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自分は「世界」を知っていると思い込むイタイ奴 仲正昌樹【第30回】 – 月刊極北

自分は「世界」を知っていると思い込むイタイ奴

仲正昌樹[第30回]
2016年3月5日
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仲正昌樹

仲正昌樹

 人間には、自分が日常的に慣れ親しんでいる“世界”を尺度にして、全ての物事を理解しようとする傾向がある。当然、受けてきた教育や職業、情報環境はみな異なるので、自分の“世界”で他人を推し量ろうとすると、しばしばとんでもない勘違いをする。その勘違いに基づいて、天下国家、学問、芸術、文化、ジャーナリズムなどの、あるべき姿について論じようとするのが、いわゆる「イタイ奴」である。「イタイ奴」にとっては、自分の知っている“世界”が、「世界」それ自体であり、自分の常識は「世界の常識」である。
 この『極北』の連載でこれまでいろいろなタイプの「イタイ奴」のことを書いてきたが、今回は、その根底にあると思われる“自分の世界の狭さ”に対する無自覚という問題について少し考えてみたい。イタイ奴の言動で、一番目立つのは、自分が普段接している、あるいは気にしている新聞、TV、ネットなどで提供されている情報が、世間=世界(world)に出回っている情報のほぼ全てだと思ってしまう傾向である。
 例えば、右寄りのマスコミの報道――あるいは、それを自分なりに単純化した“情報”――にばかり注目して、「大手メディアは、安倍政権の言いなりになって、日本の植民地支配の責任や沖縄の基地負担の軽減問題、自民党議員のスキャンダルを報道しない」、というようなことを言いたがる(反右派的な)人たちがいる。その逆に、左寄りのマスコミの報道――あるいは、それを自分なりに単純化した“情報”――にばかり注目して、「大手メディアは、未だに左翼思想の影響を脱すことができず、中国の東シナ海における侵略的行動や少数民族の抑圧、経済の衰退について口をつぐんでいる」、と言いたがる(反左派的な)人たちもいる。両陣営とも、「●●という基本的事実を誰も言っていない」とか「◆◆という危機的現状に誰も正面から向き合っていない」、といった独善的な表現を使いたがる連中をかなりの割合で含んでいる。
 「誰も言っていない!」式の発言が合理的でないことは自明だろう。先ず、「誰も言っていない」かどうか正確に確認することは現実的に不可能である。無名な人間の私的な発言であれば、どこにも記録が残っていない。常識的な思考ができる人間なら、自分が思いつくようなことは、他の誰かが既に思いついて発言しているに違いない、と想像するだろう。テレビのコメンテーターなど、著名なマスコミ人がそういう発言しているのを聞いたことがないというのを、雑に表現しているだけかもしれないが、日本の主要な新聞やテレビ局、ネットニュースの論調を正確に把握したうえで、「誰も言っていない!」、と断ずるのは、メディア分析を専門にしていない普通の人には極めて困難である。多くの場合、「●●という基本的事実を誰も言っていない」、と他人がネット上で叫んでいるのを目にし、それが何となく記憶に残っていて、それを――受け売りであることを忘れて――自分も言ってみた、というのが真相だろう。そのどこかで叫んでいた他人の発言も元をたどっていくと、大抵どこかのTVのコメンテーターや雑誌のコラムニストの同趣旨の発言――「(私以外の)マスコミ人や評論家は真実を語っていない」――をコピーしたものにすぎない。「○○」についてネット検索してみれば、そんなことはすぐ明らかになる――狂気に近い人間なら、そのコメンテーターやコラムニストが、自分のアイデアを盗んだと言い出すかもしれない。「誰も言っていない!」発言を繰り返しがちな人間は、情報のソースがかなり限定されていることに加えて、その限定されたソースについてほとんど自覚がなく、“自分発”だと思い込んでしまうので、付ける薬がない。
