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落ち着ける場所 吉岡達也【第3回】 – 月刊極北

落ち着ける場所

吉岡達也[第3回]
2014年7月18日
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 精神的に落ち着ける場所が身近にあるかどうかは、極めて重要なことだ。とりわけ、勤め人にとっては、会社以外に気の休まるようなスペースを持っているか否かが、仕事の士気にも少なからず影響をもたらすものだ。近所のコーヒー店でもいいし、ホテルのロビーだって構わない。気にいった場所で一人きりになり、日常を見直してみたり、過去のことを省みたりすることにより、ストレスなどで凝り固まった自分自身を解き放つことができるものだ。
 私の場合、そんな落ち着ける場所の一つが、東京・大手町にある平将門の首塚だ。勤め先から歩いてごく数分。境内にあるベンチに腰掛けてひたすらぼんやりしている時間が、何ともいえず穏やかな心地をもたらしてくれるのだ。
 平将門(~940)は、言うまでもなく平安時代中期に一時東国を支配した屈指の豪族だ。「新皇」を名乗って朝廷と対立し、その結果滅ぼされた(将門の乱)。殺害された後、平安京・都大路でさらし首にされるが、伝承によるとその首級が関東に向かって飛び、現在の大手町に落ちたという。
 後に、同地に大蔵省の仮庁舎を建てようとしたり、第二次世界大戦後にGHQが区画整理を行おうとしたりしたが、そのたびに関係者らの多くが謎の死を遂げたことなどもあって、誰も手をつけられない状況となり、今日では晴れて東京都指定の旧跡として、地元のボランティアなどにより維持・管理がなされている。そして、平将門ゆかりの神田明神は、東京を代表する寺社の一つとして隆盛を誇っている。
 しかし、「それにしても、どうして首塚が落ち着ける場所なのか」といぶかしがる声が聞こえてきそうだ。
 実は自分でもよく分からないのだ。境内の一角に所狭しと置かれているカエルの置物の表情が愛らしいからだとか、大手町周辺にこれといった落ち着ける場所が見つからないとか、カフェで時間を過ごすのが何より嫌いといった個人的な事情もある。
 しかし、「日本屈指のミステリースポット」とも称される場所にどうして足を運んでいるのかと聞かれると、明確な答えが出てこない。ましてやこの首塚は、江戸時代には仙台藩のお家騒動「伊達騒動」の当事者、原田甲斐と伊達安芸が命を落としたという悲劇の舞台でもあるのだ。
 あえて言うなら、首塚を参拝する人々の絶え間ない流れの中に身を置いているのが、どこか心地良いことが挙げられる。目立たない場所にある史跡でありながら、数多くの人々が出入りし、どの人も穏やかな表情を浮かべている。場所柄、気難しい表情を浮かべたサラリーマン風の人々が大半を占める街の中にあって、この空間だけはどこか不思議な静寂感が流れているのだ。
 奉納されているカエルの置物には、いろいろな事情を含めて「無事に帰ってきてほしい」という願いに対してご利益があるのだという。首塚に向かい、一心に手を合わせている参拝者とカエルの置物を見ていると、何ともいえず温かい気持ちになったりする。そして、いつしか「私も帰りたい」などと感情を移入したりもする(「何に帰りたい」かは、本人にも分からないのだが……)。
 平安時代中期の10世紀といえば、朝廷の権威の低下と地方武士の台頭という大きな社会の変化が表明化し、人々の不安感の高まりから信仰や俗信への傾斜が顕著になっていた時代でもあった。
 こうした「不安の時代」の象徴的存在として知られるのが、映画などでもおなじみの稀代の陰陽師・安倍晴明(921~1005)だ。生誕の地は明らかではないが、現在の茨城県印西市・猫島が候補地の一つとして挙げられている。仮に関東出身とすれば、同年代の平将門の影がどうしてもシンクロしてくる。故郷の東国に向けた思いを募らせながら首級を飛ばした平将門と、その無念さを継承しながら、呪術によって憑霊「式神」を自由に操ったとされる安倍晴明。いつしか、平安期の関東の紺碧の空に異形のパワーがヒュンヒュンと浮遊する奇跡的な構図が浮かんでくる。こうした巨大な力が、後に徳川家康によって築き上げられた屈指の都市・江戸の誕生へとつながっていったとすれば、どこか痛快だ。
 こう考えていくと、皇居(かつての江戸城)に隣接した場所に平将門の首塚があること自体、実につじつまが合う。風水上屈指の好条件とされる場所だけに、そこに様々な強烈な思いが集中するのだ。その場所で少しでも活力をもらえるとするならば、よく言われるところの「ミステリースポット」の怖さなど、すぐ吹き飛んでしまう。
 むしろ本当に怖いのは、今を生きる多くの無知蒙昧な為政者の所業かもしれない。少なくとも、信念を持って生きた古人の心意気の欠片すら持たない輩が占拠する国会議事堂は、屈指のパワースポットの土地にありながら、いまや滑稽な器にしか映らない。