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苦痛がもたらしたもの 吉岡達也【第7回】-月刊極北

苦痛がもたらしたもの

吉岡達也[第7回]
2014年10月14日
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歌川国芳『崇徳院』

歌川国芳『崇徳院』

 9月末から激しい右手の痛みと格闘している。当初腱鞘炎だと思っていたら、実は痛風の発作だった。5年ほど前から、貧乏人にも関わらず「贅沢病」ともいわれる痛風に悩まされるようになり、時々起きる足の親指などの痛みと闘っていたが、患部が利き腕の右手に移ったのは初めてだ。現在は快方に向かってはいるものの、日常生活全般に深刻な影響が出ている。
 連日手首を中心とする痛烈な痛みで何度も目が覚め、寝不足のまま朝を迎えた後も歯磨きにしても洗顔にしても四苦八苦している。満員電車の中でもひたすら右手をかばい、勤務先ではほとんどの作業を左手でこなすことになる。箸も満足に使えず、食事はたいていパンかおにぎりで済ます。鎮痛剤が効いている間は比較的痛みも和らぐのだが、効き目が切れると再び激痛にもんどり打つ。特に困るのはトイレで、ウォシュレットの力を借りつつも文章には綴れないような苦闘が続く。長年の不摂生が招いた罰は実生活に強烈なインパクトを与えている。
 実は夏前に、9月末から10月初めにかけての休暇を予定しており、コンサート鑑賞やスポーツ観戦をスケジュールに組み込んでいた。この楽しいはずの休暇は、痛風の発作によって一変した。とりわけ、痛みを伴った音楽鑑賞やスポーツ観戦ほど悲劇的なものはない。会場内でも痛みは止まず意識は千々に乱れ、そのうち何をしているのかすら分からなくなってしまうのだ。
 利き腕がやられると、これまで気付かなかった不便さがどんどん表面化してくる。例えばペットボトルの飲料を購入した際のキャップの開閉だ。どうがんばっても、開けることができない。身近に知り合いなどがいれば、頼んで開けてもらうことができるのだが、一人でコンサートに出かけた場合にはどうにもならない。見ず知らずの人に「キャップを開けてください」と頼むのもさすがに気が引ける。うっかりペットボトルの飲料を買った後は、結局飲むこともできず、無用な荷物となるのだ。
 さて、激痛をこらえて足を運んだコンサートは、すみだトリフォニーホール(東京・墨田)で開かれた歌劇(オペラ)「白峯」と日本武道館(東京・千代田)で行われたボストン「Japan Tour 2014」。「白峯」は世界初演。「ボストン」は1979(昭和54)年の初来日コンサートから35年ぶりの来日公演という、なかなかマニア心をくすぐるステージだ。しかし、一週間のうちに歌劇とハードロックの貴重な2本立てを心おきなく堪能するという企ては、痛みとの闘いという事態へと変貌した。
 中でも痛みが頂点に達したのは、ボストンのライブだった。右手の痛みで全く集中できないのだ。周囲で同年代のオッさんたちがそれこそ涙を浮かべながら手拍子を送っているのに、私は苦痛で手拍子すら打つことができない。天才トム・ショルツの感動的ともいえるギターソロを聞いても、なぜかその感動はどんどん痛みへと昇華されていく。私が座っていた1階席は屋根がせり出している構造ということもあって、ステージの特大スクリーンが3分の1しか見えず、なんとか見ようと腰をかがめるたびに右腕に圧力がかかり、しばしば「ギャン」という奇声を上げる始末だ。ライブ後半、初期の名曲「More Than Feeling(宇宙の彼方へ)」のごとく、意識自体も宇宙へと遠ざかる始末だ。今まで様々なコンサートに足を運んできたが、文字通り気を失いかけたライブは初めてのことだった。
 一方、歌劇(オペラ)「白峯」は、江戸時代後期、文化・文政年間の作家・上田秋成(1734~1809)の代表作「雨月物語」に題材をとった現代オペラだ。フランス・パリを拠点に活躍する作曲家・丹波明氏が8年の歳月をかけ完成。悲劇の皇族として知られ、菅原道真(845~903)、平将門(?~940)と並び「日本三大怨霊」として知られる崇徳上皇(1119~1164)を主人公とした作品だ。崇徳上皇は平安時代、皇位継承をめぐる騒乱に巻き込まれ保元の乱(1156年)の後に四国・隠岐に流され、同地で没した。享年45歳。歌劇は、貴族政権から武家政権へという転換期に不遇の生涯を送った崇徳上皇とその没後にその菩提を弔うため隠岐を訪れた歌人・西行との魂の対話を中心に展開される。西洋のオペラと東洋の独自の世界観が融合された壮大なレクイエム(鎮魂曲)だ。
 奇しくも今年は崇徳上皇没後850年という節目の年。読経の合唱が流れるフィナーレでは、会場にはかつて経験したことのないような厳粛な雰囲気が流れていた。
 そんな中、気が付くと右手の患部をさすりながら「悪霊退散」「悪霊退散」と祈っている私がいた。完全に舞台に同化していたのだ。かつて秋田県に旅行した際、恐ろしい形相をしたなまはげを前にして「もうしません」「もうしません」と叫んでいた幼少の自分にタイムスリップしたような気分だった。
 ――2014年秋に味わった強烈な苦痛と一連のコンサート体験は、私の人生における禊(みそぎ)のようなものだったのかもしれない。