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明仁・美智子両陛下に学んできて今思うこと③ 日米関係の闇について③ たけもとのぶひろ【第148回】 – 月刊極北

明仁・美智子両陛下に学んできて今思うこと③


たけもとのぶひろ[第148回]
2018年4月8日
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朝日新聞1948年11月13日朝刊

朝日新聞1948年11月13日付朝刊

日米関係の闇について③

1948年11月12日の判決について、まず見ておきます。訴追された被告人は28人、そのうち死者が2人、精神病者が1人ですから、被告人は25人。判決は、死刑が7人、終身禁固刑が16人、有期刑が2人です。ほかに、容疑はあるけれども訴追をまぬがれた被疑者が19人です。
判決があって一ケ月半ほど時を措いた、1948年12月23日、死刑が執行され、その翌日の12月24日、被疑者19人の釈放がありました。
どうして、この12月23日という日を選んで、死刑を執行しなければならなかったのでしょう。死刑執行がこの日でなければならなかった米国GHQ側の理由は、その日が明仁皇太子の誕生日であること、これ以外にありません。

誰々がどのように処刑されたのか、記録を見ておきましょう。
死刑囚は以下の7人です。土肥原賢二大将(元奉天特務機関長)、松井石根大将(元中支那方面軍令官)、東條英機大将(元首相)、武藤章中将(元陸軍省軍務局長)、広田弘毅(元首相)、板垣征四郎大将(元陸相)、木村兵太郎大将(ビルマ方面軍司令官)。
立ち会った唯一の日本人・花山信勝教誨師に拠って、処刑当日の深夜のようすを略記します。花山氏は、所定の巣鴨プリズン第1棟1階1号室にて待機していました。すでに水とブドウ酒がコップに一杯ずつ7人分用意されています。22日午後11時40分、土肥原、松井、東條、武藤の4名が、2階から降りてきました。異様な姿だったと言います――両手錠を両上股に固定、米兵用作業着、米兵用編上靴、両足を鎖で拘束。仮の仏間にて、最後の儀式――線香をあげ、墨筆にて署名、米国人将校差し入れのブドウ酒を飲み、花山の「三誓偈」読経のあと、米国人将校が4人を刑場へと促したそうです。 “この世の別れ” ということかどうか、誰からということもなく「万歳を……」となりました。「天皇陛下万歳」「大日本帝国万歳」をそれぞれ三唱しました。両腕を上股に固定されたままの、両腕を挙げることのかなわない、生まれて初めての万歳三唱でした。刑場に姿を消し、しばらくあって ガタンと大きな音がしました。午前0時1分を少し過ぎていたかどうか。あとの広田・板垣・木村の三名も、同様の段取りで刑場に引かれていきました。後発組みのガタンが聞こえたのは零時20分だった、と花山教誨師は書いています。12月23日の真夜中、わずか20分余りで、A級戦犯の処刑は終わったのでした。(花山信勝『巣鴨の生と死』)

明仁皇太子はいつどのような状況において、A級戦犯処刑の事実を知られたのでしょうか。
処刑の実行はその日の真夜中です。夜が明けるやいなや、新聞もラジオも、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていたことでしょう。その日は、明仁殿下の15歳の誕生日です。ご自身にとって特別な祝祭の日です。もちろんGHQは、そのことをよくよく承知したうえで、であるからこそ、狙い打つようにしてこの日を選び、その真夜中の零時を期して、死刑を執行しています。なんという悪意! なんという憎悪! でありましょうか。
米国GHQは、昭和天皇の誕生日にA級戦犯被告人28名を特定して起訴状を発送しました。そのうち死刑判決を7名にしぼったうえで、死刑執行は明仁皇太子の誕生日を選んで行っています。東京裁判の節目節目をスケジューリングするに際してGHQは、皇室がらみの記念日を、あたかも韻を踏むかのように、組み入れているのでした。

