- 明月堂書店 - http://meigetu.net -

「三菱一号館」の120年 吉岡達也【第4回】 – 月刊極北

「三菱一号館」の120年

吉岡達也[第4回]
2014年9月12日
[1]

三菱一号館 [2]

明治27年に建てられた「三菱一号館」

 もし2014(平成26)年のいま、東京・丸の内のビジネス街の一角に「三菱一号館」が存在していなかったとしたら、一体どんな景観になっていただろうとふと考える。おそらくはさえない、無機質な街並みに感じられると思う。英国ヴィクトリアン期の建築様式を色濃く残す秀麗なフォルムは、文句なしに美しい。日本初のオフィスビルとして明治期に建てられたこの建物が復元されたのはわずか4年ほど前のことだが、すぐに都心の風景に溶け込み、2012(平成24)年に再建された東京駅丸の内駅舎とともに赤レンガ造りの美しい景観を形成している。
 三菱一号館はちょうど120年前の1894(明治27)年、英国人の建築家・ジョサイア・コンドル(1852~1920)の設計により建てられたものだ。地上3階、地下1階建て。当初は事務所および銀行として利用された。1923(大正12)年の関東大震災や第二次世界大戦の荒波に耐え抜いたが、高度経済成長という波には勝てず1968(昭和43)年に解体された。時代が変わり、三菱地所の「丸の内再構築」の一環として再建が決まり、2007(平成19)年に明治当時の設計図を基に着工。2010(平成22)年4月の正式開館後は美術館として利用されている。庭園にはバラなどが配され、都心のオアシスとして定着した。
 コンドルはいわゆる明治初期に招聘された「お雇い外国人」の一人だ。1877(明治10)年に24歳という若さで来日。虎ノ門にあった工部大学校(現・東京大学工学部)の初代教授に就任した。

ジョサイア・コンドル

ジョサイア・コンドル

 1880(明治13)年、コンドルは明治政府が外国の使節団を迎える社交場建設という大役を任される。「鹿鳴館」だ。場所は日比谷公園脇の現・千代田区内幸町。2000人収容の西洋風建築物の建築という大事業だった。
 正直、彼も相当不安だっただろうと推測する。当時コンドルは28歳。新進気鋭の建築家であったものの、英国でもほとんど無名の建築家でしかなかった。むしろ来日してからはじめて、自分自身が日本から求められていることの重大さにとまどっていたはずだ。それでも、彼のバックボーンである西洋の建築様式と東洋の建築をミックスして苦心を重ねた末、1883(明治16)年に鹿鳴館が完成した。

鹿鳴館

鹿鳴館

 もっとも、結果的には失敗作だった。当初は「洋風の名建築」と絶賛した明治政府の関係者も、「奇妙な建物」と批判を口にする外国人を前に、現実を知らされる。これは、早急な西洋化を進める明治政府にとって屈辱的なことだった。失敗の矛先は、建築に携わったコンドルに向けられていったことは想像に難くない。
ほどなくして、明治政府のコンドルに対する扱いが変化した。彼に対する対応も、いつしか高圧的なものに変わっていったようだ。彼自身はまっさかさまに落ちていくのを感じたに違いない。
 明治期から一貫して日本をリードしてきたのは、薩長を中心とする「時代の新興勢力」だ。新しもの好きで、物事の優劣を決めることに重点を置き、常に「仮想敵」を設定しながら、大衆を巻き込んでいく。こうしたエネルギーが近代日本の発展につながった部分は認めざるをえない。しかしそこに内在する、いったん弱者とみなしたものを徹底的に蹴落としていく思想が、戦前の軍部台頭に結びついたこともまた事実だ(そしてその妖怪はいま、再び姿を見せている……)。
 閑話休題――。
 当時のコンドルの立場を例えるなら、さながら先日まで行われたサッカーW杯ブラジル大会で采配をふるったアルベルト・ザッケローニ日本代表前監督のイメージにもつながる。必要以上の期待を受けて就任したものの、結果が伴わなかったとみるや、一転してけなされ、無視され、放り出される。とりわけ日本には「一発逆転」「捲土重来」といった土壌は希薄だ。日本は個々人のレベルでは互助の精神が色濃いのに、こと集団となると「排斥」傾向が非常に強いのだ。
 加えてコンドルの場合、教え子たちからの無言の重圧もあった。コンドルの指導を受けた後、西欧諸国に留学し、はるかに高水準の建築学に触れた結果、恩師への尊敬の念を失う教え子も少なくなかった。
 こうしたなか、そんなコンドルが自分の代表作として必死に取り組んだのが、皇居東方に広がる当時の三菱社に払い下げられた丸の内の土地に建築する三菱一号館だった。彼がイメージしたのは彼の故郷・ロンドンにあった生家だった。彼はこの建築物に文字通り、命をかけた。
 1920(大正9)年、コンドルは日本で亡くなり、1940(昭和15)年に鹿鳴館の建物も解体された。そして彼の代表作・三菱一号館も姿を消した。しかし、時代は動いた。彼の三菱一号館に対する熱い想いが、いつしか後世の人々の琴線に触れた。かつてコンドルは丸の内の地での美術館建設を構想し、彼が最も好きなバラの花咲く庭園を夢見ていた。彼の死後90余年。奇しくも彼の描いた夢はことごとく現実となった。
 コンドルの一番弟子、辰野金吾が設計した東京駅丸の内駅舎から三菱一号館へと続くエリアこそが、さながら明治と平成をつなぐ赤レンガのタイムカプセルともいえる。