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明仁・美智子両陛下に学んできて今思うこと① 日米関係の闇について① たけもとのぶひろ【第146回】 – 月刊極北

明仁・美智子両陛下に学んできて今思うこと①


たけもとのぶひろ[第146回]
2018年2月21日
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現在DN-Towerの一角を占めるかつてのHQ司令部(手前)

現在DN-Towerの一角を占めるかつてのHQ司令部(手前)

日米関係の闇について①

 両陛下は生涯をかけて、象徴天皇の道を探究してこられました。ぼくはその足跡をたどり、そのプロセスを学んできたのでした。けっこう長い日々をそのようにして過ごしてきたのでしたが、そのあいだに出会った書物のなかに忘れることのできない文章がありました。『戦争をしない国——明仁天皇メッセージ』(文・矢部宏治 写真・須田慎太郎 小学館)の「はじめに」のなかの一節です。すでに紹介したところですが、以下に再引用します。

 「深い闇を体験し、その中でもがき苦しんだものだけが、長い思索ののち、光のような言葉をつむぎ出すことができる。そのプロセスに例外はない。そうした境地に到達できた人を、私は「偉い人」だと思っています。
 本書の主人公の明仁天皇は、まさにこれまで、そういう人生を歩んでこられた方でした。
 「深い闇」とか、「もがき苦しむ」というと、
 「いまの天皇のイメージに合わないな」
 と、おっしゃる方も多いかもしれません。
 しかし、そうではないのです。これからお読みいただくように、実は現在の日本で、明仁天皇と美智子皇后ほど大きな闇を体験し、その中でもがき、苦しみ、深い思索を重ねた方は珍しいのではないかと私は思っています。」

 ぼくは矢部さんのこの文章にまったく同感です。両陛下は文字通り「もがき、苦しみ、深い思索を重ね」るなかで、光を見いだし、自らが “闇を照らす光源” となって光のお言葉を発信し続けてこられた、その境地に至るまで精進なさったのだと拝察しております。ここまではこのまま得心がいくのです。
 ぼくがよくわからなかったのは、両陛下が「深い闇」「大きな闇」の中でもがき苦しんでこられたというときの「闇」とは何か、ということです。「闇」というこの表現には、どこか人をゾッとさせるような、近寄ると只では済みそうもないと思わせるところがあります。『新明解』によると、なにしろ、「事の真相が闇に葬られる」とか「闇から闇に流れた密約」というふうに使われるのですから。

 その、大きく深い闇の存在について感じたままを、「身の震うような怖れ」と表現されたのは、美智子皇后です。本能的に恐怖を感じられたときの美智子さまは14歳の中学生でしたが、その恐怖の感情を言葉になさったのは、傘寿(80歳)を迎えられた「皇后さまのお誕生日会見・文書回答」においてでした。80歳のご婦人が14歳の少女だったときの感情を語っておられるのです。再引用して以下に示します。
 「私は、いまも終戦後のある日、ラジオを通し、A級戦犯に対する判決の言い渡しを聞いたときの強い恐怖を忘れることができません。まだ中学生で、戦争から敗戦にいたる事情や経緯につき、知るところは少なく、したがってそのときの感情は、戦犯個人個人への憎しみなどであろうはずはなく、おそらくは国と国民という、個人を越えたところのものに責任を負う立場があるということに対する、身の震うような怖れであったのだと思います」

 14歳の少女が襲われた「身の震うような怖れ」の感情は、彼女が「大きく深い闇」の存在を本能的に直観したところから生まれたのではないでしょうか。
「個人を越えたところの」「国家」間の戦争の責任は、戦争に勝った国が、敗けた国の7名の、主として軍人にありと「見なし」、彼らを処刑することによってその――敗戦国として――責任をとらせる、というのは、これはこれでよいのかどうか、と。
 また、米国人が――極東国際軍事裁判所にせよGHQにせよ――日本人軍人の戦争責任を問うて死刑を宣告するということは、米国が日本国の上にあって生殺与奪の権を握っているということであり……となると、この国はもはや天皇の国ではなくなっているのではないか、それはしかし、日本人の国がなくなったということに等しいのではないのか、もしそうだとすると、自分たち国民はいったいどこの国の国民なのであろうか、等々と。
 14歳の少女、正田美智子さんが怖かったのは、何がどうなっているのか、この先に何があるのか、いま自分がどこに居るのか、それさえ分からない、茫漠たる寄る辺のなさ――みたいなものが原因だったのではないでしょうか。
 正田美智子さんの「怖れ」と矢部さんの「深い闇」「大きな闇」とは、同じ事柄の別の表現と受けとめてよいのではないでしょうか。これから、このことについて具体的に見ていきたいと思います。

