- 明月堂書店 - http://meigetu.net -

“イイ先生”と“ワルイ先生” 仲正昌樹【第6回】 – 月刊極北

“イイ先生”と“ワルイ先生”

仲正昌樹
[第6回]
2014年3月10日
[1]

 知識人や学者をランク付けしたり、“実力”を比較するのが好きな人々がいる。相撲とか総合格闘技のファンと同じ様な感覚でやっているのかもしれない。当然のことながら、試合をやって勝ち負けを決めるスポーツと違って、学者の“実力”を素人にも分かるようにはっきり示せる基準などない。実験をやっている理系の学者ならまだしも、哲学、文学、歴史学などを専門とする文系の学者や評論家の場合、業績の良し悪し、成果の大小についての客観的に判定することなどできない。同じ専門領域のプロ同士でも意見が割れることが多いのだから、素人向けのランキングなどあり得ない。
 基準もないのに無理にランキング化しようとすれば、極めて表面的な指標、所属している大学のランキングとか、本の売れ行きといったものを持ち出すしかない。当然のことながら、学者の世界には統一的な人事システムなどないし、各大学の学科ごとの専門のポストの振り分けや年齢構成といった問題があるので、大学の“格”――大学の格付けの明確な基準があるわけでもないが――と、本人の“実力”が合っているという保証はない。また、本は、出版社が、著者の知名度やそのテーマへの社会的関心等から売れ行きを予想して刊行するものなので、売れ行きが、著者の学者としての“実力”と比例するわけではない。学者、知識人に一定の知的オーラがあった二十年以上前ならいざ知らず、専門性の高い本は売れず、かなり初歩的な入門書とか、大向こうウケを狙ったものが売れる昨今の傾向からすれば、知名度の高いほど、生半可な学者である可能性は高い。哲学、文学・芸術批評、理論社会学等では、特にその傾向が強い。
 大学ランキングとか知名度を基準に、学者や知識人の格付けをしようとする人間は、その分野に本当に関心を持って自分でも学びたいと思っているのではない、ただの野次馬である。無論、ほとんどの人間には、野次馬的な関心があるので、関心があること自体は仕方ない。しかし、ネットでその手のランク付けを“公表”して事情通ぶろうとする奴は、どうしようもないバカである。
 そこまで露骨でない部類として、自分のイメージの中でライバル関係にありそうな、何人かを挙げて、「○○なんて、Xしかやっていない。それに比べて、進気鋭の□□は、Yの問題で先端的な研究を…」、という感じのことを言いたがる輩がいる。競争が嫌いな私としては、この手の比較をされるのは嫌である――□□ではなくて、○○の方にされることが圧倒的に多い。
 一般論として、学者や批評家は、自分の意見を表明するのが仕事なので、多少の目立ちたがり屋である必要はある。しかし、芸能人ではないので、何をしてでもとにかく知名度があがればいいと思うのはおかしいし、ビジネスマンではないので、本が売れるためなら何でもするという態度を取るのもおかしい。“しかるべき見識を持った人たちの限定的なサークル”の中で、ちゃんとした注目を集めることに一生懸命になれる人間が学者や批評家に向いている。その“しかるべき見識を持った人たちの限定的なサークル”というのがどういうものか明確に規定するのは難しいが、ちゃんとした知識人なら、それについて自分なりの定義を持っていて、そこに照準を合わせて仕事をしているはずだ。自分の活動範囲をきちんと見定められないのは、間違って“知識人”になってしまった人である。
 「比較される」ことに話を戻そう。実際にある学問的な論点に関して明確に対立している――と自他共に認める――相手と比較されるのであれば、致し方のないことである。その覚悟がない人間は、学者になるべきではないだろう。しかし、ネット上での、“学問好きの素人”や“学者の卵”による比較の大半は、見当外れである。その分野のことをよく知らない人に対して事情通ぶろうとして、ありもしない土俵の上で、あまり関係のない人間同士を“闘わせる”ことが多い。自称格闘技通が、知らない人間に対して、どの格闘家が本当に強いかについての自説を開陳するような感じで。
