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PC教団化する“経済論客”たち 仲正昌樹【第18回】 – 月刊極北

PC教団化する“経済論客”たち

仲正昌樹
[第18回]
2015年3月1日
[1]
『Newsweek日本版』

『Newsweek日本版』

 私は『Newsweek日本版』の二月二十四日号の『ピケティ狂騒曲』という特集に、「ネタ化する学術書ブーム」という、ピケティ・ブームに論評する文章を寄稿した――タイトル自体は、編集部が付けたものである。タイトルから連想されるように、評判になっている、ピケティの『21世紀の資本』が、本の中身と乖離した、いかにもバブル的な持ちあげられ方をしていると皮肉る、コラム的な文章である。
 この特集、及び私の文章に対して、『21世紀の資本』の訳者の一人である山形浩生――彼は単独の訳者ではなく、三人の訳者の一人である――が、そのブログ「山形浩生 の『経済のトリセツ』」で、「『ニュースウィーク』:当事者意識のない無惨な特集。」という批判文を掲載している。訳者の一人として、軽薄なブーム扱いされるのは心外だと思うのはもっともだが、この山形の文章には、理解しがたい独断と思い込みによる決めつけが含まれている。しかも、当然予想されたように、山形のことを「山形御大」と呼ぶ山形ファンらしき人間や、ピケティ・ブームに便乗して「安倍+グローバル資本主義」批判をやりたいネット・サヨク、社会科学っぽい騒ぎがネット上であると必ずたかって来る野次馬などが集まってきて、『Newsweek』の特集も私の文章も読まないまま、あるいは山形に輪をかけたような決めつけと思い込みに基づいて、私と同誌を誹謗した。同調した人数は、大したことはなかったが、“経済論客”ぶっている連中の、あまりにも支離滅裂な言い分に呆れかえった。以下、山形等の言い分のどこがおかしいか、述べておこう。なお、『Newsweek』に掲載された私の文章の内容は、同誌を見ればすぐ分かるので、要約はしないことにする。
 山形等の言い分でおかしなことは、大きく分けて二点ある。一つは、ピケティ・ブームの場合のように、学術書とか学者の理論がバブル化してブームになっていることについて、『Newsweek』のような雑誌、あるいは、私のような学者が、それを皮肉るような特集を組んだり、文章を書いたりするのは倫理的に許されないかのような物言いだ。山形たちは、学術書や理論が話題になっている場合、マス・メディアや学者は、それに対する賛否いずれかの意見を表明することに集中すべきで、余計なことを言ってはならないという前提に立っているようだが、それは当たり前の前提なのか?その本や理論の中身とあまり関係なく、多くのメディアが勝手にイメージを膨れ上がらせて、ブームを作り上げているとしたら、そのことについて他のメディアが、「バブルじゃないの?」と指摘することのどこがおかしいのか?そこに学者が寄稿するのは、学者の本分にもとる行為なのか?もし、ピケティが日本でブームになる前に、「どうせバブルじゃないの?」、と暗示するのだとすれば、確かに妙な感じはするが、日本語訳が出る以前からピケティは既にかなり評判になっており、いくつもの雑誌が特集を組んでいた。ピケティ来日の前後にはTVやインターネットの番組でかなり大々的に取り上げられていた。山形自身も批判しているような、ブームに便乗した、ピケティ入門書や批判書、論文もかなり刊行されている。イメージが独り歩きしているのではないか、と皮肉っぽく指摘するメディアがあってもいいではないか?それを機に議論が整理されるかもしれないではないか?
