』のジャケットの写真が使われたりしているが無縁だ。

 その中津川での熱狂を吉田拓郎はそのまま東京に運んできた。8月9~11日。場所は小劇場運動の中でも有名だった渋谷ジァン・ジァン。

 写真が左右逆になっているのはご愛嬌(ヴァージョンによっては正しく印刷されたものもある)。

吉田拓郎「人間なんて」

吉田拓郎「人間なんて」(YouTube)

 吉田拓郎は最終日の11日このジァン・ジァンでのライヴで客席をとっぱらい(ジァン・ジァンの客席は長方形になっておらず、真ん中に柱状のものがありV字型であった)再び「人間なんて」を絶唱。ふたたび会場を興奮の渦にまきこんだ。

 幻野祭 1971年8月14日~17日


zunokeisatsu

 その直後年8月14日~17日には、頭脳警察やロストアラーフが出演した幻野祭が実行される。頭脳警察はまだデビュー前。しかしすでに共産主義者同盟政治局(ブント)・上野勝輝が詞を書いた「世界革命戦争宣言」が放送禁止処分にあいながらも収録されている。1972年の1stは、レコード倫理協会により発売禁止。2ndも1か月で回収される。レコード倫理協会は1か月間の間、気が付かなかったともいわれている。ちなみに冒頭に挙げた”Let’s Spend The Night Together”(夜をぶっ飛ばせ)も放送禁止歌だ。
 かなり後のことであるが発禁処分にあった高名な作品にRCサクセションの『カバーズ』がある。こちらは、レコード倫理協会ではなく、発売元のレコード会社である東芝EMIの都合による発売禁止、なんの偶然か『カバーズ』が発禁になった時に忌野清志郎はFM大阪で『夜をぶっ飛ばせ』という名の番組を持っていた。当時の東芝EMIの担当ディレクターは石坂敬一。祖父母双方の従兄弟には、財界総理と言われた石坂泰三元東芝社長がいる。担当詳しくは「COVERS (RCサクセションのアルバム – Wikipedia)

 1stのジャケットは見ての通りの3億円犯人のモンタージュ写真。この1stは公式には発売禁止になって日の目を見ることはなかったが、70年代半ば自主制作版として、通信販売でのみ、販売されることとなった。なお頭脳警察という不思議さを持つバンド名は、もとはフランク・ザッパのジョーク“Who Are The Brain Police?”(誰が「頭脳警察」なんだ)のブレイン・ポリスを直訳したもの。
 大きくロック・ヴァージョンとジャズ・ヴァージョンにわかれ、ロック・ヴァージョンにはロストアラーフや頭脳警察以外にもブルースクリエーションなども出演し、当の三里塚空港反対同盟の婦人行動隊も出演している。

頭脳警察「銃をとれ」(YouTube)

 頭脳警察がこの「三里塚 幻野祭」に出演するようになったいきさつについては、http://music-calendar.jp/folk/2015081401 [2]
 PANTAがFacebookに書いたものからの孫引きになってしまうが、出演依頼からそれが実現するまでの経緯がわかって、大変面白い。「暗闇を歩いていると、ほのかに灯りが見えてきた、後ろを気にしながら歩いていたのだが、灯りが近づき、目の前の棚の上に赤いヘルメット[註:共産主義者同盟のヘルメット]がズラッと置かれているのを見てホッと胸をなで下ろした、赤ヘルを見て安堵するというのも変な話し」と当時の状況を伝える部分もあってアクチュアルだ。ちなみにギャランティーはカボチャ6個と米一袋という話。

 わずか1週間余りの間に、日本のフォーク、ロック(あるいはジャズも含め)の地図は大きく塗り替えられてしまった。いま何がフォークで何がロックだったかは問わない。自称とほかからどう見られていたかが、ずれる場合もあるし、RCサクセションのように時代に異なってくる場合もある。そもそも問うこと自体が、この時点ではまだデビュー前の新人だった泉谷しげるのようにさしたる意味を持たないこともある。

 そして奇しくも7月から8月にかけてニクソンショック。アメリカ合衆国と中華人民共和国は互いに仮想敵国として対立していたが――アメリカ合衆国は、国際連合安全保障理事会で中国の代表権を持つ中華民国(=台湾)と国交があった――ニクソンアメリカ合衆国大統領が訪中を宣言。
 さらに8月に入ってドル紙幣と金の兌換、すなわち金本位制を廃止。1オンス=35ドルというブレトンウッズ体制は崩壊した。そこに1973年には第一次石油危機。原油の値段が3倍以上に跳ね上がる。政府は石油緊急対策要綱を閣議決定し総需要抑制策を取る。ここに経済の高度成長は終わった。狂乱物価と言われ、消費者物価指数は1974年には23%上昇した。ラジオではないがTVの深夜放送は自粛に追い込まれた。
 いずれにせよ、1969年の東京大学全学共闘会議の革命的戦線の敗退、1971~1972年のあさま山荘事件、山岳ベース事件と――まだ何なのかおさない中学生だった僕たちにとってはわからず、三島事件以来久しぶりのスペクタルに(学校の先生にはおこられたが)TVにかじりついていたのだが――「政治の季節」の終焉が言われていたにもかわらず、ヒッピームーヴメントにもうかがい知れるように若者にとって新しい文化の土壌が醸し出されていたのだった。


竹村洋介(たけむら・ようすけ)
社会学者、ROCK Writer、医療系ジャーナリスト、サブカルチャー&カウンターカルチャー・クリティーク。1958年、大阪市出身。東京大学社会学科卒業。中高校生時代より、ジャックス、村八分と裸のラリーズをこよなく愛する。N.Y.Punkの熱烈な支持者。1990年、不登校を精神病として”治療”することが誤りであると、本邦初(おそらく世界で初)めて、社会統計学的に実証する。その後、Neet、引きこもり等々の(社会)「病理」化の誤りを指摘する著書等を発表。フリースクールの理事長などをつとめる。単著 『近代化のねじれと日本社会』(批評社)。共著『福祉と人間の考え方』(ナカニシヤ出版)、『引きこもり』(批評社)、『学校の崩壊』 (批評社)、『発達障害という記号』(批評社)、『水俣50年』(作品社)など。


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