- 明月堂書店 - http://meigetu.net -

猫が主役の竹本一家(6)最期の日々そして別れ(2)ペロと五郎 たけもとのぶひろ – 月刊極北

猫が主役の竹本一家(6)


最期の日々そして別れ(2)ペロと五郎

たけもとのぶひろ
2018年7月3日
[1]

五郎

五郎

 ペロのことは何度もくりかえし想い出す。またかと思われるかもしれないが、許してほしい。
ペロを最初に発見したのは連れ合いだった。空き家になっていた隣り——今は解体して更地にして売りに出されている――の土間にいた。声をかけた。 “お出で、ご飯あげるからお出で” と。側までは来なかったが、近寄って来た、ソレがきっかけだったという。最初の出会いからして、ペロはひとりだった。母猫もいなかったし、ほかに子猫もいなかった。連れは母猫とおぼしき猫を見たと言うし、ぼくも近所のおばあちゃんの家にペロとよく似た “八割れ猫” の子どもがいるのを知っていた。しかし、彼らが3人4人いっしょにいるところは、見たことも聞いたこともない。彼らは家族だったのだろうか。
 彼女は、いまだ母乳を必要とする乳呑み子の頃から、なかば放浪の身だったのではないか。我が身ひとつを養い守るのだけで、いっぱいいっぱいの。

 連れ合いに声をかけてもらってから、ペロの生活は一変した。雨露をしのぐ猫ハウスの用意、朝晩のご飯と飲み水、毎日替えてもらえる清潔なお布団、冬は暖房・夏は虫除け、等々。
 そこまで尽くしても人間は、受け入れてもらえない。ファ〜ッと威嚇される。それが1年近く、家の中に連れて入るまで、続く。否、慣れるまでは、家の中でも、しばらくはその調子だった。いくら大事にしてもらっても、ペロの思いは別だったのだと思う。いくら人間に大事にされても、同じ猫といっしょに暮らせないことが、どれだけ寂しかったことか、辛い日々であったことか。以前にも連れの記憶として紹介したように思うが……ペロが家に入れてもらって、そこに「猫がいる」のを見たときのペロの喜びようったらなかった、その表情が忘れられない、という。ペロのその喜びの表現は、過ぐる外での生活の辛さがいかばかりのものであったか、無言のうちに物語っていると思う。

 五郎とニ〜子、とくにニ〜子は、ペロにとって初めて知るお母ちゃんだったのだから、どんなに嬉しかったことか。初めのうちは怒られ脅され、猫パンチまで喰らわされていたが、ペロは決して諦めなかった。根負けしたニ〜子は、ついにペロに告げたのではないか。
 “今日から私があんたのお母ちゃんだよ”
  “おまえのお母ちゃんは私なんだよ”
 と。
 大好きなニ〜子が認めてくれたのである。ペロの喜びはどんなだったろう、喩えようもなかったのではないか。その日から、ニ〜子がペロの世界のすべてとなった。
 五郎はもともとおとなしい猫だったから、三人は仲良く穏やかな日々を過ごした。ペロだけは慢性腎不全の持病をかかえて病院通いを続けながらではあったけれども、ぼくらなりの幸せの日々が何年かは続いたのだと思う。記録を繰ってみると、あの病気もちのペロが、3キロ500グラム以上、600とか700のときもあり、その時期がわりと長く続いている。その数年の間は、なんとか元気を保っていた、ということだと思う。
 思えば、あの頃がぼくら竹本猫ファミリーにとって、いちばん幸せな日々だったのではないだろうか。

 ペロの慢性腎不全が目に見えて悪化しだしたのは、平成27年の5月、ニ〜子の死亡がきっかけだった。ペロは、ニ〜子を求めて長いあいだ泣いていた、2週間も3週間も。あるいは1か月近く、泣き続けていたのかもしれない。
 “ お母ちゃん、帰ってきて!
 お母ちゃん、ニッちゃん、ペロのところに帰ってきて!
 どこに行ったの、お母ちゃん、ここに帰ってきてください、お願いします!”
 ペロは泣いてお願いしている。しかし、ぼくらにはどうしてやることもできない。
 “ ペロ! ペっちゃん!
 ぺちゃんこ!  ぺちゃんこ鍋!”
 と呼びかけるだけでは、あまりにも空しい。だが、何を以て、どうすればよいのか。