 山形の気持ちとしては、そういう皮肉はもっと後でいいだろ、ということかもしれないが、上記の彼の文章はそうは読めない。バブルだと皮肉るのは、無条件に非倫理的で、あるまじきことだと言わんばかりである。山形や彼の“お仲間”たちは、「たとえバブル的な人気であろうと、人気があること自体には理由があるはずだから、それをからかうのは、ブームを支える人をバカにすることだ、とんでもない」、というような、ベタな大衆・消費者崇拝の価値観を持っているのか。
 山形は、特集全体がピケティ・ブームをからかう内容になっているかのような言い方をしているが、そんなことはない。この特集には山形自身の文章を含めて、ピケティを強く支持する文章や、ピケティの問題提起の中身を真剣に検討する文章も掲載されている。特集全体のタイトルと、ブームを皮肉る私の文章がリンクしているかのように見えること、そのことによって間接的に、訳者として寄稿した山形が虚仮にされたかのように見えることが不快だったのかもしれないが、もしそれで腹を立てているのであれば、度量の小さい奴である。自分の寄稿した文章が、特集の中で浮いていたり、少数派になったりするのは、物書きをしていれば、よく経験することである。ピケティをちゃんと読むべきだとアピールする彼の文章が、歪められることなく、そのまま掲載されているのだから、それでいいではないか。それとも、何か痛い所でも突かれたのだろうか?ひょっとして、『21世紀の資本』の売上を物凄く気にしているのか?
 当然のことながら、私は編集部の意向の代弁などしていない。ピケティについて特集するので、ブームのから騒ぎ的なところを指摘する文章を書いてくれないかと、編集部から言われたので、単純に引き受けたが、何となくのイメージとして、特集全体はピケティの主張を真剣に考える、というようなトーンになっているのではないかと想像していた。特集のタイトルは、私にとってもやや意外だったが、先に述べたように、ピケティの問題提起を好意的に受けとめている文章も掲載されている。山形を一方的に虚仮にするような流れにはなっていない。ブームを皮肉る特集タイトルを付けること自体がけしからん、そういう趣旨の仲正の文章を載せること自体が、山形とピケティ、ピケティ・ファンに対する侮辱であると言うのであれば、おまえたちは何様か、と言いたい。この特集のサブタイトルは、「『聖人』ピケティは格差を救うか」である――当然、編集部がこのサブタイトルを付けた理由も、私の関知のしないところである。バブル気味のブームではないかと冷笑しているように見える文章が載っているだけで、ピケティ潰しだと騒ぐ、彼らの不寛容な振る舞いを見ていると、結果的に、このサブタイトルは正鵠を射ていたのではないか、と考えざるを得ない。社会学者で、ピケティ専門家を気取る稲葉振一郎は、私の文章は藁人形叩きだとツイッターで言っていたが、彼を含めたネット上のピケティ・ファン・クラブの反応を見る限り、全然、藁人形叩きではない。
 もう一点の問題は、山形が、私がピケティを知らない、経済の本を読んでいないと決めつけ、ネット上の野次馬たちがそれを真に受けていることである。知らなくて、どうしてピケティ・ブームを皮肉れるのか?また、どうして私が経済の本を読んでいないと分かるのか?山形の批判文を見る限り、彼は、私がブームを皮肉る文章を書いていることから、私が経済(学)のことを知らない、関心がない、と即断したようである。しかし、どうしてそこまで発想が飛躍するのか理解に苦しむ。無論、私は経済学者でも統計学者でもないので、細かい論点について専門的なコメントをすることはできないし、すべきでもないと思っているが、分配的正義をめぐる政治哲学や政治思想史は専門であるし、経済哲学・経済思想史に関しても、これまで何本か論文を書いたり、著者を出したりしている。何についてどういうことを書いているかは、ネット検索してみれば、すぐ分かる――山形や稲葉は、そういうことを知らないか、知っていても、それは彼らの言う“経済学”とは関係ないので、やはり仲正は“経済学”に関心を持とうとしていない、と主張するかもしれないが。
 政治哲学者と経済学者の間の分配的正義をめぐる論争とか、経済学者の政治哲学的論考について何か書こうとすれば、関連する経済学の本や論文も、それなりに読んで、どの程度の関連性があるか検討しなければならない。私が書こうとしていることとの直接の関連性が薄いと判断すれば、注で言及するに留める。それは論文を書くうえで、当然のことである。本を読むたびに、その感想文をネットにアップするまともな学者はいない――専門から離れたテーマの本まで論評していたら、研究時間がいくらあっても足りないし、無意味である。しかし、2ちゃんねるなどで学者・知識人の悪口を言っている連中には、その当たり前のことが分からないらしい。いかにも“経済学”っぽいテーマ、例えば、アベノミクスの是非とかリフレとか量的緩和とかTPPなど、BSの経済番組でよくやっているようなテーマについて、それらしい意見を述べないと、“経済学”に無知ということになるようである。[その手の論争っぽいことに参加しない=無知]ということらしい。おかげで、私はいろんなことに関して無知だということにされている。山形も、それと同じレベルのことを考えているのだろう。