 まず、天皇(日本)とマッカーサーGHQ(米国)との力関係について、象徴的な事実、余りにも単純明快すぎて解釈の余地もない事実を挙げます。
 「天皇とマッカーサーの会談が行われた場所を見れば、占領期の権力構造は一目瞭然としている。日本の政治家は戦前も戦後も宮中で内奏したが、マッカーサーは一度も皇居に足を踏み入れなかった。天皇との会見はすべてマッカーサーの私邸で行われた。こうした権威の取り込みによって支配者は誰であるかが明白となった。(中略)
 (天皇は)敗戦後何カ月かは自らも退位を検討したらしい。(中略)これとは対照的に、マッカーサーをはじめとする占領軍の有力者は、天皇が退位しないように裏で働きかけていた。改革を推進する上で昭和天皇の存在は欠かせなかったからである。」(ルオフ『国民の天皇』岩波現代文庫)

 GHQ米国は日本に乗り込んできて日本を占領しているのだから、彼らの支配者然とした振る舞いを甘受せざるをえないのはわかるけれども、GHQ側にも天皇の退位を避けて在位を維持したいという、一種の弱味があったとされています。だったら、我が方を利する方向で、その弱味を利用する、役立てる、という発想に、どうしてならないのでしょうか。
 あえて、こう書くのは、この件に限らず、我が国のやり方、やられ方には、こういうふうな――頭から負けてかかる――傾向があるからです。
 例えば、マッカーサーの日本到着1カ月後の1945年9月27日、当時宮内庁の職員だった山本充さんは、アメリカ大使館公邸でのマッカーサーとの会見に自から向かう天皇の車列を見て、これまでにない違和感を感じたそうです。『日本人と象徴天皇』(「NHKスペシャル」取材班、新潮新書)から引用します。

 「「戦時中はね、ちゃんと警衛兵の近衞師団の将校がサイドカーで天皇の車を囲って、それで動いたもんなんですよ。それから、いままではお供でくっついていくお自動車も何台か、ある程度結構あるわけですよ。それが後ろに2台か3台ちょっといらっしゃるだけ。だからまるっきり感じが違ってね、寂しくなっているわけですよ」
 さらに、山本さんが驚いたのは、天皇が乗る車いわゆる「御料車」の色だったという。
 「必ず溜色(ためいろ)の車がお通りになっていたから、黒でお出ましになるとは、自分は思わなかったな。だから、ちょっと、えっと思って。黒なんていうのは、僕はそのとき初めて拝見したな」
 溜色とは、小豆色のような赤のことで、戦前に使われていた御料車は、ドイツから輸入した通称「赤ベンツ」と呼ばれる溜色のベンツだった。しかし、このときのベンツは目立たない黒い色に変わっていたという。」
 こちらからマッカーサーのもとへ出かけて行かざるをえないのは仕方ないし、軍隊がないのですから、護衛は警察によらざるをえないでしょう。しかし、どうして、天皇の車の色まで塗り替えなければならないのでしょうか。まさかGHQが、「赤ベンツ」はダメ、「黒ベンツ」で来い、と命令したわけではないでしょう? 昨日まで敵国であった米国GHQに対して、どうしてそこまで気を遣わなければならないのか、忖度してしまうのか、理解に苦しみます。卑屈、弱腰、臆病、迎合など、認めたくない言葉が頭を巡ります。