 泣けど叫べど、ニ〜子は戻ってきてくれない。五郎を頼るしかない、ペロは五郎の猫ハウスの近くまで来て、その場に座りこんでしまうのだった。それからはどうなるのか。
 ただ、じっと五郎を見ているだけで、黙っている。五郎の眼は、ずっと以前からビー玉のようになっていて、見えないのだけれど、ペロのことは気配で分るにちがいない。二人の間には無言の会話があったのかもしれない。やがてペロは、意を決したかのように、五郎の猫ハウスに向かって真っ直ぐに進んだ。中に入って奥のほうに回り込み、ようやく抱っこしてもらえた。毛繕いをしてもらっているらしい。
 このやり方なら五郎が抱っこしてくれることを、ペロはだんだんに学習していったのだと思う。五郎は眼が不自由な分、ニッちゃんのように、いきなり抱っこのおねだりとか、ごっつんこでも何でもありというわけにはいかなかったけれども、五郎なりに目一杯かわいがってくれたのであろう。甘えっ子のペッちゃんに寂しい思いをさせるのは可哀相だと、思いやってくれたのだと思う。ペロのほうも、そのことはからだ全体で感じていて、必ず五郎の見えるところに陣取って、いつでも側に寄り添えるよう身構えていたのであった。

 それでもやはりペロは、ニッちゃんの死によって致命的な打撃を被っていたのだった。あの後からだと思う。少しずつ少しずつ痩せていったのは。丸っこいのは丸っこいのだけれど、その丸が急に小さくなったように感じた。あれは、ニ〜子の死から半年くらいの頃であったか。ぼくは思わず彼女に呼びかけていた。
 “ ペっちゃん、ぺちゃんこ! 小玉、小玉! 可愛い可愛い小玉水瓜! ”
 それでも体重は、まだ3キロ前後を維持していたと思う。まだ骨張ってはいなくて、丸っこい感触があり、まるで “小玉水瓜” を抱いているような気分がしたのだった。
 丸っこくて可愛いけれど、ちっちゃくなったなぁ! とも感じた。そのことがいつまでも心の片隅にあって、気にかかった。

 ニ〜子の1周忌を迎える頃になると、ペロはじりじりと体重を下げ3キロを切るようになった。見る見るうちに痩せていくのだ。不安を感じた。怖くなった。2キロを切ると、もう悲痛だった。
 例によって、動物病院に通った。平成28年の10月12日からほとんど連日だった。しかし衰弱は進むばかり。皮下点滴では間に合わない、静脈点滴に転換。ところが、点滴器の不具合や操作の不手際もあって、医者はお手上げ状態に陥る。
 10月26日、もはや我慢の限界を超えた。最後の望みを托すところは救急動物病院を措いてほかにはない。この日の夜中の11時にこの救急施設に駆け込んだ。
 直ちに酸素室へ。白血球が4万9000、最悪の事態だと告げられる。もはや時間がない、酸素を供給し呼吸を楽にしてあげるくらいのことしかできない、と。
 病院を出たときは、すでに日にちを跨いで27日の朝の3時になっていた。

 早朝、酸素ゲージ(酸素濃縮器)を取り寄せて、ペロに吸わせてあげる。しかし、チューブから送られてくるほどの酸素の量が、今まさに死にかけているペロにとって、いったい何ほどの助けになるだろうか。
 彼女は息ができない。本当に苦しい。その苦しみを振り切って逃れたい。その願望に、残された命のすべてを賭けるかのような迫力だった。彼女はいきなり起ち上がったのだ。もう骨だけの足腰と胴体。骨を組み合わせた骨格がようやく臓器を抱え、持ち堪えている。
 正視できないまでに変わり果てたペロ。そのペロが、ありったけの力を振りしぼるようにして、後脚2本で起ち上がり、こちらを見た。眼を見開いている。そして、口を一杯に開いて叫んだ。声にならない叫びだった。一瞬あって、そのまま崩れるように倒れ、息絶えた。同じ10月27日の、22時57分だった。

 直ぐに後悔し、許しを乞うた。ほとんどまるまる1日、ペロを痛い目にあわせ、苦しめ続けていたのだった。なんという無慈悲無惨な、酷薄非道な仕打ちであったことか!
 “ ペッちゃん、ごめんなさい!
 少しでも早く、楽になりたかったでしょう、休みたかったでしょう。
 それがわかっていたのに、そうしてあげなかった。ペロ、許してください!”

