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やたらと「ピケティ」の名を口にしたがる人達の基礎学力 仲正昌樹【第19回】 – 月刊極北

やたらと「ピケティ」の名を口にしたがる人達の基礎学力

仲正昌樹
[第19回]
2015年4月3日
[1]
すっかりオナジミになってしまいました。

すっかりオナジミになってしまいました。

 前回は、ニューズウィークのピケティ特集に関して、『21世紀の資本』の訳者の一人である山形浩生が自らのブログで、私を個人的に誹謗中傷する、かなり陰湿なコメントを書いていたので、山形と彼に(どういう話なのかわけも分からないまま)同調し私を誹謗中傷したツイッタラーや2ちゃんねらーに抗議する文章を書いた。いろいろな問題を指摘したが、重要なのは以下の2点である。私が経済の本を一切読んでおらず、関心がないのにピケティ特集に寄稿したと山形一派が決めつけていたので、「どうしてそういうことが言えるのか。他人がどういう本を読んでいるのかどうやって分かるのか?」、ということと、「それほど偉そうなことを言うのであれば、単なるピケティの注釈の次元を超えた、応用的・発展的な議論が行われていることを示して見せろ!」、ということである――山形は、私(仲正)の知らないところで、ピケティの問題提起を契機として従来の格差社会論とは異なる極めて生産的な議論が行われているかのような言い方をしていた。

 そういうごく単純な話なのだが、山形一派や(何故か)ピケティを推しているネット・サヨクたちは、そのポイントを理解できず、またもや――到底再反論とは言い難い――的外れな中傷誹謗を繰り広げた。どうして、これほどのバカどもが“経済論客”ぶって、他人を攻撃するのかと思うと、憂鬱になるが、連中の動向を少し観察している内に、ネット上のバカの面白いサンプルが結構見つかったので、紹介しておこう。次いでに、私を名指して攻撃しているのではないものの、山形に便乗して騒いでいたネット・サヨクのことも話題にしたい――ここ十年くらいのサヨクの急速な知的劣化のいいサンプルなので。

 先ず、一番お話にならないのは、私の文章が細かい論点にわたり、やや長いのでついてこれなくなった連中のリアクションである。彼等の一部は、自らの読解力・忍耐力のなさを私のせいにした。「仲正の文章があまりにもアレなので…」というような言い回しで、私をおちょくろうとする輩が数名いた――ひょっとしたらほぼ同一人物かもしれないが。私は誤解がないようにかなり細かく書いたので、理解しにくかったのかもしれないが、理解できないのなら、関係ない人間が余計な捨て台詞を吐くべきではない。
 全く理由を述べないまま、いきなり「どちらと言うと、山形の肩を持ちたい」とツブヤく奴もいた。こいつは、全くの思い込みで、「仲正が経済の本を読んでないのモロバレ!」、などと下品な台詞――こういう奴が、某シンクタンクに勤めているというのだから呆れかえる――を吐く山形の肩を持ちたいのか? 恐らく、山形と同様に、他人を誹謗中傷することに喜びを感じる、クズなのだろう――山形やそのお仲間のような無礼な輩はクズ扱いしてもいいだろう。