 自分だけが真実を語っていると思い込むほどではないにしても、「マスコミが報じていない」と主張する人たちには、同じような傾向がある。先に述べたように、「マスコミが報じていない」、という発言自体が、どこかの(“少数派”を自認してTVや雑誌に頻繁に登場する)ジャーナリストや評論家の発言のコピーである可能性が高い。少数派を自認する人たちが、いろんなメディアで同じようなことを言っているため、結果的に、“マスコミが報じていない”はずのことが、マスコミを含めていろんなメディアで言及され、かなり多くの人が知っている、ということがしばしばある。自分も、そうやってマスコミ的に拡散された情報に接した一人だということに思い至るべきだろう。そもそも、マスコミが報じていないことを、素人がどうやって知りうるのだろうか? もしかすると、「マスコミは当初報じていたが、すぐにその問題に触れなくなった。何かの思惑や圧力があったのではないか」、という推測を不正確に表現しているだけかもしれないが、だとしても、本当に全てのマスコミがその問題をフォローしていないのかちゃんと調べてから発言すべきだろう。自分が普段目にしているのと別のメディアで調べたら、ちゃんとフォローされていることがある。右寄りのメディアでフォローされていないことは左寄りのメディアで、左寄りのメディアでフォローされていないことは右寄りのメディアでフォローされているのはよくあることである。先に例を挙げた日本の戦後責任や、中国脅威論は、左右のメディアでのフォローのされ方が対照的であることが多い。
 アメリカの憲法学者のサンスティンは、インターネットのユーザーで偏った意見を持っている人たちが、自分と同じようは意見を持っている人たちの集まってくるサイトばかり訪問し、相互承認によって確信を強め、余計に偏っていく、「サイバーカスケード cyber cascade」という現象を指摘している。その手の人たちの中には、わざわざ自分が嫌いな論調のマス・メディアの報道姿勢に執拗に拘ることで、「私(たち)は無視されている少数派だ」、と主張したがる、“自虐的”な人間がかなり含まれているのではないか、と思う――“自虐的”というよりは、ヒロイズムに浸りたいだけかもしれない。
 これと密接に関連した問題として、特定の人間からの情報だけ信用し、それと矛盾する情報は一切排除する態度がある。極端な信仰をもったミニ宗教団体や左翼のセクトだと、身内の話だけ信用するのはある意味当然だが、もっと緩い繋がりのグループ、ネット上のウヨク・サヨクのローカルなサークル、文学・アニメ好きのサークル、思想系の勉強会、予備校教師と教え子のネットワークなどにも、かなり情報の排他性の強いものがある。例えば、日本のマスコミは、マルクス主義の亜流であるフランクフルト学派の洗脳を受けているとか、日本の公務員の圧倒的多数はコネで就職が決まっているので採用試験は無意味だとか、●●誌に執筆しているような連中は官房機密費をもらっているとか、私たちの仲間の◇◇さんは本当のことを論文に書いてしまったため偽学者たちによって干されている……といった、常人だったら到底恥ずかしくて口にできないような妄想でも、仲間内のリーダー格から吹き込まれると、カンタンに信じてしまう。宗教団体やセクトのように強い規律の下に共同生活をして情報統制をしているわけでもないのに、情報選択が画一化されているので不気味であるが、恐らく、世間で一般的に共有されている情報よりも、自分と同じような発想をする仲間の話にだけ耳を傾けるのが安心で楽なのであろう。
 天下国家の在り方に関わる大げさな話ではないものの、自分自身にもある程度直接の利害関係がある事柄について、仲間の話を信じておかしな判断をする人たちがいる。私の勤めている大学の法学類の学生たちの間では、ゼミ選択の時期になると、X先生のゼミに入ると、お役所や企業のブラックリストに入れられて就職できなくなるとか、Y先生は「こんなことも分からないのか! バカ!」と怒鳴るのでゼミ生が鬱になるといったうわさが流れる。仲の良い先輩や友達からそうしたうわさを聞くと、カンタンに真に受け、“リスクがなく、就職に有利なゼミ”を選ぶ。Z先生は、やさしいので、たくさん書けば、最低でもCをくれる、といった類の噂もかなり信じられているようである。そういうのはほぼ裏が取れていない偽情報か、極端に誇張された情報であり、流言飛語を信じたせいで、かえって損をする可能性もあると思うが、そういう長期的な視野から見た利害よりも、仲間内の情報に頼り続けることによる心地よさの方が大事なのだろう。