 敗戦直後、1945年9月27日に遭遇した出来事をめぐる、山本さんの感慨は、まだ続きます。「今までとはがらっと変わられたなと。今までは天皇様が一番日本の中でお偉い方なんだという教育を受けてきたわけね。ところが戦争に負けたら、今度は天皇様の上に占領軍の連合司令官というのが出てきて、命令に反することができないお立場になっているわけだからね、日本は。ああ、やっぱり戦争に負けるっていうことはこういうことかって」と。要するに、戦争中も敗戦後も同じ裕仁天皇が天皇をやっているが、敗戦後の日本国・日本国民のほんとうの支配者は天皇ではない、この国のほんとうの最高権力者はGHQのマッカーサーなのだ、と山本さんは直観しているのでした。

 マッカーサーは日本上陸直後、GHQによる日本間接統治方針を掲げました。民主主義・自由主義の日本を建設するという方針です。占領当初(1945年)の諸政策を挙げると、戦犯容疑者の逮捕、思想警察全廃、特高警察の全員罷免、治安維持法廃止、政治犯釈放、人権確保の五大民主化改革、農地改革、婦人参政権、授業(修身・国史・地理)停止命令、その一方でGHQ統治のためのプレス・ラジオ言論統制検閲の強化もあります。
 年明け早々の1946年1月1日、天皇の「人間宣言=新日本建設に関する詔勅」があり、同月4日には軍国主義者の公職追放令および超国家主義団体の解散指令が発せられます。
 これら日本民主化の流れは、帝国憲法の日本国憲法への改正へ――同年1946年11月3日の日本国憲法公布・翌47年5月3日の施行へ――と収斂していったのでした。
 「日本国憲法前文」の、特にこの部分――「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの生存と安全を保持しようと決意した」――は、まさしくマッカーサーの理想そのものだったとされています。

 米国の冷戦政策を計画した外交政策立案者として知られるジョージ・ケナンは、著書『アメリカ外交の基本問題』において、次のように述べています。
 「マッカーサー元帥の考えでは、日本に一番ふさわしいあり方は、国連およびアメリカの好意による一般的な保護のもとに、恒久的な非武装、中立の状態に立つことだった。
 マッカーサー元帥は当時、もしソ連の合意を得て日本をそのような立場に置くことができたら、ソ連が日本を攻撃する可能性はほとんどなくなると考えていたようである」と。

 しかし歴史の展開を先取りして言うと、世界は冷戦体制への突入から朝鮮戦争勃発への流れとなり、米国はマッカーサーを解任し、GHQの日本占領政策を完全否定します。
 “軍事も経済も解体し民主化を促進する” 戦略を否定して、 ”冷戦にそなえて経済力・工業力・軍事力を再建する“ 戦略へと転換します。いわゆる”逆コース“まっしぐらです。
 米国は日本の統治主体であるGHQそのものを変えてかかります。GHQのなかの民主的理想主義的なニューディーラーたち、民政局GSのホイットニー准将やケーディス大佐を退場させ、参謀第2部G2のウィロビー少将へと権力の重心を移します。マッカーサーは罷免です。それどころか米国は、GHQに代えて、アメリカ対日協議会(American Council on Japan :ACJ )を組織し、介入させます。ジョン・F・ダレスが暗躍し、CIAの裏工作本格化します。これらは、しかし、先の話です。

 1946年に戻りましょう。日本人は、GHQ最盛期、マッカーサー統治下の日本をどのように見ていたでしょうか。二つ挙げます。
 一つは寺崎太郎という外交官の言葉です。1946年5月、第一次吉田内閣で外務次官となりますが、吉田首相と衝突して翌47年2月に辞職した人です。その寺崎氏が日本および日本政府をどう見ていたか。江藤淳監修『もうひとつの戦後史』(講談社)から引用します。
 「「日本政府」なるものがあったのは、「日本政府」をおいたほうが連合国にとって、日本を占領するのに都合がいいと判断し、その存在を許したからにすぎない。
 占領下の日本に厳格な意味における主権などというものが存在したであろうか。日本の自由は完全にしばられていたのである。」
 「日本政府」「日本の主権」「日本の自由」は無いに等しかった__これが、当時の外交官の証言です。