 こういうことを言ったら、「だったら、どうして自分の得意な政治哲学とか経済思想史に引き付けた文章を書かないのか。やっぱり書けないのか!」、と言い出す輩がいるかもしれないが、それは、そういう依頼ではなかったからである。ピケティに関して政治哲学や経済思想史に引き付けて書くことにも、そのブームのバブル性について書くことにも、それぞれ意義があると思っていたが、今回はたまたま前者で頼まれたというだけのことである。そういうことに関して、山形や稲葉、にわかピケティ・ファンたちに指図されるいわれはない。学者が、ブームを皮肉るようなコラムを書くべきではないと言っていた人もいたが、どうして学者がコラムを書いたら悪いのか。論文のつもりで書いているのなら、かなりイタイ奴だが、私はそんな勘違いはしていない。
 既に述べたように、今はまだブームがどうのこうのと言うべき時期ではない、と彼らが思っているのであれば、そう主張すればいいだけである。どうして私の人格を否定したり、教養がないと決めつけて、誹謗する必要があるのか?サヨク的な音楽活動をしているらしい、ハンドル・ネーム「渡邊裕樹27さいA型しし座」という人物が、山形の文章だけ見て、完全に真に受け、「仲正昌樹という人、本当にひどいな」とツブヤイテいたが、ひどいのはおまえの頭の中身と人格だろう!
 あと、山形は、私が同じようなブームになった対象として、サンデル、アーレント、ネグリなどを挙げたことを持って、「てちゅがくしょ」--山形は興奮すると、幼児口調になるようである――しか読んでおらず、経済の本を読んでいないのモロバレ、と書いているが、これはどういうつもりだろうか?経済学の本を読まないから、経済の本を引き合いに出せないと短絡したのかもしれないが、単純にそう思い込んでいるとしたら、頭が悪いとしか思えない。書いてある中身ではなく、どのように持ちあげられているか、演出されているか、という観点から、サンデル、アーレント、ネグリ、マルクスと対比したのである。私が、主張の中身で対比していないことは、まともな国語力があれば分かるはずである――山形に脊髄反射的に同調している連中は、思想の中身を「対比」したと思い込んだのか、それとも、「対比」というのがどういうことかよく分からないが、何かすごく悪いことなのだろう、と迷信的に信じ込んでしまったかのいずれかだろう。経済学者に関するブーム的なものとして、『Newsweek』の編集部も挙げていたガルブレイスの『不確実性の時代』とか、ミルトン・フリードマンの『資本主義と自由』とか、ケインズvs.ハイエクとか、ポズナーとか、スティグリッツとか、山形が好きなクルーグマンとか、行動経済学とか、「もしドラ」とか、思い当たるものがないわけではなかったが、どれも持ちあげられ方、演出のされ方が、今回のピケティとは違っていて、むしろサンデルなどの方が近いし、同じラインにピケティも乗っているように思えたので、そういう対比にしたのである。どういう風に似ているか、関連しているかについては、私の文章をちゃんと読んでもらえれば、分かるはずだ。それが分かったうえで、やはりその対比はうまくないとか、経済本でもっとうまく対比できるはず、といった指摘であれば、傾聴に値するが、どういうつもりで対比しているのかさえ分からないのであれば、話にならない。稲葉は「斜に構える芸は外すとかっこ悪い…」とツブヤイていたが、基本的な国語力のない人間にも必ず効くような文章を書くことなど、どんな文章の天才にも不可能である。
 山形は何故か、私がネグリを引き合いに出したことがすごく気に入らないようだが、何が気に入らないのか?ネグリの『〈帝国〉』は売れ行きが『21世紀の資本』と全然違うので、比べることが失礼だとでも言いたいのか?山形は、ネグリに注目する人は現代思想界隈に限られていた、ということしか言っていないので、そう思われても仕方ないだろう。もし、山形がピケティについて真剣に論じようとしている人もいるのに、茶化すのは失礼だ、と本気で思っているのなら、読者が少ないことをもってネグリをバカにするのは矛盾しているだろう。自分(たち)は特別なのか?因みに、ネグリのプチ・ブームの時に、ネグリの〈帝国〉論とセットで、経済学者トービンの提唱するトービン税なるものを実現すべきだと――自分でも何のことかよく分からずに――主張していたサヨクたちがいた。それとピケティのグローバル資本に対する累進課税の話が何となくかぶっているように見えたので、そのことも書こうかと思ったが、短い原稿の中でちゃんと説明しようとすると煩瑣になるので、止めておいた。もし私がそういう皮肉を書いていたら、山形たちはどう反応したろうか?