 どういうわけか、私がピケティ批判をしていると思い込み、その前提で私をバカにしようとする輩もいた。
juns76(eternalwind)というハンドル・ネームの人物は、以下のようにツブヤいている:「別にピケティの考え方を全部受け入れる必要ないんだよね。この点では仲正先生のピケティ批判も頓珍漢なんだけど。 ようするに、クズネッツカーブが成立しないってことを統計的に立証したってだけでいいわけよ。コレがレッセフェール的な経済学思想に大きなダメージ与えたから。」私のピケティ批判というのが何のことか見当がつかない。今回の騒ぎの後で、『正論』に寄稿した文章では、ニューズウィークの記事よりも、多少長めに『21世紀の資本』の中味の紹介をしたが、ピケティの理論のどこかが間違っているとか、弱い、とか書いた覚えはない。別の人と間違えているか、r>gになる必然性をピケティが理論的に証明したわけではない、という当たり前のことを述べたのを批判と勘違いしたのか、どちらかだろう。後者の場合、「ピケティは○○については語っていない」、と述べたら、ピケティの理論を批判したことになる、と思っているのだろうか? 頓珍漢なのはどっちだ! “経済論客”ぶる前に、中学校レベルから国語力を鍛え直せ!
 これと似たような頓珍漢なクレームに、TONIEOTOWA(TONIE OTOWA)という人物による以下のようなものがある:「仲正さんが数理経済学の専門家でないことは確かで、ピケティの本はなにが画期的だったかというと数理経済学の範疇で実証して見せたことにあるというのを考えると、どうかな、とは思いますけどね。」この言い方からすると、私が数理経済学的な問題についてピケティを批判したと思っているのだろうが、全く覚えがない。強いて言えば、先に述べたように、r>gになる必然性をピケティが証明していない、と言ったことぐらいだが、こいつはそれを、数理経済学的批判だと思っているのだろうか?あと、ピケティ自身は数理経済学の素養がある経済学者であるというのはいいとして、『21世紀の資本』で展開されているような議論を、数理経済学と呼ぶのだろうか? 細かい統計数値に基づいて、格差について論じた本ではあるが、あの本の叙述自体は数理経済学ではないだろう。もしそうだったら、あんなに売れないだろう。それとも、こいつは数字がたくさん挙げられ、r>gのような簡単な式が出てくれば、それだけで数理経済学になると思っているのだろうか?
 あと、私の山形に対する、「それほど偉そうなことを言うのであれば、単なるピケティの注釈の次元を超えた、応用的・発展的な議論が行われていることを示して見せろ!」という注文を曲解して、私がそういう議論は一切行われていないと断じているかのように装って、しつこく文句を言っていたgannbattemasenn(偽トノイケダイスケ(久弥中))というバカがいた。このバカは、そういう議論が行われているかどうかよく調べてから発言すべきだと言っているが、私はこいつがでっちあげたようなことは言っていないし、立証する責任は、偉そうなことを言っている山形にある。私はピケティの“正しい理解”について偉そうなことなど言っていない。この人物は更に、どこぞの学会でピケティについての討論が行われたという話を山形がブログで紹介していることをもって、彼が進行中の応用的な議論の中味に言及しているかのように言っているが、[学会で取り上げられること=ピケティの研究を応用した経済政策の練り上げが進んでいること]、とでも思っているのだろうか? ひょっとしたら、どこかの学会で実際に、単なる注釈ではない、生産的な議論が進行しているのかもしれないが、それを紹介すべきは、ピケティのことならなんでも知っていますとばかりに偉そうな態度を取っている山形である。こいつも、“経済論客”ぶる前に、中学レベルから国語力を鍛え直すべきである。
 記憶障害によるとしか思えない暴言もあった。traiyuve(shoji)という人物が以下のように言っている:「そういえば、仲正がニューズウィークでやってたピケティ揶揄もひどかった。白熱教室ブームと対話型授業を批判してたが、そこに的を絞ったのはサンデルの時に、これがほんとの正義だ、とかって尻馬に乗ってた自分に対する後ろめたさなのか?」これは、私には全く心当たりのないいいがかりである。サンデルの本の書評を書いたり、政治哲学関係の著作で少しだけ触れた覚えはあるが、「これがほんとの正義だ」などと言ったことはない。どちらかと言うと、批判的にコメントしている。恐らく、小林正弥氏あたりと間違えているのだろうが、自分のあやふやな記憶に確信を持ってしまうような人間は、ネット上で不特定多数に向かって発信すべきでない。
