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我がヒーローの「想い出」 吉岡達也【第25回】-月刊極北

我がヒーローの「想い出」

吉岡達也[第25回]
2016年1月24日
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東京・瑞穂町で開かれている大瀧詠一の特別展

東京・瑞穂町で開かれている大瀧詠一の特別展

 今年に入り大物ミュージシャンの相次ぐ訃報に接し、いささか落ち込んでいる。デヴィッド・ボウイ(1月10日逝去)、グレン・フライ(1月18日逝去)。とりわけ、イーグルスのリーダー、グレン・フライは私にとって忘れられない記憶がある。
 1995(平成7)年11月、イーグルスが来日した時のことだ。新聞社の友人と2人で東京・六本木のバーで飲んでいたところ、アメリカ人らしい団体客が入ってきて隣のテーブルへと陣取った。どこかで見た顔ぶれのような気がして、何気なく店員に聞いてみた。「イーグルスよ」。タガログ語なまりの耳打ちに緊張が走った。
 「イーグルス」――。頭の中では「ホテル・カリフォルニア」「テイク・イット・イージー」「テキーラ・サンライズ」が鳴り響く。世界最高のロックバンドメンバーとスタッフらは早速バーボンを開けると、快活に会話を交わし出す。
 何とかサインが欲しい。しかし彼らもコンサートを終え、リラックスした時を過ごしているのだ。みっともない真似をするわけにいかない。ここはぐっとこらえ、偉大なミュージシャンと席を同じくして飲める機会を僥倖としてさりげなく一時を送ろう。平静を装いつつ杯を進める。
 しばらくしてトイレに立ち、戻ろうとするとドアの向こう側にアメリカ人が立っていた。グレン・フライだ。ドアを開けながら「どうぞ」というと、笑顔を浮かべながら「ドーモ、ドーモ」と片言の日本語を話した。いや、これは本物だ。
 彼らは1時間ほどすると帰り支度を始めた。その時には他の客全員も席を立ち、見送る準備をしている。私も知らず知らずのうちに席を離れて店の玄関に向かった。店員と談笑していたグレン・フライは私を見つけると気さくに握手に応じてくれた。そして他のメンバーらと共に颯爽と六本木の夜に消えていった。
 後年、2004、2011年の来日公演でもイーグルスは充実した演奏で私を含めた日本のファンを熱狂させた。あのパワーあふれるミュージシャン、グレン・フライは67年という短い歳月を文字通り駆け抜けていった。心よりお悔やみ申し上げます。

◇      ◇      ◇

 3年前の冬、日本ポップス界の巨人がこの世を去った。シンガーソングライターであり作曲家の大瀧詠一(1948~2013)。まだ65歳という若さだった。
 2013(平成25)年12月30日。この日私は郷里の仙台に戻っており、自宅周辺を散策していた。夕方、道路沿いの一件の建物から音楽が聞こえてきた。大瀧詠一の作品「想い出は霧の中」(LP「ナイアガラ・カレンダー」収録、1977年)だった。「また、随分と渋い曲が流れているな」というのがその時の感想だったが、後になってみるとそれは大瀧詠一が亡くなられた時間とほぼ同時刻だ。あまりにも偶然のタイミングだった。
「まわりは何もかわってないのに、ただ、君がいないだけ」(想い出は霧の中)
 長年、ずっと聴き続けていた幸薄い「いち中年ファン」に対する大瀧さんからのメッセージであったと、いまは信じたい。
 そもそも私が大瀧詠一を本格的に聴き始めたのは、他の多くのファン同様に大ヒットアルバム「ア・ロング・バケイション」(1981年)がきっかけだった。しかし私の場合、以前にラジオで耳にした一曲「空飛ぶくじら」(1972年)がずっと気になっていた。小学校の国語の教科書に載っていた「くじらぐも」(なかがわりえこ作)という詩が好きで、「くもつながり」で気にいっていたこともある。そんな「空飛ぶくじら」が「ア・ロング・バケイション」と同一のアーティストの作品だと分かった時は本当に嬉しかった。高校時代以降、私は彼の作品をひたすら聴き続けることになる。バンド「はっぴいえんど」時代からソロ時代を含め、大半のレコードを買いそろえた。
 社会人になり、新聞社に入社すると配属先の希望調査で私は第一希望で岩手県を選んだ。これは単純に大瀧詠一が岩手出身であったことが理由だった。彼が高校生までを過ごした江刺市(現・奥州市江刺区)、遠野市、釜石市などを6年間歩いた。また大瀧詠一の作品はもとより彼の音楽のルーツである1950~1960年代の洋楽を聴きつつ、郷土の偉人、宮沢賢治、石川啄木にも様々な形で触れた。大瀧詠一に導かれた岩手時代は自分自身にとって本当に充実した時間となった。
 2015年11月から、大瀧詠一が暮らした東京都・瑞穂町で特別展「GO!GO!NIAGARA・大瀧詠一の世界」が開かれた。会場の瑞穂町郷土資料館には、彼の自宅にあったジュークボックスやリズムボックス、使用したギターやアルバムジャケット撮影で使用したシャツなどが展示され、多くのファンが熱心に見入っていた。
 私自身、瑞穂町を通るJR八高線には何度も乗っているが、町を歩いたのは初めてだった。「箱根ケ関駅」を降り立った途端、実に穏やかな風景が広がっていた。なぜか、私が社会人として初めて過ごした「岩手」のぬくもりを感じた。
 瑞穂町は隣接の東京都福生市などと同様に米軍基地に近く、アメリカ文化に憧れた多くの若手芸術家が移り住んだことでも知られる。アメリカン・ポップスをこよなく愛した大瀧詠一もまた、他のミュージシャンと同様の居住選択があったのかもしれない。

旧箱根ヶ崎村の鎮守社「狭山神社」。1000年近い歴史をもつ

旧箱根ヶ崎村の鎮守社「狭山神社」。1000年近い歴史をもつ

 しかし、それ以上に大瀧詠一はこの瑞穂町に故郷の風景をどこか重ねていたのではないかと感じた。狭山丘陵に広がる都立公園最大級の野山北・六道山公園の豊かな自然をはじめ、桓武平氏の祖・高望王創建と伝えられる阿豆佐味天神社や旧箱根ケ崎村の鎮守社・狭山神社など、東京にいることを忘れるような景観に満ちている。

都道を歩いていくとこんな標識が。東京にいることを忘れる

都道を歩いていくとこんな標識が。東京にいることを忘れる

 郷土資料館の特別展を堪能し駅へと戻る道すがら、野生動物の飛び出しを注意する交通標識を見た途端、なんだかとてもほっとした気持ちになった。そして、願わくば私もこの、大瀧詠一の愛した町に住みたいと強く思った。