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ロバート・キャパの19日間 吉岡達也【第10回】-月刊極北

ロバート・キャパの19日間

吉岡達也[第10回]
2014年12月30日
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ロバート・キャパ

ロバート・キャパ

 間もなく2014年が幕を閉じる。馬齢を重ねるにつれ、「年の終わり」に対する感慨はますます希薄になっているが、それでもこの時期になると、1年間の総括をしてみたい気になるものだ。
 私事でいえば、2014年は、自分自身がそもそも何をしたかったのかを幾度も問い直す1年であった。ありていにいえば「ミッドライフ・クライシス」といったところかもしれないが、若い頃に夢見てきた理想と現実とのギャップが肥大化し、いよいよ行き詰ったことを思い知らされる日々が続く。
 折しも2014年は、世界的報道写真家として知られたロバート・キャパの没後60年という節目の年だった。
 私にとって、キャパこそが究極のヒーローだった。
 ロバート・キャパは1913年生まれのハンガリー人。19歳の頃に、デンマーク・コペンハーゲンで旧ソビエト連邦を追われたレオン・トロツキーの演説写真をスクープし、報道カメラマンとしてデビューする。
1936年、スペイン内戦取材で銃弾を受ける民兵を至近距離から撮影した「崩れ落ちる兵士」によって、当時のメディアから「世界で最も偉大な戦争写真家」と絶賛される。
 1944年には、第二次世界大戦のいわゆる「Dディ」として知られる、連合国軍のノルマンディー上陸作戦の歴史的スクープによって、その地位を確立した。
 キャパの魅力はカメラマンとしての活躍にとどまらない。何よりもその軽妙洒脱な文章が持ち味だ。彼の存在を世界的に知らしめたのは自伝的小説「ちょっとピンぼけ」だ。同書は日本語にも翻訳されており、報道写真家の存在意義をいかんなく伝えている。
 私生活では、ハリウッド女優、イングリッド・バーグマンとの恋愛、「老人と海」などで知られる作家アーネスト・ヘミングウェイ、「怒りの葡萄」で知られる作家ジョン・スタインベックらとの交流で知られる。
 その後は写真家集団「マグナム」の設立など報道写真家の地位向上に力を尽くすなど、わずか40年の人生を文字通り全力で駆け抜けた。
 私がキャパを知ったのは中学生の時であり既に歴史上の人物だったが、彼に関する書物を片端から読みふけった。キャパのようにはなれないことは初めから分かっていたが、彼のような職業に就ければと思い、新聞記者を選んだ。入社試験の作文でもキャパを題材に書いたものだった。
 配属された支局時代にキャパが愛用していた戦前のドイツ製「コンタックスⅡ」の同型機を入手。片時も手放さず、フル活用した。いわゆる「街ネタ」の取材でも自分自身がどこかキャパの仕事を追体験しているような気がして、やり甲斐を感じていたものだった。
 しかし、時は流れた。数十年を経過して何の目的も見失い、日々のわずかな禄をはむためだけに生きる存在と化した。かつて少しでもキャパに近づきたいという理想は完全に崩壊した。自宅の書棚に置かれたコンタックスは埃にまみれ放置したままだ。

◇  ◇  ◇

 キャパは1954年5月、第一次インドシナ戦争取材中に地雷を踏み、命を落とした。その直前、彼は毎日新聞社の招聘により、最初で最後の来日を果たしている。4月から5月にかけての19日間、東京や大阪、京都などを回り、確認されているだけで2000枚以上にも及ぶ数多くのスナップ写真を残している。
 当時、キャパは肉体的にも精神的にも大きなスランプに陥っていた。何よりも戦争写真家として名声を獲得した彼にとって、「戦後の平和」は皮肉にも彼自身の存在意義をおびやかしていた。当時彼は「写真を撮ることに疲れた」と友人に漏らし、日本から戻ったら引退祝いのパーティーをしたいと語っていたという。
 そんな彼が、異国の地日本を歩くうちに再び写真に対する情熱を蘇らせていく。
 招聘に際しては、キャパに対してはタイアップとして日本製のカメラを使用することが条件だった。しかし、米国の水爆実験に端を発した「第五福竜丸事件」取材で同船が寄港した静岡・焼津に足を運んだ4月20日から、キャパのメーンカメラが彼の代名詞である「コンタックスⅡ」に切り替わる。契約を反故にしてまでも愛機の投入に踏み切ったのだ。その時、キャパが再び写真への情熱を取り戻したのだ。
 彼はグラフ誌「ライフ」の要請により、当初6週間の日本滞在日程を中断し、戦乱の続く仏領インドシナへと向かう。戦争取材を引き受けたことと、日本で写真への情熱を復活させたこととは恐らく無関係ではないはずだ。それが結果的には彼の寿命を縮めてしまったことになるのかもしれないが、裏返せば、「史上最高の戦争写真家」ロバート・キャパらしい人生の幕引きといえるのだろう。
 考えてみればキャパにしても戦後は、名声の代償として大きな重荷を抱えて苦しみ、あえいでいたことも事実だ。そう考えれば、名声の欠片もない私の方がずいぶんましな気もしてくる。
 もっとも、キャパが日本で過ごした濃密な「19日間」と、私自身の空虚な「1万8000日余」のギャップを埋めるのはあまりにも難しい。その打開策が2015年の課題になりそうだ。