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「遠くなかった」鴻巣 吉岡達也【第22回】-月刊極北

「遠くなかった」鴻巣

吉岡達也[第22回]
2015年9月28日
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「鴻巣・吹上冨士」(渓斎英泉)

「鴻巣・吹上冨士」(渓斎英泉)

 都心から50キロ圏内。埼玉県鴻巣市は典型的な首都圏のベッドタウンだ。高度経済成長期以降、多くのサラリーマン世帯が鴻巣市周辺に流入。JR鴻巣駅を中心に商店街が広がった。現在、当時のファミリー層の中心が60~70代となり、他のニュータウンなどと同様に高齢化の波が到来している。街道沿いを歩いていると、老人ホームをはじめ介護、社会福祉施設が至る所で目につく。既存商店街はさびれて空き地も目立つなか、次々にコンビニエンスストアが現れる。ある意味で現代日本の縮図のような街並みだ。
 歴史的にみると、鴻巣は16世紀以降「人形の町」だった。江戸期に入り、多くの人形師が住み着き、五街道の起点「江戸」、日光・奥州街道の「越谷宿」(埼玉県越谷市)と共に「関東三大雛人形産地」として名を馳せた。現在でも江戸から鴻巣に入るあたりから多くの人形店が並んでおり、伝統は確実に継承されている。
 しかし埼玉県在住者や近隣都県の人に「鴻巣」で連想することを聞けば、ほぼ例外なく「免許センター」という答えが返ってくる。県内唯一の運転免許センターである「埼玉県警察運転免許センター」が鴻巣市に設置されたのは1989(平成元)年。以来、地元で「鴻巣に行く」は「免許の手続きをしてくる」ことを意味するようになった。
 埼玉県の自家用乗用車台数はトヨタのお膝元・愛知県に次いで全国2位。一家に2台、3台所有というケースも珍しくなく、県民にとってクルマは生活の必需品だ。それだけに免許センターの需要は他県に比べても高く、それが「鴻巣」のイメージに重なるのだ。
 しかし、位置的に県内の人口密集地域から離れているという交通アクセスの問題や、鴻巣駅到着後も、そこからセンターまで約2キロメートルという距離も手伝って、いつしか地元民以外からは「鴻巣は遠い」というレッテルを貼られてしまっているようだ。
 「免許センターに行くため始発電車に乗っても、受付締め切り時間に間に合うかどうか分からない。県内に複数の免許センターを造るべき」という声も聞かれる。また、学科試験に不合格にでもなれば、再び「遠い」鴻巣へ行かなければならないという事態になりかねない。
 かつて鴻巣の運転免許センターで学科試験に70回以上落ちた男が「センターを爆破する」と県警を脅迫し逮捕された事件が注目を集めたが、確かにそれだけ失敗すればおかしくなってしまうかも、とほんのわずかばかり同情したのを思い出す。
 それにしても今回鴻巣宿を歩いていると、改めて「クルマ社会」を実感する。とにかく街道沿いで歩行者と出会わないのだ。北本から鴻巣宿を経て吹上まで歩いている間、自転車の3台を除き誰一人すれ違わなかった。その代わりクルマはひっきりなしに行き交っている。むしろ歩行者が奇妙に見える状況だった。さすがは運転免許の総本山といったところか。
 さて、江戸時代に戻る。鴻巣宿は江戸を出て7つ目の宿であり、旅立ち後2泊目の宿泊地として選ばれることが多かったようだ。1843(天保14)年時点での鴻巣宿の人口は2274人。本陣1、脇本陣1、旅籠58軒と比較的規模の大きな宿だった。
 さて、鴻巣といえば名の通りコウノトリの巣が思い浮かぶ。江戸期、コウノトリはごく身近な鳥類だったが、明治期以降の乱獲などで激減。国内の野生種は1971(昭和46)年に絶滅した。現在、人工繁殖などの取り組みが進められている。
 駅に近い鴻神社(本宮町)は地元の総鎮守・氷川神社、熊野社、雷電社が明治期に合祀合された神社。コウノトリの伝承から子授け、安産、子育てにご利益があるとされている。境内には大イチョウもあり、往時の雰囲気を醸し出している。

鴻巣宿の鎮守の鴻神社

鴻巣宿の鎮守の鴻神社

 そもそも中山道が整備された江戸時代初期、近隣では江戸に近い北本に宿が整備されたが、すぐに現在の鴻巣に移設された。徳川家康が鷹狩りを行うための御殿が鴻巣に設置されたことなどが移設の理由らしいが、よくよくここは鳥に関係ある場所のようだ。
 現在街道沿いには、かつての宿の面影を感じさせるものはほとんどない。幕府の意向によって公式の宿となった鴻巣は、その後の明治維新後の施策や1970年代の急速な都市化など、常に外からの圧力によって翻弄されてきた感がある。
 街道沿いでいくつか、石碑や石塔が並べて建てられている場所があった。宿の各地にあったものをまとめたものらしい。明治初期の廃仏毀釈の際、石碑などは削られたり地中に埋められたりしたようだ。地元民たちが長年信仰の対象などとして親しんできたものを率先して破壊したとはなかなか考えにくい。既存文化の破壊を推し進めた明治政府の施策が現代にも被る。一列に並んだ石碑群がどこか寂しげにみえるのは、かつての人々の思いが重なるからだろうか。
 間の宿(江戸期の非公式の休憩地)吹上に向かって歩を進める。江戸後期の浮世絵師、渓斎(池田)英泉(1790~1848)による鴻巣宿の浮世絵が「このあたりで描かれた」と記された碑を見つけ、「ここで富士山や榛名山を見たのか」と感慨に浸る。時は夕暮れ。碑の場所から少し歩くと風景が開けたので、そこで夕陽を眺める。町の姿は大きく変わっても、空の広がりは当時と変わらないなどと柄にもなく考える。

英泉が「鴻巣・吹上冨士」を描いたとされる旧前砂村周辺。英泉もこんな夕暮れを見たのだろうか

英泉が「鴻巣・吹上冨士」を描いたとされる旧前砂村周辺。英泉もこんな夕暮れを見たのだろうか

鴻巣宿と熊谷宿の「間の宿」の役割を果たした吹上。皇女和宮もこの地で休憩した

鴻巣宿と熊谷宿の「間の宿」の役割を果たした吹上。皇女和宮もこの地で休憩した

 吹上。ここは江戸期、「荒川のうなぎ」が名物だったという。絶品のうなぎをほおばりながら地酒をチビリ、などと想像を膨らましながら中山道の碑があるベンチで一休み。すぐ側を電車が西日を浴びながら過ぎる。実はこの街でのうなぎを楽しみにしていたから足取りも軽かったのだ。
 食への関心は今も昔も何よりの活力源。噂に反して、鴻巣の道中は少しも「遠く」なかった。