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ネットで簡単に“学習”できてしまう“知的作法” 仲正昌樹【第58回】 – 月刊極北

ネットで簡単に“学習”できてしまう“知的作法”


仲正昌樹[第58回]
2018年9月23日
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 最近、ネットで学者や知識人を標的にした中傷罵倒をする輩と、大した実績がないくせに威張りたがるダメ学者――あるいは、老害で明らかにおかしくなった学者――の物言いに共通の特徴があるような気がしている。特定の学者・知識人を攻撃するために群れている5(2)ちゃんねらーやツイッタラーのクラスターには院生崩れや評論家のなり損ないがかなり混じっているし、自分のことは棚に上げて、(他の)学者・知識人を一方的にバカにしようとするのだから、同じような物言いになるのは当然とも言えるが、どのように似ているのか、似てくるのか一応考えてみた。
 両者の共通点として、まず、「友/敵」の二分法に基づいて、相手への態度を変えるということがある。つまり、ある程度の付き合いがあって、自分の味方になってくれると信じてよさそうな相手か、敵になりそうな相手かを脊髄反射的に選別する、ということである。「味方」であれば自分にとって不利な意見、批判的な意見でも、「まあ、そういう見方もありますね」、というような感じでソフトに受け流す。「味方」なので、言質を取って自分を追い詰めるようなことはしないだろう、と安心しているので、優しい。その逆に、何かのきっかけで「敵」だと思ったら、その人物の発言は徹底的に警戒し、自分にとって都合の悪そうなフレーズが耳(目)に入ってきたら、理解しようとせず、完全に拒絶する。何を言われても、「はっ!おっしゃっていることが分かりませんが」、「基本が違っているようで、お話しになりませんね」というような反応しかない。ただし、揚げ足取りができそうな片言隻句が耳(目)に入ると、それだけはよく覚えている。
 自信がないダメ学者、以前ほど周囲がちやほやしてくれなくなった学者は、防衛本能的なものが強くなり、議論の中身ではなくて、敵か味方かで周囲の人を色分けし、自分が傷つかないようにする。私の知る限り、日本の法学者や哲学者は師弟関係を中心とした家系図的なものに基づいて人脈を作ろうとする習性が強く、実力・業績が伴っていない人間は系統図に過剰に頼る。「こいつは、兄弟弟子だから味方」「こいつは、内の師匠の兄弟子を批判していたから、私にとっても敵の可能性が高い」、といった判断が先に立ってしまう。人間は感情的で、自分で思っている以上に保守的な動物なので、その手の学界マップを脳内に作って、それを行動の指針にするのはある程度仕方のないことだが、それが判断基準の全てになり、相手の主張の中身を吟味する能力になってしまったら、学者として終わりだろう。
 学者になれないでドロップアウトしてしまった院生は、こうしたダメ学者の系図的な発想を批判することが多いが、その自分自身がネット等を通じてサークルのようなものを作ると、自分が批判している学者と同じような振る舞いをするという現象はしばしば見られる。どうしてそうなるのかは説明するまでもないだろう。人文系の院からドロップアウトした人間は、反文系、反哲学、反ポモ、リフレ、反サヨク(ウヨク)などをテーマにしたクラスターに入ると、クラスター仲間の言うことに対しては脊髄反射的にイイネをし、敵認定した相手には、徹底した人格攻撃を仕掛けるようになる。元院生だと、アカデミズムのことを知らない人間に対して知ったかぶりができるので、お山の大将をやりやすい。それで猶更、自分を否定した、権威主義のダメ学者に似てくる。
 ネットの世界というのは本来、直接面識のない人間が情報交換する場なので、系統図的な繋がりはできにくいはずだが、リアルな世界で否定されるのが嫌でネットにかじりついているような人間は、自分と価値観が“同じ”で、誰かをほめたり攻撃したりする方向も“同じ”であり、批判・非難されることはないと分かっている相手とだけ群れたがる。キャス・サンスティンが「サイバー・カスケード」と呼んでいる現象の権化のような振る舞いをするわけである。