日本および日本国民に対して彼らは、いったい何が言いたいのでしょうか。
米国・GHQ・東京裁判は、昭和天皇の戦争責任をあえて免じたうえで、A級戦犯死刑囚7名が彼らの命に代えて日本国民の戦争責任を果たしたものと “見なす” ということなのでしょうか。これだと、しかし、昭和天皇の戦争責任も、日本国民の戦争責任も、言挙げて問うことはしないけれども、なかったことにはならない、あったことをなかったことにはできない、責任に終わりはない、という論理になりかねないと思うのですが………。
米国GHQが言いたいのは、次のようなことではないかと思うのです。――戦争責任のあるなしは、日本の天皇および国民が決めることではない。日本の天皇および国民には、先の戦争において犯した戦争犯罪について、いついつまでも記憶し、責任を感じさせなければならない。そのために、将来、明仁皇太子が天皇になってからも、天皇と国民が過去の戦争について、その責任を忘れないように、明仁皇太子の誕生日――次代の天皇誕生日――を “戦争責任を永遠に引き継ぐ日”としなければならない、うんぬんということだったのではないでしょうか。

矢部宏治さんは、くり返し引用させてもらっている『戦争をしない国』のなかで、GHQが東京裁判の日程と天皇・皇太子の誕生日とを符合させることで、何らかの意図を伝えようとしている点について、次のように指摘しています。
「そこには、あきらかに占領軍のメッセージがこめられていました。
「この裁判と処刑が何を意味するか、天皇とその後継者である皇太子は、絶対に忘れてはならない」
7人が処刑された1948年には、すでにドイツをはじめ、イタリア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニアなど、ヨーロッパの敗戦国(枢軸国)の王室はすべて廃止されていました。
日本にだけ王室が残されたことの意味を、自分はどう考えればよいのか。
おそらく明仁天皇は、その後、自分の誕生日を爽やかな気持ちで迎えられたことは一度もなかったでしょう。それはひとりの中学生が背負わされるには、あまりにも重い精神的な十字架でした。」

明仁皇太子は、1945年8月15日、敗戦のその日に、期するところがあってのことでしょう、作文を書いておられます。「11歳の決意」とでも題を付けたくなる内容です。
「いまは日本のどん底です。(略)これからは苦しいこと、辛いことがどのくらいあるか分りません。どんなに苦しくなっても、このどん底からはい上がらなければなりません。(略)
つぎの世を背負って新日本建設に進まなければなりません。それもみな、私の双肩にかかっているのです。」
どん底からはい上がって新しい日本を建設する、日本を背負って立つ、とおっしゃっています。この決意表明から3年余り後の12月23日、15歳の誕生日に、明仁皇太子は、A級戦犯死刑囚の死刑執行という、前代未聞の凶事をぶつけられます。しかし、それにめげるような皇太子さまではありません。米国のその禍々しいメッセージをしかと受け止めたかのように、15歳の春、新任の英語の先生であるヴァイニング夫人に向かって、ごくごく自然に、当たり前のこととして宣言します。I shall be the Emperor. ぼくは必ず天皇になります、と。

これは、少年皇太子の米国GHQに対する、最大の挑戦です。少年は天皇になるべくしてこの世に生を受け、帝王学を学んできました。父である昭和天皇がどういう目に遭っているか、米国GHQの占領下にある日本はこの先どうなっていくのか、おおよそのところは身体で感じつつ、それを承知の上での「天皇になる」宣言だと思われます。
この国は先の戦争で無条件降伏し、いまや米国GHQの支配下にあります。日本を統治しているのは、日本政府でもなければ天皇でもありません。もちろん日本国民ではありません。日本国の主権を握っているのは、米国GHQです。米国が日本を占領している、乗っ取っている、ということです。日本は形だけは日本であるかのような体裁を許されていますが、この国はもはや日本ではない、なくなっている、というのが当時の実情だったと思います。まさにそういう状況のなかで明仁皇太子は、「必ず天皇になる」と宣言しておられるのです。その初心は、忘れようにも忘れることができません。「日本を背負って」「新日本建設に進まなければならない」という決意です、これに尽きます。