 私の場合、入門書を書くことが多いが、その入門書全体を、同業者らしき人の細かい論点に関する専門的な論文と比較されることがしばしばある。そもそも、入門書と専門的論文を比較しようとする発想自体が、ド素人以下なのであるが、その手の“比較”をする奴は、具体的にどの論点についてなのか明示することなく、「やっぱり仲正なんか、本格的に研究している▽▽さんに比べて、浅いよね」、とか言いたがる――多分、どの論点を比較しているつもりなのか、自分でもよく分かってないのだろう。そういう漠然とした印象論――本当は印象論にさえなっていないのだが――を語ることで、入門書を書いているので一般的に多少知名度のある仲正だけでなく、▽▽さんも知っている自分の通ぶりをアピールしたいだけとしか思えない。
 念のために言っておくと、学術論文でも、『○○入門書』の記述を参考にしたり、批判したりすることがあるので、入門書を専門的な論文と比較すること自体が悪いのではない。どの論点で比較しているか明示しないで、比較ごっこするこが問題なのである。その分野のことをある程度分かっている人間であれば、仲正の入門書のどういう記述の仕方が不正確で、それが入門書として許容されるべきか否かを論じた上で、▽▽さんの同じ論点と比較するという手続きを取るはずである。そういう手続きの必要性が分かっていない奴が、“ド素人以下”なのである。
 もっとひどい“異種格闘技戦”として、全く違う分野の学者同士を比較するというのがある。私は金沢大学の法学類という所で、政治思想史を教えている。他に政治思想史を教えている同僚はいない。比較するとすれば、精々法理学担当の同僚とくらいだろうが、彼とは研究テーマはほとんどかぶってないし、授業内容もかなり違う。また私は、法学部出身でないので、法学・政治学と直接関係ない――例えば、思想史や芸術批評等――仕事の割合がかなり高い。本来、他の教員と比較されようがない。
 ところが、その私を、六法とか行政法、知的財産法などの実定法の同僚と比べて、「仲正は、学外の知名度があるかもしれないが、本当に実力があるのは◎◎先生…」とか言いたがる奴がいる。その場合の“実力”とは何だろう?強いて言えば、県庁や市役所から■■委員の仕事を委嘱されるとか、ゼミ生でいい所に就職した人が多かった、とかだろう。しかし、それは特定の実学的――と世間的に思われている――科目を教えている先生のところにそういう依頼が来て、そういう先生の所にいた方が就職に有利だと思う学生が集まって来るという話であって、“個人の実力”とはあまり関係ない。外部資金を獲得してくるのがうまい先生はいるが、それは科目の性質に大きく左右される。行政法、税法、知財とかだと、行政や企業などから、委託研究の依頼を受ける可能性はあるが、政治思想史はそういうこととはかなり縁遠いし、それほど多くの研究費を必要とするわけでもない。
 まともに考えたら、比較するための共通基盤など全くないのだが、あまり専門的な勉強に身が入らないくせにプライドだけは人一倍高い生半可な学生は、◎◎先生を“尊敬”する―――本当に尊敬しているというより、「◎◎先生を尊敬している私」を美化したいだけのように思えるが――一方で、仲正のようなインチキ教員をけなすということをやりがたる。そういう身振りを見せることで、自分には、ちゃんと「見る目」があることをアピールしたいのだろう。そういう奴にとっては、法学類の中で最もマイナーな科目を担当し、外では多少の知名度がある私は、かっこうのターゲットなのだろう。最初からそういう他ターゲットに設定されているので、授業で厳しい態度を取ると、「ワルイ先生」である“証拠”にされてしまう。「政治思想史はひどいって評判だ。それに引き換え、●●法とか▼▼法はすごく分かりやすいし、学問的な興味が湧く」、と、私の授業に出たこともない奴、二、三回居眠りしながら出席しただけの奴が、ツイッターでツブヤイたり、法学系公認サークルの部室で噂話をしたりする。
 だから、新入生が入って来る四月は憂鬱である。また、新手の悪口を聞かされるのか、と思って、気が滅入る。