- 明月堂書店 - http://meigetu.net -

「戸田の渡し」を歩く 吉岡達也【第17回】-月刊極北

「戸田の渡し」を歩く

吉岡達也[第17回]
2015年6月20日
[1]

「戸田川渡場」(渓斎英泉)

「戸田川渡場」(渓斎英泉)


 江戸時代に中山道六十九次を踏破した旅人が現代にタイムスリップしたと仮定して、当時と印象が激変した場所を挙げてもらうとしたら、旅の「難易度」という点では蕨宿(埼玉県蕨市)と板橋宿(東京都板橋区)間を流れる荒川の「戸田の渡し」が筆頭で選ばれるような気がする。
 江戸期以前から、荒川(当時の戸田川)は人々の往来をはばむ関門だった。少し大げさな言い方をすれば、荒川は「江戸の大河」だった。山梨、埼玉、長野の3県の県境にある甲武信ケ岳(標高2475メートル)に水源をもち、関東平野から東京湾へと流れ込む全長173キロメートルの水脈は、江戸~東京400年余の経済・社会にはかり知れない影響を与えてきた。
 とくに江戸幕府にとって荒川は、「天下」を維持する上で非常に大きな要塞の役割を果たした。荒川の存在によって、どんな強大な軍勢が押し寄せてきたとしても容易に攻め込むことができない。要所の一つである戸田の渡しに橋を架けなかった最大の理由がここにある。
 しかし同時に、中山道を旅する人にとって「船渡り」は余計な苦労の種だったことは想像に難くない。
 戸田の渡しは16世紀中ごろからすでに存在していたが、江戸期に入り中山道が整備されたことに伴い、幕府による渡し場がつくられる。現在、戸田橋から下流の土手の上に「中山道戸田渡船場跡」と記された碑があるが、さらにその下流近辺で渡し船が往来していたようだ。船の数も当初は2、3隻ほどにすぎなかったが、中山道の利用が活発になるにつれて増加し、19世紀には10隻を超える渡し船があったことが史実に残る。さらに周辺の地域でも船は使われていたから、戸田付近では相当な往来があったと思われる。渡船場からは1隻あたり20人ほどが乗船。渡船の運賃は川の状況なども勘案して1人あたり6~12文ほど。現代でいえば200~400円といったところか。
 利用者の増大に伴い、渡船場にも活気が生まれる。周辺には茶店が軒を連ねた。また、江戸期から戦後にかけて戸田の河川周辺はサクラソウの名所としても知られ、春になると湿原一面が赤く染まった。そんな景色が旅人の目を楽しませていたにちがいない。
 また、大名の参勤交代をはじめ、あらゆる階層が戸田の渡しを利用した。皇女・和宮降嫁の際にも川を渡った記録が残る。新撰組の近藤勇や土方歳三、俳人・歌人の正岡子規――。歴史上の人物たちもまた荒川を往来した。

荒川のかつての戸田の私近くを今も小舟が行き交う

荒川のかつての戸田の渡し近くを今も小舟が行き交う

 さて、渡し船の利用は現代の感覚だとそれほどおおごとに思えないのだが、実は今日とはいささか異なる側面があった。というのは、当時の旅人の大部分は泳ぎがすこぶる苦手だった。いや、泳ぐことができなかったといってもいい。子供の頃から海辺や川の近くで暮らしていたり、漁師を生業としていた人は別として、今のように学校のプールで水泳を習うといった機会はなかったわけであり、その結果としてほとんどが「かなづち」だった。
 だから、船に乗っている際に誤って落ちたりでもしたら、それこそ一大事となる。もちろん当時救命胴衣のような類があるわけでもないから、乗船は命がけだった。覚悟を決めて、真剣に船体にしがみついていた旅人たちの表情がなんとなく思い浮かんでくる。
 そのうえ、荒川は名前の通りの暴れ川だった。大雨などになると船で渡ること自体不可能だった。増水によって川幅も変わり、時には数キロにも及んだという。悪天候が続くと旅人たちは隣接の蕨宿や板橋宿などに引き返して、ひたすら天候の回復を待った。
 戸田橋の埼玉県側の川沿いには水神社が残る。船の安全などを祈願する地元の氏神様のような存在であり、境内には1796(寛政8)年の銘がある碑が立っている。戸田の渡し周辺でも川の氾濫などによる被害がいくどとなくあったことは想像に難くない。それでも、この地を自らの住まいと決め、川とともに暮らした住民の営みもあった。付近にある地蔵堂は江戸期のものであり戸田市最古の建造物だという。地域の長い歴史がしのばれる。

荒川沿いの氏神様「水神社」

荒川沿いの氏神様「水神社」

 戸田の渡しが廃止され、橋が架かったのは1875(明治8)年のことだ。しかしその橋も台風などの影響でたびたび大きな被害を受けた。近代に入ってからも荒川は相変わらずの難所だった。
 現在の橋は1978(昭和53)年に完成。全長519メートル、幅21メートルの大型橋だ。よくラジオの交通情報などを聞いていると、「戸田橋」の名称は東京と埼玉を結ぶ交通の要所としてすっかりおなじみだが、そのルーツは中山道の渡し場だったということを知る人は意外に少なくなっているような気もする。

戸田橋にほど近い地蔵堂

戸田橋にほど近い地蔵堂

 戸田橋を歩いていると、並行して走る東北新幹線を自然と目で追っていることに気付く。
 新幹線の車窓から見る荒川は、東北方面に行く際にはみちのくへの旅情をかき立ててくれ、帰京する際には「まもなく家に戻る」安ど感を与えてくれる指標であったりする。
 「戸田の渡し」の持つ、旅のスピリットはいまも確実に存在しているのだ。