矢部さんは上記の文章で指摘しています。ヨーロッパの敗戦枢軸国の王室がすべて廃止されるなかで、日本の王室だけが生き延びた、と。欧州枢軸国の場合、GHQは敵国を占領して王室を斥け、自分たちで手分けをし、直接手を下して統治しています。占領軍は占領目的を達成した段階で撤退し、現地政府に権力を委譲したのでした。
他方、日本は米国GHQの間接統治下にありました。米国GHQは、日本政府および天皇を斥けたわけではありません。日本の主権を公然と奪って直接統治したわけではありません。日本政府および天皇制度・天皇崇拝はもとより、戦前の日本軍国主義時代のものであっても、米国政府GHQが日本を支配するうえで利用できるものは利用し、それらを通して間接的に統治すればよいではないか、というわけです。

敗戦後も昭和の日本は、天皇・政府・官僚・政治家が政治を動かしてきたように見えます。ただ、それは表向きそのように装ってきたからそのように見えるというだけで、日本の政府・官僚・政治家は、そして残念ながら昭和天皇も、米国政府によって裏側から操作されてきた――操り人形よろしく操られてきた――というのが本当のところのようです。敗戦以来今日まで、この国の主権を握ってこの国を操作――ハンドリング――してきたのは米国米軍です。日本政府をはじめこの国の政治的上部構造は、米国米軍と日本国民との直接的衝突を回避するための “緩衝装置”としての役割を果してきた――ただそれだけのことだったのではないでしょうか。

米国米軍GHQとわが国国民との関係を一目でわかるように教えてくれるのが、A級戦犯の処刑とその翌日の出来事だ、と言ってよいのではないでしょうか。というか、米国GHQは、23日の7名の死刑執行と24日のA級戦犯容疑者19名の釈放を、一つながりの、あるいは分ちがたく結びついた “一つの政治行動”として考えていたに違いありません。彼らの主張は二つあります。

一つ。昭和天皇の誕生日を選んで起訴したA級戦犯訴追者28名のなかから、すでに7名を選んで死刑判決を宣告した。7名は、敗戦国日本が負うべき先の戦争の責任を身に体現し、象徴する存在でなければならない。責任をとらせる儀式は絞首刑をもって執り行ない、儀式の日取りは明仁皇太子の誕生日とする。
これをもって米国GHQは、戦勝国として絶対的正義の立場に立つことを得、未来永劫、天皇および日本国・日本国民の戦争責任を問い続ける権利を有する。
一つ。同じA級戦犯でも起訴を免れた19名は、死刑執行の翌日のクリスマスイブに釈放する。岸信介、正力松太郎、緒方竹虎、児玉誉士夫、笹川良一などである。彼らは戦前の「大日本帝国の侵略戦争」「大東亜共栄圏の運営統治」に直接携わった軍国主義者である。彼らの助命釈放は、米国GHQが日本の間接統治にあたって利用するためである。米国GHQの手先き・代理人は彼らに限らない。公職追放者もおいおい追放を解除して利用する。

前者は日本軍国主義の断罪を意味します。後者は日本軍国主義の活用を示唆しています。日本から見るとこれらは、二重基準というか御都合主義というか、論理的に一貫性を欠いているやに思われるのですが、米国にとっては論理が破綻していようといまいと、米国の利益から見れば、なんら矛盾していないどころか、首尾一貫している、そういう理屈なのだと思います。
また上記二点に見る「米国GHQの日本統治戦略」は、「 DIVIDE & RULE(分割して統治せよ)」の原則を忠実に実行しているに過ぎず、支配者としては、当然過ぎるくらい当然の “正解”だったのではないでしょうか。

日本政府は、一見したところでは、つまり表向きは、日本人の政治家と官僚によって統治しているかにみえますが、裏から米国GHQが操作操縦しているのであって、日本のすべてを決定しているのは日本ではなくて米国です。日本の支配者は米国であり、日本はその米国の属国・保護国の身分です。この真実を知らないのは当事国の日本だけで、世界では広く普く知られた事実です。日本国は日本人の国家であることになっていますが、それはフィクションです。フィクションとしてしか存在しない日本、それがリアルな日本の真実です。――世界中の国々と人々が、このことを知っています。
当の日本人であるぼくらは、しかし、本当にこの事実を知らなかったのでしょうか。そんなはずはありません。ぼくらはそもそもの始めから知っていたのだと思います。米軍占領下に始まり今日に至るまでの数十年にわたって、貫徹されてきた――そしてこのところむしろ強化されつつある――この国の、曰く言いがたい “虚構=真実”の姿を! 