 山形自身の決めつけは、どういう思考回路によるのか、ある意味分かりやすいが、それに同調する連中の言い分は、本当に意味不明である。「Lyiase@勝どき」なる人物が、「ところでNewsweekの特集内でピケティ氏の『21世紀の資本』に対して、仲正昌樹氏が持ち出した本が「アーレントとかサンデルとかネグリ」っていうのはちょっと酷くないか」とツブヤいているが、これはどういうつもりだろうか?字面通りに受け取ると、『21世紀の資本』のような経済学の本は真面目な人が読むもので、アーレントとかサンデルとかネグリのような「てちゅがく」の本は、ふざけたヒマ人が読むものだと断じているとしか思えない。本当に何様のつもりだろう。
 もっとヘンなのは、“ルーマン専門家”を自称し、ネットでいろんな争いごとに首を突っ込んでくる、ハンドル・ネーム「contractio」(酒井泰斗)という人物である。こいつは、山形の科白を引用する形で、「「マヨネーズ噴いたわ。『ちなみに仲正が、ピケティ本に対比するため持ち出してきた本というと、アーレントとかサンデルとかネグリだ。』」とツブヤいているが、これはどういうつもりだろう?これと同じ様な反応をした奴が他に2~3人いた。本当に意味不明なので、少し考えてみた。これだけで本当に噴き出すとしたら、私が「ピケティの言っているようなことはアーレントやサンデルやネグリが既に言っていて、目新しくない」とか「克服された」とか、どこかのサヨクじいさんみたいなことでも言っている、と連想したとしか思えない。他に説明のしようがない。それとも、contractioたちは、偉い先生の講演会に参加し、面白くもないジョークに対してわざと大笑いしてその場を盛り上げるサクラのように、有名人が他人をおちょくるのを見ると、意味も考えずに脊髄反射で同調する、単純な生き物なのか?
 「YoshiCiv」という人物が、山形のブログのコメント欄で、「 ピエティの本が統計本って事を知らないと上みたいな結論になるわな」と言っていたが、これはどういう意味だろう?――実際に「ピエティ」と書いている。“経済学”が分からないと、あの本では政策提言することよりも、客観的な統計資料を呈示することに主眼が置かれているということさえ分からない、とでも言いたいのだろうか?稲葉振一郎が、「理論が希薄であることには理由があるのだがそこまでの読解を素人に求めるのも酷だ」と言っているのも、多分そういうことだろうが、私は相当バカに見られているようである。その私に言わせれば、おまえたちの想定している経済学の玄人/素人の境界線とはそんなものか! 他に言いようがない。“経済学”という高貴な学問、特に“聖人ピケティ”の理論の核心について語ることのできる自分たちが、大好きな人たちなのだろう。
 もう一つの意味不明な反応として、自称雑誌編集者見習いの「megaane」という人物による、以下のようなコメントがあった:「大澤先生の増税論議とか、U田せんせーとか、ここで一刀両断されてる仲正昌樹さんとか、人文系の先生方がこと格差・再分配みたいな話でこんな感じなのをみると、現代はじまったなとおもったりする」。「こんな感じ」というのがよく分からないが、ツイッターにかじりついている人間が、こういう曖昧な言い方をするのは大抵ネガティヴな意味なので、恐らく、ネット騒がれるようなバカな発言をした、と言いたいのだろう。