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If思考が理解できない人たち 仲正昌樹【第66回】 – 月刊極北

If思考が理解できない人たち


仲正昌樹[第66回]
2019年12月26日
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記事と写真は関係ありません。今年一年ありがとうございました。来年も宜しくお願い致します。

記事と写真は関係ありません。今年一年ありがとうございました。来年も宜しくお願い致します。



 十月末に、ダイヤモンド・オンラインに「『表現の不自由展』で上滑りした『表現の自由』についての肝心な議論 [2]」というタイトルの論説を寄稿した。「表現の不自由展」自体については、今更説明するまでもないだろう。展示反対派・賛成派の双方の議論に欠けている所を指摘する内容だったが、予想通り、yahooコメントやツイッターなどで、ウヨク・サヨクによる、罵倒コメントがいくつかあった。特に、河村市長のファンらしいネットウヨクによるyahooコメントがひどかった。いつものことだが、こういう連中は、自分が偏ったソースから得た浅薄な知識を絶対的な基準にし、それに対立していそうな見解は、よく読まず、やたら偉そうな調子で罵倒してくる。
 その中に一つ、どういうつもりで“批判”しているのか、にわかには理解しがたくて、頭を捻ったものがある。騒動の後の文科省の補助金不交付問題についてである。私はこの点について以下のように書いた。

 文化庁は理由として、「補助金申請者である愛知県は、展覧会の開催に当たり、来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず、それらの事実を申告することなく(中略)、補助金交付申請書を提出し、その後の審査段階においても、文化庁から問合せを受けるまでそれらの事実を申告しなかった」(文化庁ホームページ)としている。/しかし、この文化庁の理屈では、補助金申請に際しては、警備に関わる予算措置まで計算に入れて、そのことを明示しないといけないことになる。/全面的に文化庁所管の予算で行われる“国の事業”であれば、そうした予測を含めた詳細な見積もりも必要かもしれないが、文化庁からの補助金は、トリエンナーレ全体の予算のごく一部である。/ 文化庁が予算の一部を補助するにすぎないのに、事業の安全性まで詳細に把握すべきだとなると、文化庁自身が「安全な企画」についての定義を明確にしておく必要がある。