実はぼくたちは、ほんとうの日本というものを、感じてきたし知っていたし、そしていまも感じているし知っているのだと思います。ただ、残念なことに、ぼくたちが知っているぼくたちの国・日本について、それはこういう国なのだと、自他に向かって言い切る勇気がない、日本および日本人の真の姿を自分の目の前に置いて正面から正視することができない――正直に言うと、そういう感じではないでしょうか。自分たちの国である日本、あるいは自分自身である日本人に直面しそうになると、ひそかに目を背ける、あるいは後ずさりして背を向けてしまう、逃げ腰になる――そういうところがあるのではないかと思えてなりません。残念です。

明仁皇太子は、しかし、本当の日本および日本人に対して背を向けることはありません。日本および日本人の真実に向かって、恐がらずに進んでいかなければならないからです。前に進まなければ、新しい日本を建設することができないからです。
明仁天皇は、少年の頃からつねに本当の日本および日本人、嘘も隠しもないありのままの日本および日本人を求めて問い続けてこられました。その姿勢を一貫して堅持してこられたと、そのように拝察しております。明仁少年は、本当のことを知りたいと思いました。日本および日本人の、ウソも隠しもない真実を知りたいと、その一心で来られたのでした。大人の日本人は、誠実に答えてくれたでしょうか。エピソードを二つ紹介します。

一つは、矢部宏治さんの前掲書からです。
――「第二次大戦も最末期になった、1945年8月2日のことです。当時、奥日光の湯元に疎開していた明仁皇太子は、戦況の見通しについて説明に来た陸軍中将・有末精三に対して、「なぜ、日本は特攻隊戦法をとらなければならないの」
という質問をされています。(中略)
このとき有末は、最初かなり困った顔をしたものの、すぐに気をとり直し、平然と次のように答えたといいます。
「特攻戦法というのは、日本人の性質によくかなっているものであり、また、物量を誇る敵に対しては、もっとも効果的な攻撃方法なのです」(『天皇明仁の昭和史』高杉善治)
その有末は戦後、GHQの諜報機関への情報提供者となり、戦犯指定をまぬがれて、平成4年、96歳まで生きのびることになりました。
若者に特攻を命じる一方で、自分たちは安全地帯にいて、占領終結後すぐに復活した高額の「軍人恩給」によって生涯安楽な生活を送った戦争指導者たち。その責任をしつこく調査・糾弾せず、結果として許してしまった国民たち。特攻は玉砕や飢死と並んで、私たち日本人のもつ欠点が凝縮された、歴史上もっとも深刻に反省すべき出来事といえます。」

「なぜ特攻なのか」という明仁皇太子の問いに対する有末陸軍中将の答えは、答えになっていません。中将自身、そのことを十分承知したうえで、その、答えになっていない答えを無理やり答えとして押し通しています。早い話、ウソをついています。
なぜ特攻なのか、なぜ玉砕なのか、なぜ餓死者の山を築かなければならなかったのか、それよりも何よりも、どうして戦争でなければならなかったのか――11歳の明仁皇太子は、これらの問いのすべてに対して、誰が聞いても得心のいくような、単純明快な答えを聞きたかったに違いありません。しかし、敗戦前夜の日本の、いったいどこに、この国の真実を、掌を指すように示してくれる人がいたでしょうか。