大澤真幸氏と内田樹氏が先生で、私が「さん」だということは、彼にとって私は、かなり格が下の存在なのだろう――「一刀両断されている」というのは、かなり失礼な言い方である。一体大澤・内田両氏と私の間にどういつ共通性があるのだろう?大澤氏の場合、実際に増税を肯定する議論をしているのに対し、内田氏の発言というのは、恐らく、彼の格差社会論のことだろうが、彼は格差に対する個人の心構えのようなことを言っているだけで、政策論議はしていないはずである――ひょっとすると、どこかでそれとは別に具体的な政策論のようなことを言っているのかもしれないが、一般的にはほとんど知られていない。私は既に述べたように、(少なくとも山形やこの人物が言及している当該の文章に関する限り)ピケティ・ブームについて語っただけで、格差はいいことだとか、再分配はやらなくていいとか主張しているわけではない。格差や再分配について論じている思想家についての解説書や論文なら書いた覚えはあるが、自分の経済政策観を述べているわけでもない。しかし、どっちみち、見習いのmegaaneは私がそういう種類の本を書いていることなど知らないだろうし、私を非難している山形は、仲正は“経済”のことを知らない、関心がないと断じているのだから、それを信じるとすれば、私が「格差・再分配」の話をしているのはおかしいだろう。強いて三人に共通項があるとしたら、“何となく経済っぽい問”題に関連してネット上で非難されたことがある、ということくらいだろう。これこそ強引な“対比”だろう。そもそも、どうして、ネットでたかが十数名の人間に非難されただけで、「ありえない発言をしたイタイ奴」、ということになってしまうのか?こんな大ざっぱな感覚だと、まともな編集者にはなれないだろう。この人物は、先のツイートに続けて、「「平坦な戦場」、あるいは「終わりなき日常」の終わりというか。この前読んだ「最貧困女子」の風景ととか、飯田泰之先生が言ってる「6:4の格差」の話とか、近代・そして戦後リベラルの時代がそろそろ終わり、ようやく現代がはじまるというか」、と述べているが、内田・大澤両大先生と並んで、私も賞味期限が切れた「戦後リベラル」の一人だと言いたのか?「現代」って一体なんだ?この人物の頭の中では、ハルマゲドンの闘いが進行中なのだろう。さぞや、エキサイティングな日々を過ごしているのだろう、と思う。ところで、この人物が推している経済学者の「飯田泰之先生」らしい人物も、山形等の騒ぎに便乗して、ツイッター上でNewsweekの特集は、「ブームで終わってほしい願望にさえる」、という陰謀論っぽいコメントをしていた――「さえる」は「見える」か「にさえ見える」の書き間違いだろう。私は、その陰謀の手先ということになるのだろうか?そういうのが、「現代」をリードする立派な学者なのだろう。
 という風に、いろいろおかしなことはあるが、一番腑に落ちないのは、山形がピケティの問題提起を契機として、真面目な議論が起こっていると強調している割に、その中身について説明しようとしないことだ。「ぼくは、ピケティ本の影響(というよりピケティの一連の研究の影響)はかなり大きなものとして続くと思ってる。それを見るにはどこを見ればいいかも、見当はつく」と彼は言っている。「どこ」なのだ?