  では、誰が、どのようなからくりでもって、日本を統治していたのでしょうか。山本武利氏の『GHQの検閲・諜報・宣伝工作』(岩波書店)の結語部分を紹介します。山本さんは、「マッカーサー政治と日本および日本人」について次のように総括しています。
 「マッカーサー占領初期にはニューディーラーを配置し、マッカーサーの支配した全期間を通じて、民主主義を浸透させる基本方針は貫いた。マッカーサーや彼の意を体した参謀や幕僚たちが黒子に徹し、天皇をはじめ、政治家、役人そしてメディアを陰で操作・誘導させたからこそ、日本人によるアメリカ人のための日本のアメリカ化が促された」と。
 ここに、はっきりと書いてあります。マッカーサーが民主主義の名のもとで行っていたことは、米国がマッカーサーのGHQ組織を総動員し、彼らによって「日本の天皇を」「陰で」「操作・誘導させ」、かつ日本人の「政治家・役人・メディアを操作・誘導させ」て、米国および米国人の利益を図った、ということです。
 とはいえ、こういう統治構造――マッカーサーが目指した間接統治方式――を仕上げるまでには、少なくともその土台を整備するだけでも、1946年から1948年まで、3年前後はかかったのではないでしょうか(1945年の4カ月は民主化一色だとして)。米国としては最低限、敗戦国日本の戦争犯罪問題を処理し、日本国憲法を制定し、そのうえで米国による日本支配――「間接統治」方式――を確立しなければならなかったのですから。
 こうした問題意識から注目すべき点を幾つか見ておきたいと思います。

 1946(昭和21)年の元旦は、天皇人間宣言(天皇の神格否定)から始まります。その3日後の1月4日は、すでに示したように軍国主義者の公職追放令・超国家主義団体の解散指令です。1946年の民主化の流れを引き継いでいます。この流れに目を奪われる余り、重大な決定が隠されてきた嫌いがあります。すなわち、「1946年1月29日、GHQは琉球列島(奄美大島を含む、尚、米国人は沖縄のことを琉球と言う)を日本本土から分離し、日本の行政権を停止する」と年代記にあるのがそれです。つまり、米軍は日本占領後の4カ月にして、早くも沖縄を軍政下に置き軍事支配している、ということです。彼らは日本を降伏させる以前から、沖縄は重要軍事拠点として占領して直接統治する、日本本土については表向き天皇を立てた間接統治をもって臨む、と決めていた、ということです。
 分断国家と言うと、朝鮮半島・ベトナム・ドイツ・中国などが想起され、日本はそうではないかのように思い込んでいますが、敗戦以来今日に至るまで日本はずっと分断国家だった、ということです。米国の世界戦略が日本を ”Two-Japan” Policy によって縛り上げてきた、ということです。

 このように本土については、表に天皇を立てておいてその天皇を裏で米国が操作する、間接統治というのが彼らの方針ですから、昭和天皇は戦争犯罪から完全に無縁でなければなりません。米国の日本支配のためにこそ、昭和天皇に瑕疵があってはなりません。米国が万遺漏無きを期して事に当たったことは、以下に明らかです。
 1946.4.29 GHQ国際検事局、A級戦犯28人の起訴状を極東国際軍事裁判所に送付。
 1946.5.3 極東国際軍事裁判所開廷、28名出廷、天皇は訴追せずと言明。
 1946.6.18 キーナン検事、ワシントンにて天皇を裁判しない、と言明。
 ここで注目すべきなのは、28名のA級戦犯を特定して起訴状を送付したことよりもむしろ、昭和天皇を訴追リストから除外したことです。それも、わざわざ4月29日という昭和天皇の誕生日を選び、その日に誕生日のお祝いよろしく、天皇の戦争犯罪はなかったことにする、と告知したことです。加えてそのあとも “天皇を裁かない“ とくり返して、恩に着せています。正直な話、昭和天皇は “助かった!” と思ったのではないでしょうか。米国は自らの日本統治戦略を進めているだけですが、昭和天皇はGHQマッカーサーの本心を知らないわけですから、命拾いをした、助命された、と勘違いしたのかもしれません。
 後日談めきますが、戦後30年の節目にあたる1975(昭和50)年の10月、昭和天皇が訪米したときのことです。ホワイトハウスでの歓迎晩餐会(フォード大統領夫妻主催)に臨んだメッセージの中で、陛下は次のように語りかけています。「……あの不幸な戦争の直後、貴国が我国の再建のために温かい好意と援助の手を差しのべられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べる……」と。