いま一つエピソードを紹介します。かの12月23日――23日になったばかりの真夜中に、GHQは A級戦犯7名の死刑を執行しました。その夜が明けて24日のクリスマスイブを迎えたとき、世の中はどうなっていたでしょうか。保阪正康さんは『東条英機と天皇の時代』(下)のなかで次のように書いています。
「新聞もラジオも七人の処刑を伝えたが、そのことによって軍国主義が一掃されたかのようなとりあげ方だった。憎悪と侮蔑で七人を謗れば自己証明ができるかのような無節操な論もあった。彼ら七人を謗ることが一切を免罪するかのような意図的論調は、無反省で無自覚な国民心理を培養するだけであった」と。

「夜が明けるやいなや、新聞もラジオも、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていたことでしょう」とぼくは上述しましたが、保阪さんは、その騒ぎの本質を指摘しています。
7名の処刑を伝える新聞ラジオの報道の仕方そのものに問題があったのではないか、と。
保阪さんの示唆に導かれながらぼくなりに考えたところがあります。幾つかに分けて以下に示します。

① 7名の死刑囚の処刑という事実が「軍国主義を一掃する」かのような論調でもって世論
を誘導することは、問題ではないか。この論理は、日本軍国主義の悪の一切を7名の死刑囚に背負わせることの可能性を前提にしている。逆に言うと、7名の命でもって軍国主義の悪の一切を背負うことが不可能となれば、「軍国主義の一掃」など単なる空論である。
② 諸悪の根源はこの7名の軍国主義者であるかのように非難・誹謗する国民は、昨日まで
は自分もまた同様の軍国主義者であったという「自分自身の事実」をなかったことにしているのではないか。それを指摘されると彼らは、騙されていた自分は被害者であって悪くない、悪いのは騙した軍国主義者だ、とどこまでも言い逃れる、自分から逃げていく。
③ 他者の不正を糾弾することが、即そのまま、自己の正義を証明することとはならない。
他者の否定は一つのことであり、自己の肯定はまた別の一つことでなければならない。
他者を謗っている間はいい、自分は危険にさらされないから。しかし、自分のもとへ帰って自分を問うしかない、本当の自分から逃れる道などどこにもないのだから。
④ 国民が他を誹り自分から逃げまくっていると、どうなるか。戦前の軍国主義的なもの・
大日本帝国憲法的なものが、個々の国民のなかで生き残り、生き延びる。この国のぼくら国民が、この調子でやっているから、米国GHQの日本間接統治はつつがなきを得ているのではないか。

ここまで書いてきて気づいたことが二つあります。
一つは、12月23日の死刑執行と翌24日のA級戦犯容疑者19名の釈放とは、間を置かずに一気にやってしまわなければならない事情があったのだな、ということです。
まず、明仁皇太子の誕生日を狙ってA級戦犯7名を絞首刑に処す、世間は大騒ぎになる。その翌日、まだ冷めやらぬ大騒ぎのどさくさに紛らわせるかのようにして、巣鴨拘置所の裏門から同じA級戦犯の容疑者19名を釈放してしまう。
どさくさのなかで秩序を混乱させることさえできれば、普段なら通用しないことでも通してしまえる――だからこそ、処刑と釈放とは、間を置かず、連日・同時でなければならなかったのでしょう。さらに言えば、7名の絞首刑がなければ、19名の助命釈放は難しかったかもしれません。前者があったからこそ、後者がスムーズにいったのかもしれません。

いま一つは、米国GHQの敵国日本に乗り込んで来る際の用意周到さです。
1945年9月、 GHQは日本上陸早々、19日にはプレスコードを、22日にはラジオコードを指令しているのが、それです。新聞出版活動の規制、報道言論への統制検閲が、その目的です。何千何万もの知識人を、この目的のために雇用しています。
国民大衆を米国GHQのコントロール下に置いて、その怒りや不平不満の向う先を日本軍国主義の方向へと誘導する。米国の日本間接統治のために、日本人の間に親米の下地をつくり、日本人を使って日本および日本人を批判させる。日本および日本人を訓練して、米国の従順なポチに育てる。彼らはこれらの目的のために、何をしてきたか、次回から見ていきます。