 こうした情報源の“狭さ”という問題と並んで、“古さ”という問題もある。かなり昔に得た情報が現在でもそのまま通用していると思い込んでしまうことに起因する“イタサ”である。当然、その多くは年寄りだが、年寄りからの伝聞で得た、(自分にとって信じやすい)古い情報を信じてしまう若者も結構いる。大学業界関連でしばしば聞くのは、東大・京大の大学院に入れば、選り好みしたり、指導教授ににらまれたりしない限り、どこかの大学の教員になれる、という類のエリート幻想である。安保世代や全共闘世代の大学教員が就職した時期なら、一定のリアリティはあったかもしれないが、現在では、ただの昔話である。年寄り――特に、自分自身は大学教員になったことがないくせに、大学業界のことを分かっているかのように語りたがる、コンプレックスの強い年寄り――にそういう昔話を吹き込まれて、信じてしまうような人間は、研究者を目指すべきではない。私は一九九二年四月に二十九才で東大駒場の大学院に入り、九八年一月に今の大学に就職したが、九〇年代には既に、東大内部から進学した院生のほとんどは、そうした幻想は持っておらず、競争が厳しいことを自覚していた。他大学から進学してくる人の一部に、東大幻想を持っていた人がいたような気がする。その他、大学教員は引退して名誉教授になってからも、現役時代の給料とあまり変わりない額の年金を受け取れるので悠々自適の生活ができるとか、学術的な価値がなくつまらない本でも何百、何千人もの学生に強制的に買わせることができるので大儲けできる、といった昔話が今でも流通しているようである。前者については、現在では、ほとんどの人がもらえる年金は、現役時代の最終年度の給料の半分のどころか、三分の一以下に下がる――法律で決まっているのだから、計算すれば分かる。後者については、講義科目で自分の書いた専門書を“教科書”と称して、強制的に買わせることはなかなか許してもらえないというのが、現在の常識である。強制的に買わせてもいいのは、語学教科書くらいである。自分の著作を参考書に指定し、それを多くの学生が自発的に買ってくれるとしても、人文系の出版社は零細なところが多いので、印税など払ってもらえないケースが大半である。著者の方が出版社にお金を払っていることが少なくない――私は幸いにして、これまで出版社に金を払ったことはない。自分の担当する授業を悪用する形で、百万円単位で儲けを出せるような立場にいる教員は、現在ではかなりレアな存在だ。私には無理だし、知り合いにも、そうした暴利をむさぼれそうな人はいない。立場を悪用して大儲けをしているという類の噂話は、何十年も経っているのに、“現状”として語り続けられるものなのかもしれない。一度自分の中で確定したステレオタイプに当てはめる形で他人を理解するのが、楽だからだろう。一部の若者にとっても、年寄りのステレオタイプに合わせている方が、自分で情報収集しなくていいので楽なのだろう。
 その他、一事が万事という感覚で、ごく一部に関する情報を、同じカテゴリーに属している(ように見える)人全員に適用してしまう傾向というのもある。学校の先生は多かれ少なかれみなセクハラをしているとか、公務員はみな天下り先が用意されている、といった類の話をしたがる人たちがいる。TVの大学病院関係の番組を見て、文系を含めて全ての大学教授が、あれと同じような権力や利権を握っていると思ってしまう人たちがいる――この場合、二重にバイアスがかかっている。いちいち場合分けして考えていたら面倒くさいし、組織化されている巨悪の方が非難し甲斐があるのだろう。
 自分の環境世界に縛り付けられている動物と違って、人間には、自分が慣れ親しんでいる情報回路を批判的に吟味し、新しい情報回路を構築する能力が備わっているはずだが、その能力をちゃんと発揮できないことの方が多い。それは致し方のないことだが、最初に述べたように、そのことを自覚できないどころか、“世界”の全てを見通しているようなつもりになって堂々と、自分の“見たままの真実”を世間に向かって公表すると、イタイ奴になる。