 このように昭和天皇は、本気で恩義を感じ、感謝しています。ただ、昭和天皇の米国への “感謝” は、これ以外にもあって事柄は深刻です。たとえば、「沖縄メッセージ」と呼ばれている文書があります(正式には「琉球諸島の将来に関する日本国天皇の意見」)。
 文書には1947年9月22日の日付が入っていますが、それが発見されたのはおよそ30年後の1979(昭和54)年のことだそうです。当時の筑波大学教授・進藤栄一氏が、アメリカ国立公文書館で発見し、論文「分割された領土」(『世界』1979年4月号)において発表したとされています。文書の要点は以下の通りです。
 • 天皇は、米国による沖縄軍事占領の継続を希望している。
 • 天皇は、米軍の沖縄占領が米国の利益であり、日本の防衛に資する、と認識している。
 • 「沖縄に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残存retain させた形で長期longterm の(25年から50年ないしそれ以上の)貸与lease をするという擬制fictionの上になされるべきである。」
 日本の天皇たる者がこんなこと――昨日まで敵国だった米国の沖縄本土分割統治戦略――を真に受けて、自分から進んで①②③の文言を本当に発したのだろうか、というのが、ぼくが最初に感じたことです。ありえない、と思いました。

 この文書は、いったいどのような経過をたどってアメリカ国立公文書館に所蔵されるに至ったのか、その経緯を見ておきます。NHKスペシャル取材班の『日本人と象徴天皇』(新潮新書)によると、「天皇の意見をアメリカ側に伝えたのは、御用掛として天皇・マッカーサー会見の通訳も担当した外務省出身の寺崎英成である。伝えた相手はマッカーサーの外交顧問ウィリアム・シーボルト。シーボルトがまとめてメモとして本国に送ったものが残っていたのである」とのことです。
 日本側は天皇とその側近であり、GHQ米国側はマッカーサーとその側近です。両者の間にどういうやりとりがあったのか、そこまでは明らかにされていませんが、そのやりとりのなかで、この文書が作成されたのであろうと察せられます。文書作成の眼目は、誰が見ても明らかなように、米軍による沖縄の軍事占領の正当性の主張にあります。だとすると、文書作成の動機は米国側にこそある、ということにならざるをえません。天皇としては、米軍による沖縄の軍事支配の既成事実があれば十分であって、事改めてその事実を文書化して正当性を主張しなければならない、その必要性がない、動機がない、ということです。

 しかし、「沖縄メッセージ」は「天皇メッセージ」とも別称されており、文書の内容は天皇が発した言葉とされています。おかしなことです。これは、どういうことなのでしょうか。米国GHQの方から、天皇に対する働きかけがあった、要請があった、と考えるしかありません。然らば何と? メッセージはGHQマッカーサーの発意に拠るものではなくて、天皇が自分から発言したメッセージをGHQマッカーサーが聞き入れた、という理解でいきたい、そういうことでいいのだな、と。
 もっとあっさり言えば、天皇は米国の利益になることを日本の利益として主張してくれたのだと――それが「沖縄メッセージ」に対する米国側の理解だということです。
 もちろん、これは推論の域を出ません。事柄の真相は闇の中です。しかし、この種の「闇」の存在が、日米関係の本当の有り様を見えなくしてきたのではないでしょうか。

 「闇」の中だから発覚しないと思ってかどうか、GHQと昭和天皇の「沖縄メッセージ」関連のやりとりは、日本国憲法(1947.5.3施行)を無視し、日本政府の頭越しに行われています。GHQを産みの親とする日本国憲法は、天皇の国政関与を禁じています。GHQも昭和天皇も、日本国と日本国民をナメているということです。
 あまつさえ、米軍の占領のおかげで日本は分裂国家にならずに済んだ、なんて! 冗談も休み休み言え! と言いたくなります。