 前回の極北のエッセイ以降湧いて出た、私に対する誹謗で特にひどいのはこれくらいだが、先に述べたように、ニューズウィークの特集に文句を言っていたネット・サヨクたちの思い込みが少し気になる。連中は何故か、ニューズウィークは反グローリズムを抑え込もうとして、ピケティ潰しを企てている、とツブヤいていた。ということは、ピケティは反グローバリズムを提唱している、ということになるのだが、ピケティはどこかで反グローバリズムを提唱しているのだろうか? この連中はバカの一つ覚えで、「ピケティ=反グローバリズムの闘士」とツブヤいているだけなので、何を根拠にそう言っているのか不明である。ひょっとすると、グローバル累進資本税のことを言っているのかもしれないが、これは、名前にグローバルと入っているが、反グローバリゼーションとは関係ない。そもそもこの連中は、「反グローバリズム」という言葉で何を言おうとしているのか?[反グロ―バリズム≒反資本主義]と思い込んでいるのかもしれないが、ピケティは資本主義を終焉させるために、資本への課税を提唱しているわけではない。これははっきりしている。
 最近のサヨクは、「反グローバリズム」がどういう意味なのか理解しないまま、「反グローバリズム」を叫んでいるように思える。ピケティを反グローバリズム扱いしているのは、その端的な現われだ。日本のサヨクが「反グローバリズム」を口にし始めたのは、一九九九年のシアトルの反WTO闘争とか、二一世紀に入ってすぐのネグリ・ブームくらいのことである。各国の人民の連帯を訴えるサヨクが、「反グローバリズム」を口にするのはおかしな感じがするが、あの頃は、金融を中心にグローバルに展開し、各国の政治や文化にも影響を与え、民衆の生活を圧迫するようになった多国籍企業の活動に抵抗することを、「反グローバリズム」と呼んでいるのだということが、それなりにはっきりしていた――実際にちゃんと理解していたのはごく一部だけだったかもしれないが。流動的な短期投資を抑制するためのトービン税の構想を、新左翼系市民運動が推奨するという奇妙な現象も起こった――あの連中は本当にトービン税の意味を理解していたのだろうか? ひょっとすると、今ピケティを推しているサヨクたちは、グローバル累進資本税と、トービン税を混同しているのかもしれない。
 [反グローバリズム≒新自由主義]と考えている可能性もあるが、少なくともピケティは「新自由主義」なるものを定義して、それを思想的に批判したりしていない。ピケティを新自由主義批判に結び付けているのは、ピケティ解説のふりをして、自説を宣伝しているサヨクの“論客”たちである。仮に、ピケティが「新自由主義」を批判して、健全な資本主義を育てていこうという提案をしたら、サヨクたちはそれを支持するつもりなのだろうか? 彼らは、資本主義に対するどういう考え方を、「新自由主義」と呼んでいるのだろうか?ネグリ・ブームの頃には、フーコーの生権力論などと結び付ける形で、新自由主義は人々から主体性を奪い、統治しやすい客体にしてしまうといった雑な“議論”をしているサヨクもいたが、最近はそういうのさえ聞かなくなった。今時のサヨクは、よく分からないカタカナ言葉と、「反○○」というスローガンを与えさえすれば、脊髄反射的にRTするような輩ばかりになってしまったのかもしれない。
 カタカナ言葉が好きなサヨクということで、一つ思い出したことがある。何年か前に、ラディカルな新左翼運動から環境問題中心の市民運動へと衣替えした、ある団体の機関紙に、リチャード・ローティの文化批判を紹介する文章を寄稿したことがある――ローティがどういう人であるか紹介する参考書は何冊もあるので、知らない人は適当に読んで欲しい。そうしたら、その団体の元活動家の男が、「仲正氏は、新自由主義によるグローバリゼーションの元凶を持ちあげている」、というかなり見当外れの批判を始めた。ローティがどういう人物か知っている人なら、これが物凄い見当外れであることはすぐ分かるはずだ。多分、ハイエクかミルトン・フリードマンと混同したのだろうが、そんなに似ている名前でもないのに、どうして間違えたのかかなり不可解だった。西欧人の名前は全部同じ様に聞こえるのかもしれない。更に言えば、仮にハイエクとかフリードマンと勘違いしたとしても、たかが経済学者の思想的誘導だけで、グローバリゼーションが始まったりするわけはない。SFに出て来そうな、世界を支配する大資本家とイデオローグの秘密会議のようなものがあるとでも思っているのだろうか?
 ツイッター上で「ピケティ氏正論です。これだけで、日本再生!」、といった無意味なフレーズをしつこくRTしているのは、この類の輩であろう。ピケティ・ブームを通して、“経済論客”ぶっているバカがどんどんあぶり出されているように思われる。