 学者になるには、それぞれの学問ごとの研究の方法論を学ばねばならない。その過程で、それとは本来関係ない余計なものも学ぶ。先ほどの家系図的な人脈作りはその最たるものだが、その他、相手を知的にこきおろす、相手の学者としての資質を否定するような決め台詞のようなものも学ぶ。その手の決め台詞は、学問の中身と関係なく、簡単に学習できるので、ダメ学者、院生崩れでも十分使いこなせる。むしろ、その手の人間は、学問それ自体には関心を持っていないので、利いた風な台詞だけはたくさん覚えるということになりやすい。当然、その手の台詞の使い方は、ネット上のやりとりを通して簡単に伝授できる。現役の学者に対しては、(匿名のツイッタラーやブローガーの書き込みであっても)それなりに不快感を与えられるので、とにかく偉そうにしている(ように見える)学者を罵倒して溜飲を下げたい人間に愛好されやすい。
 先ほど挙げた、「はっ!おっしゃっていることが分かりませんが」とか、「基本が違っているようで、お話しになりませんね」が基本形であり、一番よく耳(目)にするが、その他、いろんなパターンがある。
 例えば、具体的な理論とか有名な学術書の名を挙げて、「~を勉強してから(読んでから)、発言してね!」というパターンがある。これは、その領域の事情を知らない人から見ると、不勉強であることをピンポイントで指摘しているかのように見えてしまう。しかし、“批判”されている相手が、実際にその本を読んでいるかどうか、その理論を知らないかどうか本当のところ分からない。単に当面の議論には関係ないと思って、言及しなかっただけかもしれない。また、“指摘”している方がその本や理論を熟知しているかどうかも分からない。単に名前を知っているという程度かもしれない。しかし、学会とか研究会のような場で、早口でまくし立てる時に、こういうフレーズを入れておくと、相手の不勉強を端的に指摘したかのような印象を与えることができる。短時間で短いフレーズが大量に連鎖し、その内に消えていくツイッター上での“論戦”でも、同じような効果があるだろう。
 「はっ!おっしゃっていることが分かりませんが」の、一見より丁寧に見えるヴァージョンに、「何がポイントか説明して頂けませんか」、というのがある。これは、その相手に話の道筋を付けて説明できる能力がないかのように印象付ける効果がある。当然、それを口にしている方がバカで、相手がちゃんと説明したのに理解できなかった可能性もある。しかし学会・研究会で難しい内容について議論をしている時は、同じ分野の専門家である聴衆もあまりついていけていないことが多い。だから、そういうフレーズを聞くと、「ああ、私がバカだから分からないのではなくて、やはりあの人の説明能力が悪いんだ。論理的に混乱しているんだろうなあ」、と勝手に納得しやすい。大御所・長老が言うと、かなり効果的である。その大御所・長老がボケてしまって難しい話についていけないという可能性もあるが、人間は安易な方向に流れがちなので、その大御所・長老の一方的な断言を受け容れてしまう。「あの大先生が理解できないというのだから、やはり、あの人の論理が破綻しているのだろう」、と。
 当然、このパターンは、あまり専門的な知識のない人間が、学問的な問題について偉そうなことを言い合う、ネット論争に応用されやすい。院生崩れのお山の大将のYが、「〇〇先生の御話しは、論点が拡散していて、筋道が立っていないので、にわかには理解しがたいですね」式のことを言うと、ほとんど何も知らないお仲間は、「ああそうなんだ。Yさんが理解できないというのだから、やっぱり〇〇先生は支離滅裂なんだ」、と勝手に納得し、知的優越感に浸れる。
 あと、ありがちなものに、「その議論は周回遅れですね。今頃そんなことを言うなんて。」とか「それは〇〇によって既に論破されています。今頃そんなことを言うとは、勉強不足なんでしょうか」、というのがある。前者については、それを口にしている人物が(勝手に)想定している“議論の進行状況”なるものが、“批判”されている相手の主張とはあまり関係ないかもしれないし、“議論の進行状況”に関する想定自体が見当外れかもしれない。そんな“議論”などそもそもなかったかもしれないし、全然進展してなどしていないかもしれない。後者についても、同じようなことが言える。そういう“論争”があったと言えるかどうか怪しいし、〇〇が論破したと言えるかどうか怪しい。単に〇〇が批判・反論しただけのことで、それによって“論争”に決着が付いたとは、専門家の大半は思っていないかもしれない。しかし、話についていけてない聴衆、よく分かっていない野次馬の素人に対する印象操作としてはそれなりに効果的だ。
 こういう一見知的に見える言葉遣いだけを覚え、得意になって使いたがる“ネット論客”が多すぎる。