確かにピケティ・ブームで、格差に関する議論は再燃しているが、その内容の多くは、ピケティの本によって統計的に裏付けられたこととあまり関係がない。以前から言われていたことである。とにかく格差社会論議を再び盛り上げることが重要だというのであれば、「格差」に関する本でインパクトさえあれば、ピケティの本でなくてもいい、ということになる。山形等は気に入らないだろうが、文学作品である『蟹工船』も一時期大ブームになり、“格差社会論議”を牽引した。それと同じでいいのか?私はそれを問題にしたのである。
 そういうイメージ的なものではない、ちゃんとした学問的な論争や議論が日本国内でも進行しているというなら、山形たちは、私の人格攻撃のようなつまらないことなどしないで、ちゃんと紹介すればいいのである。山形は自分のブログで、自分流の『21世紀の資本』のトリセツを公開したり、ピケティ専門の異端審問官みたいに誰それのピケティ論はいい、誰それのはダメだ、といった論評をやってみせたり、ピケティの東大講演で東大生が、「僕らが恵まれた家庭に生まれたのは悪いことですか」と質問したことに感動したとか言っているが、ピケティの問題提起を契機にどういう種類の“画期的な経済学的議論”が進行しているのか、という最も肝心なことは語っていない。ひょっとしたら、どこかで言っているのかもしれないが、彼のブログからは見えてこない。例えば、現在の日本の税制と予算の配分を具体的にどう変更したら、どのくらいの経済成長が達成可能で、どういう形で格差が縮小するのか、ちゃんとシミュレーションして、政策提言するような議論が、ピケティのデータと分析をもとに着実に進められているのであれば、もったいぶらないで、ちゃんと紹介してほしい。“正しいピケティ解釈”を延々と続けたり、(日本の経済について詳しい知識を持っているとも思えないし、金融政策の専門家でもない)ピケティの来日時の発言を引用して、アベノミクスを批判するだけでは、ちゃんとデータに裏付けられた政策論議には繋がらない。さすがに山形もそんなことくらい分かっているだろう――本当に「聖人」扱いしたいなら、話は別だが。あるいは、教育格差を効果的に解消する方法が、ピケティの議論を契機に発見されたのなら、是非教えてほしい。教育格差には、親の年収との直接の因果関係を認めることが難しい要因も多く関係しているが、それを経済政策でどう制御するのか?また、グローバルな累進課税を実現するための国際協調体制の構築に向けた具体的な話し合いがどこかで着実に進んでいるのなら、教えてほしい。国民の収入や財産に関する情報を複数の国家が完全に共有することさえかなり難しいと思うが、それに加えて、徴収した税をどう配分するのかもきちんと決めておく必要があろう。トービン税も、これとセットで導入すべきかも検討すべきだろう。これは、“経済に関心のない仲正”にとっても、極めて興味深い問題である。“経済が分からない仲正”のような人間にもピンと来るように、丁寧に教えてほしいものである。
 こういうことを言うと、真面目ぶった輩が、「何を急かしているのだ。本格的な議論はこれからだ。そういう風に急かして、真面目な議論を潰そうとしているのか!」、と言い出すかもしれない。もし、本格的な議論はこれからだと思っているのであれば、そう正直に認めたうえで、そんなに焦らせるな、と言えばいいだけのことだし、さほど影響力のない私ごときが嫌味を言ったくらいでダメージを受けるようなブームなら、その程度のものだった、というだけのことである。
 「お前たちごときには理解できないだろうが、分かっている人たちはどこかでちゃんとまともな議論をやっている」、と暗示し、相手を見下すのは、PCが大好きなサヨクや生半可なフェミニストがよく使う手口である。例えば、「あなたたちが言っているように、差別をするような心を持っていること自体が悪であり、絶対に克服すべきだとすれば、子供たちを、そういう偏見を持った親や教師から完全に隔離し、純粋培養教育しないといけないということになるのではないか?それだと全体主義にならないか?誰が正しい教育をするのか?」、というような疑問をぶつけると、「あんたの水準は恐ろしく低い。ものすごく周回遅れだ。そんな問題はとっくに、○○論争で克服されている。それとも、反差別運動を妨害するため、そんなことを言っているのか!」という“答え”が帰って来るが、その○○論争なるものでどういう風に決着がついたのか、はっきりと分かるように説明しようとはしない。そういう風に、自分たち選ばれし者だけ“高尚な真理”を知っていることにすると、気持ちがいいのだろう。今回の山形、稲葉、contractioたちの反応を見ていると、そうしたPCクラブ的なものを感じる。
 最後に念のために言っておく。山形や稲葉は完全に誤読しているが、私は『21世紀の資本』や『〈帝国〉』の中身について良し悪しを言っているわけではない。どちらかと言うと、良く言っている。今回の山形とか稲葉のような振る舞いをする人間が嫌いだし、ちゃんとした議論をするうえでも有害だと思っているので、皮肉っているのである。