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上尾宿にて 吉岡達也【第18回】-月刊極北

上尾宿にて

吉岡達也[第18回]
2015年7月6日
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「上尾宿」(渓斎英泉)

「上尾宿」(渓斎英泉)

 中山道六十九次のうち、上尾宿(現・埼玉県上尾市)と板橋宿(現・東京都板橋区)は江戸時代には非常に良く似たタイプの宿場だったようだ。両宿ともに長旅をする人々の宿場というよりも、近隣に在住する庶民にとっての「大人の歓楽街」だった。
 なによりも酒楼や茶屋が充実していた。もっとも、板橋宿については東海道の品川宿などと同様に江戸の庶民が主に遊興目的として通っていたのに対し、上尾宿は「小江戸」川越や岩槻方面から多くの武士が娯楽を求めた。
 とくに城下町・川越は遊女御法度という事情もあって、どことなく窮屈な空気にへきえきした武士が中山道の脇街道の役割をも果たしていた川越街道を下り、上尾へ向かった。中にはすっかり羽根を伸ばしてしまい、いつまでも帰ってこない旦那に身内から捜索の手が伸びるなどといった、現代でもよく見聞きするような状況が散見されたようだ。
 ただ、2つの宿場周辺を歩いてみると、今日の町の印象はまったく異なる。板橋宿は中心部に国道17号が整備されなかったこともあっていまなお往時を思わせる雰囲気が残っているが、上尾宿の場合は街の中心に地域交通の大動脈が通り、JR上尾駅周辺は大型ビルやマンションがひしめき合う、ごくありきたりの首都圏近郊都市となってしまった。
 唯一、上尾宿の中心にあった「お鍬(くわ)さま」と呼ばれた宿の鎮守・氷川鍬神社一帯だけがかろうじて江戸期のたたずまいをほうふつとさせる。氷川鍬神社の「鍬」は、当時から農作業で使う鍬作りの職人が周辺に多く住みついていたことに由来するという。かつてこの周辺には本陣、脇本陣、旅籠、問屋場が集中していた。

上尾宿の中心に位置した氷川鍬神社

上尾宿の中心に位置した氷川鍬神社

 境内を散策していると、30歳ぐらいの女性が小学校低学年ぐらいの女の子と手をつないで歩いてきた。お堂に向かうと2人並んで熱心に手を合わせる姿が印象的だった。街の雰囲気は一変しても、こうした祈りの風景は時代を超えて連綿と続いているのだろう。
 JR上尾駅から徒歩で数分のところにある寺院が遍照院だ。開山は室町時代の1394(応永元)年。ここには飯盛り女・お玉が眠る「孝女・お玉の墓」がある。
 お玉は越後・柏崎の出身。時は文化・文政期(1804~1830)。貧困にあえぐ家族を救うため、お玉は上尾宿の飯盛り旅籠「大村楼」へ売られる。その美貌と性格の良さがたちまち評判となり、その後参勤交代で上尾宿に滞在した加賀藩の小姓に見初められ江戸へと向かうことになる。しかしお玉は病に倒れ上尾へ戻り、25歳の短い生涯を閉じる。気の毒がった大村楼の主人や宿の人々が自然石で墓を作り、手厚く葬った。この時代、飯盛り女は墓が作られることもなく、無縁仏となる例がほとんどだったから、お玉のようなケースはまれだったという。

孝女お玉の墓(遍照院)

孝女お玉の墓(遍照院)

 さて、お玉を見初めた加賀藩の小姓がいかなる人物かなどについては分からず、どこまでが史実に基づいたものかも判断できないが、こうした立派な墓が建てられたことに関しては、なんらかの理由があったのではないかと思う。
お玉が亡くなったのは1829(文政12)年ということだから、江戸に向かったのはそれから5年ほど前、1824(文政7)年ごろということになる。
 ここで加賀藩に目を転じれば、藩主・前田斉泰(なりやす)と11代将軍・徳川家斉の二十一女・溶姫の婚約が決まったのは1823(文政6)年であり、婚礼が行われたのが1827(文政10)年11月のことだ。時に前田斉泰16歳、溶姫15歳。ちなみに加賀藩上屋敷(現・東京都文京区)に溶姫のために建てられた御守殿門が現在の東大の赤門だ。
 前田斉泰は1824(文政7)年に父・前田斉広の死により、少年でありながら自らが中心となって藩政改革に取り組まなければならない大役がのしかかっていた。加賀藩の将来が彼の双肩にかかっていたといっていい。この時期が、飯盛り女・お玉が同藩の小姓に見初められ幸せをつかんだものの、再び上尾へと戻る頃に重なる。ちなみに小姓は基本的に藩主の雑務や警護を行う重要な役割を果たしていた。
 なんの根拠もない想像で恐縮至極だが、藩主・前田斉泰が徳川将軍家から妻を迎えるという未曾有の出来事が、身分という壁のなかでお玉の運命を変えたのではないか。これが後に手厚く葬られたことにもつながったのではないだろうか。
 文化・文政期は町人文化が花開き、戯作者・浮世絵師の十返舎一九(1765~1831)が「東海道中膝栗毛」や「続膝栗毛」を刊行して好評を博していた頃だ。これらを読んで東海道や中山道への旅情をかき立てられた庶民も多かったに違いない。同時に旅の途中でお玉のような薄倖の女性の逸話に胸を打たれる人々も少なくなかったのかもしれない。
 一方、「上尾=酒処」という評価もやはり「続膝栗毛」によって広がったといってもいい。当時の酒造店の名こそ残っていないが、関東の大河・荒川の伏流水を利用した日本酒は当時もさぞかし人気があっただろうと思う。

酒が評判だった上尾。往時もこんな風に酌み交わしていただろうか(上尾市)

酒が評判だった上尾。往時もこんな風に酌み交わしていただろうか(上尾市)

 日暮れ時、上尾市内の居酒屋を見つけてのれんをくぐった。さっそく地元の酒、文楽を注文。酒造文楽は1894(明治27)年創業というから、優に100年以上の伝統を誇る老舗だ。十返舎一九も上尾でこんな風に杯を重ねたのか。そう思っただけで、なんともぜいたくな気分になる。