 ニ〜子の骨壺がある床の間に、ペロの祭壇を作り、1キロ600まで痩せ細ったペロの身体をそこに安置した。ペロがそこにいる間はずっと、身体をさすり、顔をなで、名を呼び、泣いた。涙の源が涸れることはなかった。30日の正午、ペット専門の葬儀屋さんが来て
荼毘に付してくれた。骨は少なく、骨壺はニ〜子のそれよりも一回り小さかった。
 ニ〜子とペロは、骨になってふたり並んでいる。いつも一緒だ、もう離れる心配はない。

 こうしてぼくらは、我が猫ファミリーのかけがえのない家族をふたり失った。
 ニ〜子 平成27年5月14日 死亡
 ペロ  平成28年10月27日 死亡
 ニッちゃんを亡くし、ペッちゃんに死なれるまで、おおよそ1年半のあいだ、ペロ自身、そして五郎も、後に遺された者の嘆きや悲しみがどれほどのものか、苦しみつづけたに違いない。さらにふたりのあとに遺された五郎は、ただ独りで悲しみに耐えなければならいのだった。五郎が独りで悲しみに暮れた歳月も、あたかも申し合わせていたかのように、おおよそ1年半だった。
 五郎 平成30年5月4日 死亡
 猫の場合、堪え難きを堪えたとして、1年半という時間がひょっとしてギリギリ一杯の限界なのかもしれない、などと何の根拠もないことを思ったりした。

 ここで、五郎の最期について書く。ニ〜子やペロとはまったく違った、そのときのことを書いておきたい。平成30年の5月というと、五郎は21歳。人間の年齢に換算すると105歳、聖路加病院の日野原先生の没年にあたる。どれだけ長寿であったか、年寄りだったか分ってもらえると思う。
 その五郎に異常を感じたのは4月22日の夕刻だった。よろよろしておしっこの砂場まで行き着くことができず、手前のところでへばってしまったのを、なんとか砂場に入れて、おしっこはさせたのだが、そのあとがいけなかった。そのままそこで身を伏せて動けなくなってしまった。ほんとうに辛そう。もう力が尽きたと、身体全体がぼくに訴えている。

 家の中を歩くことさえできなくなるかもしれない。覚悟せざるをえなかった。五郎を抱っこした。その体重のあまりもの軽さに、ペロの最期が思い出された。
 ベットに寝かせた。このとき五郎は、小さな声でニャ〜と鳴いてくれた。それが、五郎のいろんな思いを込めた最後の言葉となった。

 その日から2週間は、付きっきりの看病だった。強制給餌、水分補給、皮下点滴(25ccを1日2回投与)。水は最後の最後まで与えつづけた。しかし、強制給餌は4月29日に中止を決断した。皮下点滴も5月1日には投与を断念した。医学的にはもはや為す術がないに等しい。延命治療で患者を苦しめることはしない、と決意した。
 治療ができなくなっても、しかし、看病することはできる、介抱することはできる。
 いつも側にいてあげる、手足を握ってあげる、身体全体をなでたり・さすったりしてあげる、おしっこシートをまめに代えてあげる、溜まっていて気持ちの悪いうんちをほじって出してあげる、生命力の衰えが原因なのであろう皮膚の一部が炎症をおこしたり膿んだりしているところを清潔にしてあげる、とにかく清潔を心がけ毛艶をよくしてあげる、等々。