 これについて、yahooコメントの中に、「重大な事実誤認がある」と“指摘”するものがあった。このウヨクによると、文化庁の補助金は予算の一部だけをカバーするもので、申請に対して交付される、申請内容に虚偽があると取り消される、よって今回の不交付に問題はない、という。とにかく不交付が妥当だということにしたいのは分かるが、私がどういう事実誤認をしたというのだろうか?
 少し考えてみた。自分は全て分かっているつもりになっているウヨクの頭の中で生じていることを正確に再構成することはできないが、恐らく、こいつは、「~であれば、~かもしれないが」という書き方の意味が理解できないのだろう。これは当然、反事実的な想定の下での推論である。私たちは物事を論理的に整理して把握しようとする際、「もし~だとすれば」(A)という仮定を立て、その仮定通りだとすると、「~になるだろう」(B)という形で推論してみる。Bと、話題になっている事実(C)を対比しながら、Cついて分析したり、評価したりする。AとBは多くの場合、現実とかけ離れている。現実にはあり得ない極端ものであることもしばしばある。極端な状況設定にしないと、何が争点であるかはっきりしないからだ。AとBがよくありがちのものだったら、一般的な事実関係の記述にしかならず、批判的検討に繋がらない。
 学校の数学や理科で習う例に即して言えば、現実の世界には純粋な点や直線などないが、幾何学ではそういうものがあると想定するし、純粋な真空状態とか他の物体からの力の作用を受けない等速直線運動など現実の物理空間にはないが、物理学はそういうものがあると仮定して、議論をする。生物学や心理学の実験では、Bという結果を引き起こす可能性がある要因として、A1、A2、A3…などを列挙したうえで、比較対照実験や観察によって、ありえないものを排除して、絞り込んでいくということをやる。文系の学問でも、文学作品の登場人物の行動の動機を解釈したり、様々なアクターが特定の行為を選択する理由を政治学・社会学的に解明する時に、いろいろな可能性を列挙してみて、ありそうにないのから除外していく、ということをやる。法学、特に、刑法のように、厳密に罰則を規定する必要がある分野だと、現実に起こる可能性はほぼないような状況を想定して、それが万が一起こってしまったらどうするか、そのありえないくらい単純化された仮想の状況において働く推論を、現実に起こった、あるいは、現実に起こりそうな状況に適応してみる、ということをよくやる。高層のビルから落ちてくる人をピストルで撃っても、その人が死亡するという結果に影響はないが、それでもピストルで撃った人を、殺人罪あるいは、他の罪名で罰することは妥当だと言えるのか、というような形で。
 普段からまともにものを考えている人間なら、そういう操作は自動的にやっているものである。無論、想定する事例がありえなすぎて、検討すべき対象に応用するのがかえって困難になるとか、逆に、想定しているケースが限定されすぎているといった批判は常にあり得る。だから相手の想定の仕方が、不適切だと思えば、どうして不適切なのか指摘すればいい。しかし、世の中には、〈if~〉で考えることの意味が分かっていない人間が結構いる。ほぼ現実の記述に近い〈if〉なら何となく、分かったような気になるが、現実にはありそうにない、あり得ない内容が、〈if〉の後に来ると、全く理解できなくなる。脳が拒絶してしまうようだ。この手の人間は、恐らく英語の仮定法や条件法はちゃんと理解できていないだろう。
 2010年のサンデル・ブームの際に、サンデルが学生に問いかけるトロッコ問題は、実際にはありえない状況での選択なので無意味だ、と“批判”していた著名な“保守論客”が何人かいた。理論的な思考ができないのだろう。論外である。これよりもう少しましな誤解に、サンデルが、正義論に対する各人の立場を、コミュニタリアニズム、リベラリズム、功利主義に三分類するのは恣意的な誘導だ、というのがあった。これは議論を進めるための便宜的な分類を、実体的な違いと勘違いしてるのである。こういう勘違いをする人は、哲学や理論社会学など、高度に抽象的な思考をしなければならない分野には向かない。サンデルが途中で、便宜的な分類を実体的な違いであるかのように錯覚させるトリックを使っている、という批判であればいいが、「仮に●●という側面に注目して、各人のスタンスを分類するのであれば、大きく分けてA、B、Cが想定でき、それぞれの想定の下で一貫して考えた場合、~」というような思考の仕方が理解できないのであれば、こうした理論的分野の研究者を目指さない方がいい。
 情けないことに、現役の文系学者でも、抽象的なif思考に耐えられない人がいる。法思想史・政治思想史の分野だと、「自然状態」をめぐるベタな勘違いをしている老人が結構いる。「自然状態論を展開しているルソーは、法の発展の現実の歴史を理解していない」、という台詞を、法思想史とか法制史などを“専門”としている“ベテラン”から聞いたことが何度かある。『人間不平等起源論』を訳でいいからちゃんと読めば、ルソーが自然状態を、歴史上のある時代として想定していないことは明らかだ。そんなことは、授業で教わったはずだが、「もし△△というような意味での自然状態があるとすれば、~」と考えることの意味が分からないので、自分の頭の中で、勝手に単純化して、ルソーをバカ者扱いして片づけてしまったのだろう。ホッブズやロックも、「自然状態」が文字通りの意味で実在していたとは考えていなかった、というのは思想史をやっている人間の常識だが、この分野、あるいは隣接分野の“プロ”のはずなのに分かっていない奴が結構いる。その手の連中のご託宣を聞いていると、「ルソーがお前よりバカなはずないだろ、ボケ」、と言いたくなる。その内、本当に、面と向かって口にしてしまうかもしれない。
 If思考ができないのは、ウヨクや権威主義的な学者の専売特許ではない。憲法九条・安保論議で、「もし◇◇が◆◆を攻撃したら、どうするのだ」と聞かれて、「誰がそんなことするんですか、全くありえない。ハッハッハッ…」と、判で押したような反応をするサヨクが昔からいるが、これも同じ病状だろう。「セクシュアル・ハラスメントの範囲をどんどん広めていき、少しでもそれに性的不快感を覚える学生が出てくる可能性があるものは授業で取り上げてはいけないということになれば、『源氏物語』どころか、『古事記』や『今昔物語』えもNGになって、国文学が全滅することにならないか」、というような疑問に対して、「そんな学生は実在しない。セクハラを正当化する悪質な質問だ」、と言ってあっさり斥けてしまうフェミニストがいる。自分にとっての“現実”の「外」で考えることができないのである。自分の“現実”の外からの問いかけをする相手は、狂っているのである。
 因みに、先の愛知トリエンナーレ関係の私の論評について、ヘイトスピーチを研究している明戸隆浩という男――一応、社会学――がツイッターで、もう少しこの間どういう議論が行われたのか調べてから発言した方がいい、といかにもサヨク的に偉そうなコメントをしていた――この男はまだ四十代のはずだが、五十代以上のサヨク知識人には、自然とこの手の偉そうな物言いをする奴が大勢いた、特に東大駒場はそういう輩の巣窟だった。この男は、愛知トリエンナーレの問題の本質は、ウヨクによるヘイトスピーチだと主張し、それがメディアでそれなりに大きく取り上げられていた。それで、自分が議論の中心、基準点であり、それから大きく外れた問題設定をするのは、勉強不足だと思い込んでしまったのだろう。愛知トリエンナーレ問題について語るには、まずヘイトスピーチについて(明戸等の本や論文をよく読んで)勉強したうえで、その観点から意見を述べるべきだと思っていたのだろう。私のように、大前提に立ち返って、「もし〇〇だとしたら、…」と推論するのは、単なる周回遅れなのだろう。久しぶりに「上から目線サヨク」の攻撃を受けて腹が立ったので、「君が議論の基準なの?」という主旨のメッセージを送ったが、返答はなかった。 
 自分の周りの“現実”を「外」から見ようとしない、見ることができない、“天下の大論客”様が多すぎる。