 4月30日以降の五郎は、つねに生きるか死ぬかの状態に直面していたのだと思う。生命の終わりはすぐそこに迫っていたのだと思う。もう息をしていないのではないか、と何度疑ったかしれない。しかし、五郎は、呼吸をしていたのだ。
 身体全体の神経を集中し、眼を凝らし、耳を凝らして、五郎の今を感じたい、その一心になる。そうすると、伝わってくるのだった。今にも消え入りそうな、頼りなげな、か細くも微かな息ではあるが、五郎はたしかに呼吸をしていたのだ。
 あと幾ばくも残されていない命ではあっても、まだ生きていてくれることだけで嬉しかった。しかも彼は、苦しんでいない。あたかも自分の生命の終わりを受け容れているかのように、ただ静かに横たわっている。そのまま安らかな眠りについたのは、5月4日の19時20分のことだった。竹本五郎の21年にわたる生涯が終わった。

 五郎は、最期の日々を迎えるまでに悩み悩みするなかで、だいぶ以前から、自身に言い聞かせてきたのではないか、たとえば―― “ニ〜子もペロも、病気のために、苦しんで苦しんで旅立つほかなかった。ぼくは何もしてやれなかった。可哀相だった。親の悲しみも苦しみも見ていられなかった。親も可哀相だった。ぼくは、できるだけ静かに眠るように死んでゆくのだ、親を悲しませることがないように……” などと。

 最後に、心優しい五郎のエピソードを書きとめておきたい。
 身体の衰えを感じるなかで五郎は、自分の命も、ニ〜子やペロと同じように終わる日が来るのだと感じ始めていたに違いない。今にして思うと、その頃からではないかと思う、連れ合いへの、細かな心遣いが、見られるようになったのは。
 朝ご飯のとき五郎は、連れの座っているすぐ後ろのところにまで来て、畳に両手をついて待っているのだ、振り向いて抱っこしてもらえるまで。黙って待機しているのだから、気がついてもらえないときもある。そんなとき五郎は、連れのお尻のところを “ちょっとちょっと” と触って ”来てるんだよ” と告げるのだった。
 “ やっと気がついてくれた、これでもう大丈夫、抱っこしてもらえる。“
 五郎は、身体中を喜びにして、連れの胸の中にしがみつく。もう離さないぞ!  と言わんばかりの、その甘えよう、喜びようったらなかった。
 五郎は、20年もの間お世話になったことをどれだけ感謝しているかしれない、そのありがとうの気もちを、思い切り甘えることで伝えたかったのだと思う。

 浦和拘置所を出所して以来、およそ30年。そのうちの21年、3分の2の歳月を、五郎がぼくと共に生きてくれた。いつもいつも五郎は、ぼくを支えてくれた。ぼくを励まし、助けてくれた。五郎、ありがとう!

 五郎は、その最期の有り様をとおして、いのちにとって救いがあるとしたら、その終わり方にあるのではないか、と示してくれたのではないか。
 大いなるもののもとへ帰って、安き眠りにつくかのように、あれかしと。
 ぼくのなかで永遠に生きつづけることができるような、終わり方ができますように、と。
 あるとき「自然に死んでゆくことが肝心なのですよね」と呟いた友人の、その「自然に死んでゆく」という言葉が思いだされるのだった。

 ぼくは五郎の死に直面し、その死を体験した。しかし、ぼくはまだ一度も泣いていない。これからも、泣くことはしない。
 ぼくは五郎の非存在を認めない。五郎は生き続けている。その五郎の生に縋ることで、ニ〜子もペロもよみがえることができるのだ。生命は絶えることなく連なっている。生命の連続性に、猫も人間もない。

 竹本家猫ファミリーは、このようにぼくのなかで生き続けている。
 最後に、追伸めくが報告をひとつ。昨今、別の猫が家の中に入ってきて住んでいる。ペロの家出大騒動のとき、ペロ救出のために石を投げて排除した、外猫のトラである。連れ合いが、あの時のことを、余りにも非情な仕打ちだった、と後悔しての成行きだ。老齢でもあるし、可哀相だ、と。虎猫だからトラだったのだが、福の神であれかしとの思いをこめて、フクと改名している。